この時期、小学校から中学校へ、また中学から高校へ進学を決めていく子達がいます。その子達は「地域の公立」へ進学していきますが、共通している点があります。

 

それは「定型の子供たちの集団社会のなかで、ほどほどに対処ができている」という点です。

 

2歳や3歳ごろからの早期療育や家庭でのSST、ソーシャルスキルトレーニング的な赤裸々な親からの定型と非定型の違い、すなわち大勢の同級生と自分との違いの理解、自分の良さや強みはどこにあるのか、の自信の積み重ね、学校内での自分のハードルに見合った居場所(支援級)、学校外での居場所(強みである習い事の教室、不登校での家庭、フリースクールなど)を得る、など、複数の「安定的要素」を備えたことで「ほどほどに、突出した不適合が少ない状態」で年々、落ち着いていく様子を見せている子が「学校組織を小学校から別組織の中学、中学から別組織の高校」という集団組織へスムーズに移動できています。

 

逆に言うと、上記の「複数の安定的要素」を備えることが遅れている子達に関しては、その部分がネックとなって、進路にも影響を及ぼしていたりします。はっきり言うと、同級生との間柄に少し精神的な、あるいは定型社会の認識・常識的な距離が開いてしまっていて、そこが「お互いに思春期」の子供たちには軋轢となることもあり、互いに受け入れ難い状況で「親しくなれない」「むしろ嫌煙する」という結果になっていることがあります。

 

そうなると、そこがネックとなり、同じ地域でそのまま一緒に同じ組織に上がっていくということが「今の困難な対人状況をそのまま持ち越す」ことを意味するため、子供たちが異なる進路(私立や越境しての進学、フリースクールなど)を希望することもしばしばあります。

 

この点でいつも感じるのは、どんなに学校や先生が気を配り、個別に子供たちに話をしても、定型の子供たちも非定型の子供たちも「それぞれに」自分の気持ちがあり、相手のために自分が折れて我慢して引く、ということは「子供であるゆえに」また「思春期であるゆえに」そうそう簡単にできることではない、また冷静に「はい、そうします、歩み寄ります」という大人な対応もできることはほぼない、ということです。

 

自分の実の親にでさえ、理由なく、臭い、とかうるさいとか、大人として尊敬できない・不完全じゃないか、とか子供がイライラ、むかむかする精神的に不安定になる思春期です。これが同級生にも同じように矛先が向く、ということもあり得るわけです。そしてそれが小学校高学年、5年生や6年生の子達の間で起こってしまった時にはかなり互いに熾烈で悲劇的であったりもします。

 

小学生はまだ、中学生や高校生のようにどの子も心はまだまだ、育ち切っていません。ギャングエイジの名残りもあり、人の上に立つ、リーダーシップを取る事の優越感や他の子を下に見ること、自分を誇示して自分より下と見る子を劣っていると言動すること、優れた相手を素直に認められず言動で攻撃すること、大勢と異なる言動をする子を変だと言い嫌煙すること、そういうことが起こりやすいです。ギャングエイジとはそういう攻撃的であったり本能の醜い部分もさらして争うような「子どもならではの」成長時期であり、理性でそうした気持ちを押しとどめようとか、言動すべきではない、という善悪の観念優先での対応もまだ、大人が望むようにはできない「子どもっぽさ」が残る時期です。

 

よって、この時期に

 

同級生との精神的な差が1~2歳ほどある、または集団生活の中で不適切な発言や服装や身だしなみに不潔さが際立つ、または他人が不快に思う行動がいくつか頻繁に出ている、授業などで大勢の時間を多々使ってしまう(先生が個別に対応しないといけない時間が多くなる)、意図的でなくても、授業中または子供たちが楽しく遊ぶ自由時間に、非定型の子が泣き叫びや激高等の情緒不安定などで大勢の子達の気持ちが沈むような言動を取ってしまっていることが「頻繁に」起こる、などがあると、定型の子供たちにもギャングエイジを経て落ち着き始めている成長著しい子達もまた増えていく時期でもあるため、楽しく何事もなく過ごしたい、という思いがこの時期は強くなるのもあり、非定型の子が落ち着いていない状態でクラスに在籍している場合は「その大勢の安定志向とのギャップ」ゆえに、疎まれることが出てきたりします。

 

子供たちがお互いに精神的に余裕のある状態でよいムードのクラスであれば、あるいはこうした情緒不安定な子も受け入れられる「学級内の器」があるかもしれませんが、習い事や塾、英語やIT授業も含め学校の授業内容自体が急速に増加している日々の生活の中で、そうそう余裕がない子達も多い現代では、それが期待できないという現実も多々あります。

 

こうなる前に、親族の子達は早々にクラスから撤退することの方が多いです。もっと言うと、低学年で支援級に入っているのは、こうした上に書いたような「高学年になってから同級生達と安定的な生活ができるように」下準備をするため、とも言えます。非定型の子達が支援級で下積み生活を送っている間に、集団生活で知っておくべき常識や知識のなさをカバーしていき、自分が他人と違う部分の活用法や工夫でマイルドにしていく、自分がその「違う部分」を否定的にとらえず、時には「強み」として利用していく、そういう経験を学校外の習い事先や家庭、気の合う学校外の小集団などで自分のものにしていく、ということに集中しています。

 

この「下準備」はとても思春期時期の集団生活では絶大な効果、大きな影響力があります。つまり、集団生活の中で受け入れられやすい非定型の要素を持った人物として、共存していける状態になりやすい、ということです。

 

ですが、親族の子達全員が全員、うまくこうした低学年から中学年の下準備を経て高学年、または中学、高校での集団生活へ合流できているわけではありません。

 

人との出会いは偶発的であり、また人の心も支配不可能なものです。不運な出来事や、親族の子達のこだわり、否定的な精神状態をさらに偶発的な対人関係上のあれこれによってネガティブに刺激されることが多ければ、そこで心身のバランスを崩してしまうこともあります。そうなると、そこでフォローをする日数が必要となってくるわけであり、また回復するまでの期間にも自分の特性と向き合う必要も出てきます。それは思春期の子達には非常に難しく、また大仕事となります。

 

主に人間関係において、定型の集団生活というのは時に厳しく、非定型の子たちは「ギブアップ」してしまう時があります。そのギブアップは「二次障害の発症」とともに明らかになりますが、そうなると回復に時間が必要となりますので、できる限りそうなる「前に」大人が子供たちの日々の様子を見て、「これは集団生活の中で、たとえ頑張っても、独り相撲となり無理な要素が多い」と判断した場合には、すみやかに環境を変える、精神的にも身体的にも落ち着ける、「自分の課題とゆっくりと向き合える」状況を作り出すことにしています。

 

それが支援級への避難であったり、不登校であったり、フリースクールなど外部の学習・生活組織で過ごすことであったりします。

 

無理に定型の大勢の集団の中で「なんとか無難に過ごせるように」と親の方で願っても、思春期集団の中にいるわが子も思春期であり、その世界は綺麗にはまとまりません。お互いに傷つけあう時期でもあり、また思春期の子が苛烈に親を厭うように自分の子が同級生から厭われることもあります。そのまた逆に、自分の子が特性を全開にして「許せない!」とか「わかってもらえない!」と持論を展開して同級生を敵視したり、同級生どころか先生にも不信感を募らせ、疑心暗鬼となったりと、にっちもさっちもいかないということもあります。

 

対人関係、人とのコミュニケーションというのは思春期のだれにとっても難しいものであり、発達に凸凹がある親族の子たちならなおさら、より難しいのです。なので、「普通じゃない精神状態の思春期」に上手くやってほしい、とは大人側も思っていません。同級生にも同級生なりの成長過程での葛藤というものがあり、それは人に優しくとか、言うべきじゃないとか大人が言ったところで、子が大人に反抗する時には「クソばばあ!」とか「いなくなれ!」とか「お前なんか生きてる価値もないんじゃないの!」とか(すみません、汚い言葉を書いてしまいまして)とか、想像を絶する口攻撃が繰り出されるのと同じで、何を言っても火が付いた思春期の子達に響く言葉がない、というケースも多々あるわけです。

 

そうした発言を許さず、きちんと指導し対処しても「心の中まで」指導が届いているわけではないので、表面的には儀礼的に収まっても、心の中では罵倒し続けるのと同じで、これが同年齢の子供となると「大人の前では儀礼的にごめん、と謝ったり口攻撃や嫌な態度は取らない」とわかりきった善悪については約束しますが、子ども同士の遊び時間や普段のやり取りでは何気にぽろっ、ぽろっ、と出てしまうものです。

 

それがお互いを険悪な状況に追いやったり、または打ちのめされたりもします。それが子供の世界でもあります。

 

集団でいじめになるような事態は大人側として認められませんし集団社会ではそれを実行させない指導力がいりますが、一方で、個人、個人の心の中までは大人はコントロールできません。思春期とはそういう難しい時期です。

 

ですので、クラスの中で自分だけが孤立する、とか仲良くできる相手が一人もいないどころか、批判的、または嫌煙されるような状況に陥るのだとしたら、「その環境にいることで精神的に大きく打撃を受ける=特性が刺激され、自分に自信をなくす」というような状況に陥りやすいので歓迎しませんし、あっさりと引く、少し別の場所で修業というか、休憩というか、ゆっくりやり直しをしてから、またお互いが平静、平穏になれる時期に合流するというような手法を取っています。

 

これは親族では普通にやっていることですが、この定型集団社会の中で実行しようとすると、それは「異質」なものとして受け止められることが多いです。ですので、すすめるわけではありません。私達は自分たちが「できる範囲で」

 

 

・同じ思春期の子達に多大な「妥協・我慢」」などを強いない、他人はコントロールできない、と理解して我が子側でオリジナルの対処を考える

 

・心身のバランスを崩した子を親がフォローできるうちに、軽い打撃程度の悪化しないうちに避難する

 

・子供の人生は長いので、「今だけ」を良くするのではなく、成長した「高校・大学・社会人」あたりの安定を最優先に目標を置く

 

・乳幼児期、児童期、とくに小学校時期は自分理解のためにも失敗は多くあって良いのであり、そこから学ぶようにする

 

・小学校時期は、特に周囲の同級生の「本音、素の人間の内側」がのぞける時期であり、そこから人の不完全性や未熟性を学び取る(完璧な世界がない現実をしっかりと理解するネタとする)

 

・人間関係の渦中に「ずっといる」のではなく、ある程度距離を取って自分自身が精神的に余裕を持てる状態で自分について学ぶ・学科の勉強を身に着ける(支援級やフリースクール、学校外の公的学習補助機関の活用)

 

などをやっています。

 

精神的に大きな打撃をこの思春期に受けすぎると、鬱病や自己否定、自信喪失などの二次障害の極に達して、そこからの回復に何年も要するようになり学習や自分への理解、心身が安定した状態での社会生活を送る、ということが難しくなり足踏み状態になり、それは本人にとっても直接フォローをしなければならない親にとっても大変になってきますので、そうなる前に子供が追いつめられない状態を、大人側で調整していく必要は出てきます。子供は自分で選べない・自分を救えないことがほとんどだからです。唯一自分からできるのが学校へ行かない、という手段を取ることなのかなと思います。

 

以上、今日は子供達の思春期の難しさとその中で生きる事、影響などについて書きました。これは定型・非定型に関わらずどの子にとっても、また対処しフォローするどの大人にとっても難しい時期だ、ということが大事な点だと思います。

 

 

 


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