スペイン帝国はなぜ資本主義を生まなかったか | 日本の構造と世界の最適化

日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。

スペイン帝国の興亡と資本主義


金権主義=「資本主義」か?
富裕な国で「資本主義」経済が生まれたのだろうか?


かつて世界の大半を掌握した大帝国・スペイン帝国があった。
スペインの植民地は金銀・商品作物(砂糖)を産出し、世界一の海軍を持つ世界一富裕な国となった。しかしそこから「資本主義」は生まれず、スペイン商人は欧州を牛耳る資本家・金融家にはならなかった。


なぜだろうか?


金権主義資本主義を混同する傾向が極めて強いが、カネ儲け主義は資本主義ではない。我々は左翼思想によってアンチ資本主義が吹き込まれているが、資本主義のあるべき姿はわかっていないのではないか?
*「資本主義」という言葉自体がマルクス主義者が作った否定的な語だ


「資本主義」を生み出せなかったスペイン帝国から何か示唆が得られるかもしれない。


経済帝国スペインの勃興


■民族大移動としてのレコンキスタ
スペインを生む起源は、十字軍と似たような経済行動であったレコンキスタであり、騎士達(零細地主)の大量移動(人口移動)だった。10世紀の欧州温暖化・農業革命は人口増大をもたらしたが、十字軍という歴史的事象は「余剰人口の移動」と見ることができる。レコンキスタでは、イベリア半島を掌握していたイスラム王国との戦争を続けながら移動拡大する最中で、移動型経済=牧羊が大きな意味を持ってくる。
・1085年:カスティーリャ王国がトレド奪取(北半分キリスト教勢力下へ)
・1086年:ムラービト朝がイベリア上陸・カステイーリャ王国破る
・1096年:「民衆十字軍」貧民と下級騎士が東ローマ帝国領に流入
・1099年:中東に各種十字軍国家が成立
・1139年:ムラービト朝を破りポルトガル王国成立
・1187年:アイユーブ朝がジハード宣言・神聖ローマ皇帝遠征中に事故死
・1193年:北欧十字軍(バルト海周地域へ拡大・リーヴ人服属改宗へ)
・1202年:第4回十字軍*なぜか東ローマを略奪・東ローマ一旦断絶
・1212年:「ナバス・デ・トロサの戦い」カスティーリャ連合軍が南部を掌握
・1224年:神聖ローマ皇帝がプロシア等バルト海周辺北欧を帝国領と宣言
・1232年:少年十字軍がエジプトで奴隷として売り飛ばされる
・1226年:ポーランドの招聘でドイツ騎士団設立・東方植民の中核に
・1228年:ローマ教皇が十字軍遠征しない神聖ローマ皇帝を破門
・1236年:コルドバ陥落(欧州史上初の大砲活用)
・1238年:アラゴン王国がバレンシア征服
・1242年:ドイツ騎士団がノヴゴロド共和国に敗退
・1248年:第7回十字軍がマムルーク朝に大敗
・1248年:セビリア陥落(グラナダ以外の全土を掌握
・1260年:ドイツ騎士団がバルト海周辺国(現リトアニア)に敗北
・1272年:中東の十字軍国家全滅
・1322年:リトアニア大公国がローマ教皇にドイツ騎士団の侵略を訴える
・1469年:アラゴン王国とカスティーリャ王国が統合=スペイン王国誕生
・1492年:グラナダ王国征服(レコンキスタ終了全土キリスト教化)
・1561年:マドリードに遷都
・1580年:ポルトガル併合(承継)


 欧州温暖化 → 農業革命 → 人口余剰 → 十字軍


■欧州の毛織物経済循環

スペインはメリノ産という最高品種の羊毛に恵まれ、羊毛の生産者となる。レコンキスタは長期的軍事行動であったため、王達はカネの必要に迫られ商業利益にすがっていた。それゆえかスペイン牧羊組合(メスタ)は王から裁判権を含む特権を与えられて保護されていた。一種のギルドである。放牧は穀物用の農地を奪い、スペインは穀物輸入国になっていく。またスペインでの造船業の発達は森林も荒廃させてますます穀物生産に適さなくなった。しかし、軍事力の高まりと相まってシチリア・サルディーニャ等の穀倉は確保していた。
メスタ(wikipedia)

*スペイン北東端ビルバオ港から羊毛出荷

 ・生産(羊毛)=スペイン・イギリス   → 宿敵となり戦争へ 
 ・加工(紡績)=フランドル        ← 当地域の争奪戦に
 ・仕上(染色)=イタリア(フィレンツェ) → 豪商メディチ家の金融  
 ・流通    =イタリア商人       → 全欧州で売りさばく


この形態では、スペインそしてイギリスも経済帝国にはなれなかった。生産者よりも仲介・販売を掌握している者の方が強いようである。



大航海ベンチャーがあたった


■物産獲得の仲介抜き

実は、スペインよりもっと小国であったポルトガルのほうが大航海ベンチャーは早かった。それはアフリカの金・象牙・奴隷の交易であり、更に地中海を迂回したアジア交易へと拡大していく。ポルトガルが掌握したアジア交易の目玉は香辛料であり、莫大なリターンをもたらした(初期の投資リターン60倍)。初期の航海生還率は20%と危険なものだったが、それを忘れさせる巨万の富が保障されていた。つまり理屈ではなくスピリットでもなく無茶苦茶儲かるからリスク投資というベンチャーが時代を風靡したのであろう。
*南ドイツ・フッガー家の銅をアフリカ・アジアで売る


スペインの大航海ベンチャーも「エルドラド(黄金郷)探し」みたいな危険なベンチャーであった。しかしこのベンチャーは大当たりとなる。
・1385年:ポルトガルがスペインから独立
・1420年:ポルトガル王がテンプル騎士団指導者となり資金力獲得
・1444年:ポルトガルがギニア到達(サハラ南部交易・ベドウィン商隊を中抜き)
・1488年:ポルトガルがアフリカ南端の喜望峰到達
・1492年:コロンブスがスペインの支援でアメリカ大陸到達
 *コロンブスはジェノバ航海士
   スペイン王室やフィレンチェ銀行家等が資金を拠出
・1494年:「トルデシリャス条約」スペイン/
ポルトガルが分割/教皇勅書
 *スペインはアメリカ大陸全域での優先権を獲得
・1497年:ポルトガルのバスコ・ダ・ガマがインド到達
・1520年:スペイン出資のマゼラン艦隊が西回りでフィリピン到達
・1521年:スペインがアステカ帝国滅ぼす
・1529年:「サルサゴ条約」アジアでのスペイン・ポルトガルの権益再協議
・1538年:オスマン帝国が地中海掌握
・1543年:ポルトガルが種子島に火縄銃伝える
・1565年:スペインが北米フロリダ植民地化
・1572年:スペインがインカ帝国征服
・1584年:天正遣欧少年使節がスペイン王に拝謁
・1596年:「サンフェリペ号事件」豊臣秀吉キリスト教禁止強化
・1638年:徳川幕府が鎖国


経済的には、地中海・中東を経由せずにアジア物産を獲得する、すなわち仲介抜きという意味があった。


西欧 ←→ 中近東・中央アジア ←→ アジア


  *大航海時代

   西欧 ←→    中抜き直取引 ←→ アジア


そしてスペインは南米銀山を獲得し、世界一の富裕国家になる。当時は金銀は万能の交換手段であり、誰もが羨む地位を手に入れたわけだ。
*イギリスも真似をして北米植民を試みるが当地は遥かに貧しく黄金もなく、開拓隊の餓死など当初は散々で、北米支配の関心は薄れ、放置状態になる(アメリカの自治の発祥)


■スペインの植民地行政と王権


日本の構造と世界の最適化 スペイン帝国の交易は本国セビリア港とそれぞれ植民地の一港に交易を集中し、王権による管理に基づいた重商主義の先駆けであった。

*16世紀のセビリア港



具体的には20%関税等で王達は富を手中にした。これを実現するため、移民関税行政を統括する「通商院」および王の顧問団としての「インディアス枢機会議」が植民地政策・植民地総督および現地の司法等を監督した。現地には現地総督の行政権に優位する王立司法機関アウディエンシアが置かれた。


日本の構造と世界の最適化-中央集権 このような機構で、広大な領域で王権と官僚制が完備された中央集権が実現されていた。その意味でこの経済圏は「帝国」といってもいいだろう。


植民地の内政について、初期のコンキスタドール(征服者)の時代には、「エンコミエンダ制」によりインディオ酷使が実現可能となった。元来は、王権認可による労働力利用許可・改宗活動・徴税の特権であり、征服者とその配下がその利権を得た。


しかしスペインは王権と官僚の支配を拡充し、エンコミエンダ特権の世襲を否定し、官僚的土地支配による「アシエンダ制」(プランテーション制)に転換する。同時期にはインディオの人口が激減し、耕作放棄地が増えていたのでスペイン人植民者による大土地所有がすんなりと拡大していた。

・1401年:バルセロナ公立預金銀行設立(世界初の総合銀行)
  *テンプル騎士団との関係
・1500年:ポルトガルが「東インド会社」設立(商船隊管理)
・1502年:スペインが「エンコミエンダ制」で原住民の統治開始
・1503年:スペイン・ポルトガルが「通商院」設立し税関一元化
・1511年:スペインが「インディアス枢機会議」設置し植民地政策管理
・1542年:エンコミエンダ制廃止・「アシエンダ制」へ転換
・1543年:スペインでセビリア・ギルドが結成され「通商院」の下請け
・1565年:スペインのマニラ船団がアカプルコとの定期航海開始
・1570年:ポルトガルの「東インド会社」財政難で交易自由化
・1578年:ポルトガルが東インド交易を一年限定で民間商業組合に付与
・1597年:ポルトガルが東インド交易を再び王立独占事業に


しかし植民地の拡大等は、現地総督らの私財によるベンチャーを認可するという受動的な形で行われた。その成長は国策というよりも臣民個々の野心によるものであった。


■「中継の利」国際交易ルート
スペインもポルトガルも地球規模の商圏と航路を始めて設定した。この航海ルートは秘匿され、独占された「中継の利」があった。それは仲介国での課税や手数料を免れ、ダイレクトに生産地へ接続することができたからである。とりわけアジア・アフリカ交易は、古来から欧州とアジアの中間に位置するイスラム商人が力をもっていたが、大砲を最初に船舶に搭載したポルトガル軍船が航路を掌握することになった。
*スペイン・大西洋ルート:セビリア→ハバナ(中米)
*スペイン・アジアルート:マニラ(東南アジア)→アカプルコ(中米)→セビリヤ
*ポルトガル・アジアルート:リスボン→ゴア(インド)→マラッカ→マカオ→長崎


シルクロードとスパイスロード


日本の構造と世界の最適化




金銀と商品作物が世界を変える


スペインのペルー・ポトシ銀山は16世紀に西欧商業を爆発的に発展させる。銀は15年間のうちに3倍の流通量に膨れ上がったという。これは西欧経済に「貨幣革命」をもたらし「産業革命」の下地を作ることになる。またスペインは歳入の2割を銀山に頼っていた。そして南米産のジャガイモは、アイルランドやドイツの食料として人口を支えることになる。


世界経済としては、西欧は永らく売るモノの乏しい辺境であり、アジアに対して貿易赤字地域であった。ヨーロッパのお洒落なカフェやスイート?そのコーヒー豆も砂糖奴隷労働と植民地によってもたらされたものだった(コーヒーについてはカソリック教会が改宗を施し、コーヒー豆がカソリックになったので飲めるようになった。)
*西ローマ崩壊以降は遠隔地交易は一旦途絶え、農奴経済だった
*十字軍遠征などが新たな物産を紹介し、異国の富への憧憬を高めていく
*十字軍の中には、イスラム教徒と戦わずに東ローマで略奪を行った時期もあった。富への憧憬である。
中国・インド・アラビアの文物など東ローマが独占していたテクノロジーや交易は、東ローマ滅亡と共にイタリアに吸い取られ、西欧に焼きなおされて「ルネサンス」を生む
*当然に中国の陶磁器と絹織物という物産もスペイン・ポルトガルが掌握した


アジアとのバランスはまさに大航海時代からシフトしていくことになる。
・1496年:スペインがドミニカ植民地化(後に砂糖)

・1497年:スペイン銀貨(8レアル銀貨)鋳造開始
・1508年:スペインがプエルトリコ植民地化(金鉱)
・1509年:スペインがジャマイカ植民地化(砂糖)
・1511年:ポルトガルがマラッカ植民地化(香辛料)
・1511年:スペインがキューバ獲得(砂糖・煙草・コーヒー・材木)
・1521年:スペインがメキシコ獲得(砂糖・金鉱)
・1526年:大内氏が博多商人の協力で石見銀山採掘本格化
・1534年:ポルトガルがブラジル植民開始(砂糖)
・1545年:スペインがボリビア・メキシコ銀山発見
・1549年:スペイン人宣教師ザビエルが来日し布教開始
・1557年:ポルトガルがマカオ要塞構築(香辛料)
・1560年:ポルトガル人宣教師ヴィレラが将軍足利義輝に謁見・布教許可
・1565年:スペインがフィリピン周辺に「スペイン領東インド植民地」
・1569年:ポルトガル人宣教師フロイスが織田信長に対面
・1693年:ポルトガルがブラジル金鉱発見


そしてスペインの銀は、買うモノはないが売るモノ(絹・陶磁器等)のある中国に大量に流れ込み、その1/3に上ったともされる。

元来、産出量の少ない金は貯蓄用・銀は貿易決済用であったが、スペイン銀の影響力により銀本位制が世界を覆っていくことになった。


 十字軍→大航海時代→奴隷・金銀・商品→通貨革命


■奴隷という労働力の解決
さらに、黒死病での人口減少で労賃が高まる欧州にあって、安価な奴隷労働も富をもたらす構造であった。つまり新大陸物産が商売になるのはアフリカ奴隷交易があってこそ可能であった。アメリカ大陸の農産物はとりわけ奴隷に依存していた。道義的問題はともかくとして、欧州で同じ農業をやっても儲からない。また中南米の現地人は疫病などで大量死したので、その労働力を補う手段が必要であった。
・1441年:ポルトガルが西サラハ・ベルベル人を奴隷狩り開始
・1471年:ポルトガルがガーナ到達(奴隷・金)
・1485年:ポルトガルがコンゴ王国と対等外交樹立
・1494年:ポルトガルが西アフリカ諸国と通商・奴隷貿易拡大
・1501年:スペインがアフリカ奴隷をハイチ・ドミニカに導入
     (奴隷プランテーション確立)
・1542年:スペインのインディオ奴隷禁止法(国際人権法の原型)
      →アフリカ奴隷活用へ
・1545年:ポルトガルがブラジルで砂糖プランテーションに成功
・1568年:ポルトガルがコンゴ王国内紛で進駐・属国化
・1571年:ポルトガルがアンゴラ掌握・奴隷貿易の一大拠点へ
・1580年:スペインがポルトガル併合(承継)
      *スペイン法により奴隷直接取引禁止
 ~その後奴隷交易のシェアはイギリス・オランダ・フランスに奪われる
*奴隷を西欧人に売ったのは抗争を続けるアフリカ諸部族・アラブ商人


    西欧過小人口(高賃金)→ ← アフリカ奴隷(格安労賃)

    砂糖+奴隷 → 高利回りビジネス → 遠隔交易が可能に

    


経済帝国スペインの衰退


ローマ帝国はとりわけ西欧人にとって名高いだけで、地中海の地域帝国に過ぎない。だが、スペイン帝国は欧州のみならずアフリカ、アメリカ大陸、アジア、オセアニアを掌握した世界帝国であった。ある意味、「グローバル」という概念を人類史に持ち込んだのはスペインだった。


しかし、その巨大で富裕な帝国から産業革命資本主義が生まれることはなかった。


■カソリック教世界一元化(ハプスブルク帝国)の挫折

南ドイツの鉱山利権や豪商フッガー家との関係の深いハプスブルク家が神聖ローマ皇帝となり、スペイン国王も兼任する。またローマ教皇は豪商メディチ家から輩出される。
*ハプスブルク家は南ドイツ銀山と関係が深いチロルの小諸侯であった
・1512年:メディチ家がスペイン軍の力でフィレンツェ奪還
・1513年:ローマ教皇レオ10世(メディチ家血筋)誕生
・1516年:ハプスブルク家カルロス1世がスペイン王継承
・1519年:ハプスブルク家スペイン王がカール5世として神聖ローマ皇帝戴冠
フッガー家(wikipedeia)
メディチ家(wikipedia)
ハプスブルク家(wikipedia)


神聖ローマ帝国+ローマ教会+金持ちスペインという合体は、これまでなし得なかった強力な西欧キリスト教世界(Christendom)の一元化への誘惑をかきたてる。また、オスマン帝国に掌握された地中海を奪還するという十字軍的使命もあった。
・1453年:オスマン帝国がコンスタンティノープル陥落(東ローマ滅亡)
・1529年:欧州紛争に関しスペイン王と教皇が和解・イタリア王を兼任
・1526年:オスマン帝国がハンガリー平原進出
・1529年:オスマン帝国がウィーン包囲・スペインが撃退
・1534年:軍事改革「スペイン方陣」により軍事強国に
・1535年:スペインがミラノ承継・フランスとの関係悪化
・1538年:オスマン帝国に「プレヴェザの海戦」で敗退
・1541年:神聖ローマ皇帝のアルジェ(現アルジェリア)遠征失敗
・1543年:フランスがオスマン帝国と同盟してスペインに迫る
・1559年:フランスに勝利しイタリア覇権確立・仏ヴァロワ朝崩壊
・1565年:オスマン帝国のマルタ島上陸阻止
・1571年:オスマン帝国に「レパントの海戦」で勝利*ガレー戦艦
・1574年:オスマン帝国がチュニス(現チュニジア)占領
・1576年:オスマン帝国がモロッコを保護国化
・1663年:オスマン帝国のハンガリー支配阻止を狙うが賠償金支払う羽目に
・1699年:大トルコ戦争終結オーストリアがハンガリー・トランシルヴァニア獲得
 *以降オスマン帝国は劣勢に立ち衰退へ向かう


■カソリック一元化挫折としての宗教改革

こうした一元化は分立的自治のゲルマン習合世界を壊すものであったのかもしれない。その反動は「宗教改革」と呼ばれるもので訪れる。とりわけ、西欧キリスト教徒がこれに反発した。そしてスペイン支配下のネーデルランド北部17州がスペインに対する独立戦争に突入し、現在のオランダの原型が誕生する。イギリスとオランダは反カソリック勢力としてスペインに対し共闘する格好になった。
・1521年ヴォルムス帝国議会を主催(ルターを異端と断定)
・1547年「ミィールベルグの戦い」ザクセンでプロテスタント同盟軍を破る
・1555年アウクスブルグの和議(ドイツ内でルター派公認)
・1568年オランダ独立戦争始まる
・1581年オランダ独立宣言
・1586年オランダ独立のリーダー暗殺しかしイングランドが海賊行為
・1588年「アルマダの海戦」でイングランド急襲失敗
・1589年イングランド海軍のスペイン港急襲失敗・スペイン制海権揺るがず
・1607年「ジブラルタルの戦い」オランダ海軍がスペイン撃退
・1648年「三十年戦争」終結により衰弱・オランダ独立承認
・1655年イギリスがジャマイカを奪う
・1659年フランスがハイチに侵入

・1622年オランダがポルトガルのマカオ攻撃
・1667年ルイ14世が「ネーデルランド継承戦争」スペイン領ネーデルランド侵攻
 *フランス・オランダ・イギリス等が欧州の覇者となりスペイン存在感薄れる


     一元化 → × ← 多元化



スペインの没落と中世の終わり


■中世経済構造の自壊

14世紀の黒死病は欧州人口を激減させ、つまり労賃が跳ね上がったために人海戦術的な「農奴制」が衰弱してしまっていた。これは商業経営や加工業など労働集約性の低い産業の勃興を促進した。「農奴制」を根幹とする中世封建制は経済的に維持できなくなっていたのだ。スペイン自身も後の黒死病により本土人口に多大な打撃を蒙ることになった。


   黒死病

    → 人口減少 → 労賃増加 → 人海戦術(農奴制)衰退


こうした欧州秩序の瓦解は、17世紀に「三十年戦争」という欧州大戦争を勃発させた。そこでは火器が本格的に導入されたため、神聖ローマ帝国領内は物理的にも深刻な破壊を蒙った。また同世紀にはスペイン銀枯渇・欧州の寒冷化は顕著となり、各国で農業不振や輸出減少を招いた。こうして中世経済を彩ったイタリア商人・東欧・北海交易圏・ハンザ同盟などが衰退する。また、こうした荒廃はドイツ領邦を後進国へ貶めるものであった。そして欧州の覇権国は「中央集権」「重商主義」政策をとっていくことになる。


  カソリック封建一元化 × → 産業革命と近代国家の闘争へ


ボヘミアのフス派市民が火器で甲冑の騎士を倒したとき、中世は実質幕を閉じていた。その背後にあったのは経済と技術であったろう。


■財政赤字(軍事費)とイタリア商人の衰退

スペイン帝国を蝕んでいったのは多大な財政難であった。


またカトリック守護者という立場からオスマン帝国と対峙し、かつさまざまな欧州戦争に従事し、かつ広大な海外植民地をつなぐ航路を支えなければならなかった。イタリア紛争やフランスの封じ込め、ドイツ領邦等夥しい戦争が遂行された。こうした戦費に耐えられずフェリペ2世は大帝国の主人でありながら生涯に4回破産した。フェリペ4世は娘の結婚持参金も払えずに仏ブルボン家にスペインを乗っ取られる。17世紀には銀行家から融資を受けられなくなった。そしてスペインの物産は出港する前から差押えられるようになった。
・1528年:ジェノヴァ銀行家がイタリア紛争でスペインに融資
・1557年:スペイン王破産(イタリア紛争・オスマン帝国との戦争)
      フッガー家衰退へ
・1576年:スペイン王破産(オランダ独立戦争)
・1596年:スペイン王破産(フランスとの戦争)
・1599年:南米マプチェ族がペルーのスペイン軍撃破
・1607年:スペイン王破産(貨幣改悪)
・1627年:スペイン通貨危機(貨幣改悪)
・1631年:スペイン陸軍方陣がスウェーデン式大隊に敗れる
・1636年:フランス侵攻中に財政難
・1647年:スペイン破産(「三十年戦争」)神聖ローマ帝国荒廃
・1647年:スペイン伝染病で人口喪失
・1655年:イギリスがスペイン植民地ジャマイカ占領
・1659年:スペイン破産(ポルトガル独立戦争)
・1713年:「スペイン継承戦争」ハプスブルク朝スペイン終焉・フランスの台頭

王たちの度重なる戦争と破産は、中世を牛耳ってきた南ドイツ&イタリア等の金融家を破綻させてゆく。これに変わるのはイギリス・オランダ等を拠点とする新たな金融家であった。当然彼らは、反スペイン戦争にカネを出した。


■金銀の重さで沈む帝国
スペインの手に入れた大量の銀は、スペインを史上初の地球的大国にしたが、同時にスペインを蝕んでいく。「通貨量増大→インフレ」という教科書的な現象が発生した。まずスペイン国内がインフレになり、物価は5倍・輸出品が割高になり競争力を失い、スペインの商工業を衰退させることになる。また、固定地代を収入とする封建地主はインフレによって衰退していった。
*日本の戦後混乱期のハイパーインフレも華族や大地主に打撃を与えた


さらに商人や富裕層は、産業投資ではなく、植民地の銀で担保された公債投資に向かった。これはますます商工業の劣化・国内過小投資を招いていく。
*金融危機以降、金融業界の国債取引への依存・ひたすら量的緩和による流通相場を求める姿勢は不健全であろう


加えて、銀山経営のノウハウを持った中世豪商フッガー家等は銀価下落により衰退していく。


17世紀に植民地銀山が枯渇し始めると、スペインは食料輸入国・荒廃した農地・貧しい領民を抱えた実態を露呈しはじめる。本土にはたいしたものは育っていなかった。


■金融都市アントウェルペンの破壊

アントウェルペン(アントワープ)は、新大陸の7倍の富をもたらすとされたスペイン領の金融商業都市であった。スペイン本土港からアントウェルペンに荷が届き、欧州内でさばかれる。


しかしオランダ独立戦争中にイギリスの海賊がスペイン傭兵の賃金を積んだ商船を襲撃・スペイン王もその頃破産したため、給与未払いとなった傭兵が現地略奪に走り虐殺状態になり破壊されてしまう。


アントウェルペンを逃れた商工業者は、ニシン漁と泥土の寒村であったアムステルダムに逃れた。そこは新たな欧州商業都市に発展する。現在でも、日本のどの港よりも取引量の多い国際港湾都市としてアムステルダムは発展している。
*1970年代に世界4位だった神戸港は20位以下に転落していった


■ナポレオンの欧州再編で老いた帝国崩壊
実はイギリスが台頭しても、南米植民地をスペインから奪うことはなかなかできなかった。「アルマダの海戦」の誇張は英米人の偏見であり、1714年の南米での英西戦争でもイギリスは手酷く敗北し、19世紀までスペインの植民地覇権は確保されていた。
*アメリカ独立にも背後でイギリスを排除したいスペインの支援がある


ハプスブルク家に代わったブルボン朝スペインは、フランスとの連携により、貴族の力を排除し、またスペインのアイデンティティーとも言えた宗教的側面を排除して絶対王政としての改革を進めていく。いわば、封建貴族と宗教という中世世界の排除である。例えばイエスズ会を北米植民地から追放している。また植民地会社という形で、政府出資の積極的な事業を画策していく。


しかしフランス革命とナポレオン戦争が老いた帝国を破壊することになる。フランス軍のスペイン本土占領(1808年)と革命思想の影響を受けた植民地の独立は、スペインを時代遅れの貧しい国に引き下げるものだった。。


400年の帝国はこうして消えていった。



封建の夢を見るスペイン商人とドンキホーテ


■封建的ドンキホーテ

スペイン商人は、大航海など事業に献身し、成功するとカネで爵位を買って田舎領主になりたがった。邸宅の周りに庭園・農園の広がる小領主として暮らし。それはゲルマン戦士を雛形とする騎士階級の発想なのかもしれない。あなたはそれに憧れるか?


その構造は「拡大再生産」ではなく、田舎貴族的封建スピリットであろう。資本主義による馬車馬的レバレッジ経済エンジンにはとても勝てない。


  地方地主的囲い込み ← → レバレッジ拡大再生産


また南米に移住したスペイン人が領主層として君臨する植民地構造となっており、それはレコンキスタによる異教徒征服と改宗と支配の仕組みの延長であった。これも封建的構造の延長であった。


ところで『ドン・キホーテ』は哀れなスペインの姿を描いている。封建的ロマンチシズムに浮かれた時代錯誤の爺さん。姫を救うために風車を怪物と勘違いして鎧兜をまとって突撃していく。


   甲冑の封建爺(封建的スペイン) vs  風車(新興商業国家オランダ)


■加工業を生まない国・巨大なバナナ帝国
スペインは羊毛生産国から強い加工国へ進化することはなかった。


また異端審問などのカトリック強化政策は、商工業者である非カトリック教徒が逃げていく原因となり、国内加工業を衰弱させた。イベリア半島のイスラム教徒は東方の加工技術を持っていたが、当然それらはほとんど保護されなかった。また羊毛生産の中心であるカステーリャの地の多くはカトリック教会に寄贈されてしまっていた。このように国土開発が進まない要因があった。


実は国内毛織物業もあったが、それは競争のない植民地に独占的に販売できたので品質は向上しなかった。


一方で、羊毛のライバルであったイギリスは加工業も勃興させる。エリザベス1世の頃にはイギリスはフランドルから加工を奪い、直接イタリアへの染色仕上げに持っていけるようになっていた。


また西インド諸島の砂糖の加工を担ったのは、新興国オランダの風車による前産業革命であった。


スペインはまるで「巨大なバナナ帝国」のように第一次産業と領主的支配しか見当たらなかったのである。


■過小人口の経済覇権ポルトガルの限界
ポルトガル
は食料をモロッコからの輸入に頼った状態であった。これは防御に弱い体制である。


日本にも商館を構えたポルトガルではあったが、その航路と商圏は伸び切っていた。経済の力を維持し、経済帝国となるには、ポルトガルの人口は少なすぎた。


またポルトガルの経済は仲介業構造だったので、薄いマージンでコストが重くなれば儲からなくなった。広大なアジア航路を軍船で守り、植民地を防衛する軍事コストはポルトガルには重すぎた。


やがてオランダが、そしてイギリスがアジア航路に進出し、ポルトガルは蹴散らされていく。
・1639年:徳川幕府がポルトガル人追放
・1641年:オランダ商館を長崎出島に設置(アジア交易からポルトガル脱落)



日本人は封建的な夢を見るか?


あなたに莫大な大金が転がり込んで来たら?


■オーナー型封建主義・囲い込みの安泰
マンション・オーナーという「現代の地主」になって安泰を夢見るのであろうか?1階に趣味的なカフェでも作り、後は公共工事が周辺であれば地価が上がる。それは封建的発想であり、金融レバレッジ・加工付加価値ベンチャーではない。土地を奪取し、地主として収まるというのは、サムライ・スピリットであるが、グローバル競争としては敗北の図式であろう。


とりわけ国際競争にさらされない内需の部分で、封建的囲い込みのメンタリティーが支配的だ。国策企業やゼネコン等流動性のない国内産業形態がある。それが日本列島の成功法則なのだ。。しかし。


 封建的志向=囲い込み・序列化  ←→自由主義志向=囲い込めない
    ゼネコン・供給主導         イノベーション等付加価値の競争
   競争せずに寡占談合で守る      レバレッジで拡大し流動する


スペインという世界帝国の衰退を見て、経済大国・日本の衰退具合を反省できないだろうか?