今年の春は、親族の子供達が幼稚園か保育園に入ろうかな、という年齢の子が多いです。主に都心近くの核家族の親族達が悩んでいる点について、今日はUPしようと思います。(夏休み明けぐらいから、文章がまとまらず、下書きを何度も書き直ししましたが無駄に長いです。文章力のなさにどうかご容赦ください。)
定型のお子さんの場合、社会性を身につけるためや、お友達がほしい、という理由などで2歳ぐらいから幼稚園のプレに通ってみたり、親の仕事の都合で0歳児でも保育園に通うようになることが増えていると思います。
親族の両親も話していましたが、住まう地域の幼稚園はほとんどが2歳児対象のプレを実施しており、そこに通う子はそのまま3歳児からのいわゆるレギュラーの幼稚園に入園していく感じです。保育園の場合は、場所によっては認可に入れない状態なので、無認可などの預け先を見つけて利用している感じです。
発達凸凹が顕著な、
・マイペース
・友達というものがわかっているのかわからないのか・・・子ども達の中で共に遊ぶ様子が他の子と様子が異なる
・自分の遊びやおもちゃには執着が強いけど、周りの子と触れ合うことは関心が薄い
・どちらかというとおもちゃを取られると激高する、仲良く使う、お互いにどうぞ、をしあう真似事を楽しむ、とかのレベルではない
・・・そういう子を持った親族達の悩みどころは、「社会の中に入れるタイミング」です。
夏休みや冬休みに帰省してきた親族には、相談された際には「どんな選択でも自分達で試しながら考えていけばいい。進路変更はいつでもどんな時でも『親側に勇気と行動力さえあれば』可能だ。」とは伝えています。一度決めた進路をその後、例えば入園後などに退園や転園などで変更を検討するには、「定型の普通路線から下りる、横道へそれる」「仕事の都合とかみ合いにくく、預け先を見つけるのが大変」という親側の精神的ストレスがかかるような、勇気も行動力も必要とする現実と直面します。その側面も、「その親族の精神的な肉体的な、技能的なポテンシャル、どこまでやれるか」という親の個人の問題としても向き合う必要が出てきますから、無理はできません。
そのうえで、情報の一つとして、親族の、すでに小学校や中・高校、大学に通っている成長した子達を参考にして伝えられることも、一応伝えておきます。
まずは
「子供のタイプが集団社会で学べるタイプか、気後れして後退するタイプか」という部分を考えることは、現実的にとらえるという点でとても大事です。私達の発達凸凹の特性がある親族の子達は、明るく無謀に前向きなADHDタイプを除くと、結構多いタイプとして「たくさんの同年齢の子達とまじると、急に、失敗したくない、負けたくない、自分ができない部分を認めたくない、もしかしたら自分はできないかもしれないという1%の失敗の可能性すら許せない」という極端な感じになる子が一定数います。一人でいるとそういうことを考えず伸び伸びとしていても、集団の中に入ると、とたんに様子が変わる。そういう子が一定数いるわけです。
こういう子の場合、集団に入れるとどんな風かというと・・・
・固まる
・誰が何を言っても、先生が指示をしても、やろうとしない
・逃げる・脱走する
・おちゃらけてごまかす
・うろうろ離席したり、知らない顔をする
・やるけれど、先生の指示を無視してマイペースに好きにやっている
・始終上の空で、何をしても先生の指示からかけ離れた的外れなことを繰り返す
など、集団ルールや指示を逸脱したり、拒否したり、無反応になったり、ぼーっとしたりします。理由としては
もし、ちょっとでもやってみて、周りの子よりできなかったら?
もしちょっとやってみて、わからなかったら?
見てると・聞いてるとなんだか複雑そう。できそうにないなら、やって恥をかくのは嫌。
絶対、他の子より上手くできない。一番になれない。
きっと完璧にできない。先生からバカだと思われる。
周りの子や先生の動き、指示も、色も、いろいろ入ってくる情報量が多すぎて処理しきれない。わけがわからないよ!
みたいなことを、延々とぐるぐるしているケース、多々あります。これは結構、大事な心の部分の、その後のケアが必要かどうか、につながります。
無理に集団社会に放り込んで「学んでおいで」と家から出すと、大勢の子達のそのまた大半が「少し失敗してもすぐ忘れる」「失敗しながら学んで成長する」「多少騒がしくても、幼稚園なんて同世代なんてそんなもの」として成長していくのに、親族のタイプの子達は「1%でも、ほんの少しでも失敗したなら、百ゼロ思考のせいで、大失敗、自分はクラスで一番だめだ、先生に失望されてる、みんなからバカにされる、自分はダメなやつだ、思った通りにできないことばかりだ」「他人の動きも声も、教室内のカラフルなデコレーションも、いろいろありすぎてアップアップ!」という立ち止まりをし、そのネガティブな精神状態での経験を年数分、積み上げていくことになり・・・
結果的に、小学校に入学するぐらいまでの幼稚園に通った1年間、2年間、3年間分の不安定な体験が、その後に「自信を失った傷、トラウマ」「混乱した状態で集団=わけがわからないという図式」を身に備えた状態にしてしまう、ということにもなりかねないのが、この子達の難しいところです。
発達凸凹の子はどこかで理想主義、完璧主義、思い込みが深く、また自衛的に混乱を避けるために泣いたり騒いだりして「静かな環境、怖くない・不安のない自分の安心できる空間」を求めるため、他人、大人の意見を取り入れない、自分の自閉の世界にどっぷりいる・・・というような年ごろですから、閉じた世界でこうして悶々と自分の至らなさや混乱を感じてしまうと、このよかれと思って幼稚園や保育園に入れた集団生活が逆効果になってしまいます。
その後のことについても、ある程度私達も失敗体験がありますから、どんな風になりがちかということを書いておきます。私達、親や祖父母世代に多い例です。
乳幼児期に定型の子達が大勢いる、定型そのものの社会に乳幼児から入って頑張る中で自信を失っていくと、その後どういう行動を子どもがとるかと言うと、子どもですから自分なりに集団の中で傷をこれ以上深めないために・・・集団社会から離脱する方向に舵を切ります。自分を苦しめる場所から、無意識に遠のく言動をし始めます。具体的には教室に居られないような泣き叫びや立ち歩き、今では珍しくない「不登校」を自らしていく、という行動につながりがちでした。
定型の世界では、年齢が上がれば上がるほど同級生の社会性のスキルは上がり、友人関係は広がり、そんな中でサバイバルするスキルを身に着けつつ学校の学習をどんどん進めていく、部活や塾通いや習い事もこなす。そういった色んなことを起用にマルチタスクをこなしていくのが多くの子供達ですが、発達凸凹の子はシングルタスク傾向が強く、得意な分野に集中すると伸びますが、まんべんなく、多くのことを学ぶ定型の教育システムの中ではマルチタスクを求められるので混乱し、成長がゆるやか、つまり遅くなることがあり、差がますます開いく傾向があります。(注:支援級でマイペースに学んだり、普通級にいても家庭や療育などで「自分なりのサバイバルスキル」を積み上げてきた場合はのぞいて書いています)
発達凸凹の特性のある子の場合、小学生という学童時期に、ちょうど物や知識への追求欲が落ち着いてきてその次の発達段階に突入することが多いので、「友達がほしい」と思い出す対人関係・社会性への扉が開く時期にさしかかる頃・・・つまり、運悪く、人付き合いに興味が出てきた頃に過去の集団生活の経験の中で自信に欠いた子、というのは、周囲との差、優劣を気にして、「自分はだめだ」「自信ない」と、さらに先に進むこと(成長)に怖気づいてしまうことにつながっていきます。人付き合いを頑張ってみても、過去の乳幼児期のごくごく今まで積み上げてきた「失敗体験という経験」の方をを引っ張り出して繰り返すような「的外れなやり方」で、成長している同級生と接してしまうことも多々あり、「何この子!」と嫌がられたりして、ますます落ち込む、ということも出てきます。
発達に凸凹の特性のある子は、なるべく失敗体験を繰り返すのはやめた方がいいという、よく言われるアドバイスは、こういう過去の経験がその子の生きる今現在の体験に大きく影響する、という点で、ある意味事実である、と実感しています。極端な話、集団社会で失敗体験を積み上げてトラウマを抱えたり自信を失うぐらいなら「何も体験していない」ほうが、真っ白で伸びしろがあるのでは、と感じるぐらい、発達凸凹の子の精神状態というのは、ネガティブな経験が未来に関わっていく気がします。
私達が自分達の中で感じたごく身内の話ですが、発達凸凹の特性のある子は、何回かブログに書いていますが、自分の物や知識への欲が強い乳幼児期を経てその後に対人関係など、自分以外の人への関心も芽生えてくるという定型の子とは違う成長過程をどうやら歩むようなのです。その独特の成長過程と、この「幼い頃の集団生活で自信をつけたか、自信を失ったか」の結果が、小学校頃からダイレクトに子供の精神状態に影響していく、ということを実感しています。ですので私達親世代は、自分の子世代が一番最初に定型の集団社会へデビューするタイミングを、とても繊細に、とても真面目に考えるようになっています。結果的に、子どもによって、0歳児からでも平気という早い子もいれば小学校後半や中学から、などかなり遅い子もいる、という状態で入り混じっています。
これも身内のごくマイナーな私達の感想なので参考になるかわかりませんが・・・自分の知識や好きなことへの追求をし終わった子は、その分野への思う存分取り組みができたという満足感などから不思議と「自信」というもの、または「安定感」を持つ傾向が見られると思います。上手だとか、とびぬけて優秀だとかではありません。「その子が、やりたいことに過集中をしてでものめりこんだ」結果、その子が満足をした、という結果が大事なようで・・・不器用でも、他人と違っていても、気分的にやりとげた感というのが体にしみると、人は変われる(成長する)ようです。
あとは、定型のお子さんにとっては当たり前にできるような標準的なことでも、凸凹特性のある非定型の子にとってはとても難しいという現実があります。ということは、「他人と少しでも張り合える部分」が身に備わった、と子どもが実感するということが、そもそも「自信」になります。とびぬけた優秀さがイコール自信、なのではなく、「定型の子と対等な部分、標準的な部分がある」ということが、非定型の子には自信につながるので、一般的に親が思うより、非定型の子達の自信のありかはハードルが高くありません。なので、例えば勉強全般が苦手、その中で数学は(他の教科よりは)定型の子の中ではできる方だ、とか、英語は苦手でもスピーキングだけは上位にいる、とか、そういうちょっとしたことでも自信にはつながっていきます。
こういう「定型の世界でも自分は対等にやれる部分がある」という事実、それをお守りのようにして成長していける感じです。これを手に入れる時期はマイペースに過集中を発揮して好きなこと・興味のあることに没頭する力がみなぎっている、乳幼児期の「黄金期」だと常々感じているわけです。
それができなかった場合、つまり発達凸凹の子が唯一、「自分から強い欲求を発揮して自分で自然に学んでいける黄金期」である乳幼児期を集団社会で「マルチタスクに追われて混乱したまま、好きなことに集中できず、あわあわとしながら過ごした」場合、遅れて小学校や中学校時代に周囲から「何か好きなことを見つけなさい」などどいわれ、タイミングを外した状態で「自信をつけられるような何か」を探すわけですが、乳幼児期の集団生活の中で「人より劣る」「人よりできないことが多い」「失敗ばかりする」という経験が積み重なっていると、その自信をつける過程でネガティブな記憶やエネルギー切れが足を引っ張ることがあります。保育園・幼稚園時期はなんとか乗り越えても、小学校で状態の悪さが出てしまうのは、こういうダブルのタイミングのズレのせいかなと思います。一般的にはトラウマ、というのでしょうか、その部分を癒す作業も必要となるので、不登校の年数が長くなったり、なかなか動き出せなかったり、本人がSOSを出して荒れてしまったり、という具合に、過去を背負った分の年数の癒しを求め・消化しながら、一歩一歩、前進していく感じになると感じています。それが、私達、親世代で見られた発達凸凹の子の「苦労」です。今はその経験をもとに、現在の親族の子達は「オリジナルの道」を歩むことを大いに認められ、社会デビューの時期も様々です。
そういうわけで、
「自分の子供はどのタイプか」
「集団の中で、傷つかず・混乱せずに1年、2年とやっていけるタイプか」
という点を吟味して、集団社会に早期から入れるのが向くのか、向かないのかを親として判断することが、とても大事な最優先の判断材料になると思います。なぜなら、その結果の影響をダイレクトに受けるのは子供でも、そのフォローをずっとしていかなくていけないのは親であり、将来的にすごく大変になってくる可能性があるのです。そうであれば、なるべく親も子も楽に、そして子が自信も備えた目をきらきらさせた、イキイキした様子で育っていく方向がいいに決まっています。私達が黄金期と呼んでいる乳幼児期の自閉特性全開の時というのは、好きなことだと失敗しても泣き叫んでも、やり遂げるまでしつこくねばる子どもらしい図太さと恐るべき特性の執念深さを持っていたりもしますし・・・やっかいな特性をこの際なら「過集中で、しつこく追及する」力を良い方に活かして、自力で自然に伸びる方向を応援したいものです。
ということで、都心に住まう親族の両親たちにそろいもそろって、私達世代や今、学生時代を楽しんでいる子達が口にしたアドバイスとしては・・・
もし乳幼児期の早期に子供の集団に入れて、それが原因で子どもが内面でこじれて自信を失って、または混乱して好きなことも追及する間もなくぼーっと時間だけ経っていく、という成長の仕方をするのであれば・・・こんな感じだと後々の、小学校や中学校という義務教育の社会集団の場で成長させることに苦労する、ということになる・・・と、もう考えるだけでも本当にぐったり、大変そうだ、というのであれば、その部分で楽ができるように、将来、特に思春期前後でできるだけすんなりと定型の集団社会に合流できるように、あまり慌てて2歳や3歳から定型の子供集団に入れなくてもいい・・・と思ったりするよ、という「ごくごくマレな、変わったイチ意見」を、念のため伝えました。
自信を持った子というのは、その後、多少の困難に出会っても立ち向かっていけるだけのエネルギーがありますが、幼い何の武器ももたない丸裸状態の弱い乳幼児期に、同じく他人を思いやるとか、理性があるとか、良い・悪いがわかるとかいう年齢ではまだない乳幼児と過ごして受ける傷は、結構深く受け止めかつ、記憶がすこぶる良くていつまでも嫌な体験・経験を覚えている・・・というような発達凸凹の特性のある子達には、こういう言い方は良くないかもしれませんが、毒となることもある、と、自分の体験を振り返っても思います。
親族の子供の中には幼稚園に行かず、いわゆる知能教室のようなところで、先生と1対1で過ごしたり、5歳ぐらいでやっと、2、3人の子供集団と過ごす超小規模の保育を受けたりしていますが、小学校でつまづいたか、というと、案外スムーズに「元気に泣かず、悩まず」通っている、ということが多いので、大事なのは「その子の性質にあわせた乳幼児を過ごす」ことで、「何が何でも集団社会で学ばせる」ことが大事なのではない、ということを、一考してみる価値はある、と考えています。
極端な例ですが、幼稚園時代から小学校卒業まで、学校以外の場所で「友達と遊んだことがない」「出かけたことがない」親族の子が、今バラ色の中学生活を送っていて、お友達と週末にお出かけする「友達との時間」を満喫している現実や、幼稚園に行かず、変わった遊びを色々としてくれる知育教室に一人通い、ファミサポさんに多大にお世話になった大人とばかり接していた子が小学校で初めて社会デビューをし友達を得て、それなりに学んでいるのを見ると、その子、その子に合った友人関係・社会生活デビューやタイミングがあるんだろうな、と思います。
「社会や集団に合流する」ことを急がなくても、遅らせても、その子が「自分が熱中できること」や「好きなこと」や「嫌ではない・苦しみのない体験」をしながら乳幼児期に過ごせたなら、自信や満足感を体の中にしみ込ませて、ある意味安定して、社会に飛び込んで行けるのでは、と感じるのでした。
ごくごくマレな少人数の集団の成長過程を参考に書いていますので、使えそうな部分だけ利用してください。人は個々に特性が違いますので、その把握とその部分に合う環境や過程を見つけ出す「選択」が、結局のところ大事なのだと思います。
<横話:集団ルールを大きく逸脱する言動ばかりするエジソンは小学校を3か月で追い出され中退し、定型社会の学校教育になじめなかったことから家庭で独学をしたことで有名ですが、好奇心が邪魔されることなく伸びたのは、過集中の黄金期を親が大事に考えて「大きく道を外れた選択」を、思い切ってした結果の一例でもあると思います。実験などでエジソンが危険で迷惑をかけるほどの行為をしたときには厳しく叱り、命あったことを祈る母の姿はエジソンの情操を大きく成長させたようなので、人の学びというのは「集団という人数に比例しない」、その方法がその子に合う、その環境がその子にあう、そのタイミングがその子に合う、その学び方がその子に合う、ということに比例するのだと個人的に感じています。>
変わった人・エジソンの昔ながらの伝記は、本に興味のない親族の子にも評判がいいです。
大昔バージョンのものも、最近の出版のものも、不登校の子達の学習会で回し読みしてボロボロです。
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