いじめ自殺と復讐 | 日本の構造と世界の最適化

日本の構造と世界の最適化

戦後システムの老朽化といまだ見えぬ「新しい世界」。
古いシステムが自ら自己改革することなどできず、
いっそ「破綻」させ「やむなく転換」させるのが現実的か。


復讐の観念


ハンムラビ大王の法が『復讐法』とも呼ばれているが、それは日本の「復讐」とは異なるものだ。商業の発達した国際都市バビロンで、同害復讐とは均衡の法理であり、結局は契約原理の古典である。その法理はギリシャ思想のアリストテレスに均衡的正義として受け継がれ、ローマ法に移植された。
*「あいつを死刑にしろ!」と訴え死罪を証明できなかった者はハンムラビ法では死刑となる
*メソポタミアには穀物・粘土・葦しかなく、銅・錫・金銀・鉄・木材石材すべては交易で入手していた、つまり「交換経済」に移行していた。異邦との交換には緊張があり、均衡・正当な対価が重要となる。最終的には緊張は戦争をもたらし、ペルシア帝国のような全域を包括する帝国となったりする。


日本の復讐は、そもそも鎌倉幕府創設の大義名分が源頼朝による「親の仇討」だったので、大きく日本に根を残すことになった。
*公式な大義名分は「以仁王の令旨」であり、不法でないことは後に後白河法皇より追認された


あらゆる文明で何らかの司法的機能が生まれたのは、復讐合戦がコミュニティーを傷つけるからであろう。古代社会において復讐合戦は、一族vs一族というまるで組同士の抗争のようになる。結果的には無関係な民も多大な損害をくらう。そこで第三者が「公正な裁き」を掲げて紛争に介入し、リンチ(私刑)ではなく公式な処刑で問題を解決する。こうして司法の原点があちこちで成立した。そして統治権力の根幹もやはり紛争の裁定にあった。
・1587年豊臣秀吉の『喧嘩停止令』私的闘争の抑制

*日本の農村では「村八分」が慣習化され、嫌いな奴でも結婚・葬式の二分のつきあいは維持された。小さな村中で何世代も殺しあっても損だという発想であろう。


つまり、一元的国家において復讐とは許されるものではない。裁くのは国家であり、あなたではない。さらに近代国家は、いわば国家が唯一の「暴力装置」となって「強制的処罰(殺人・強要)」を独占するため、市民が自由に殺しあうことは禁止されている。
*民主党仙谷氏が自衛隊を「暴力装置」といったのは残念ながら旧社会党系の歪んだ理解で、「暴力装置」という言葉の起源はフランス革命下で、市民が暴徒となり「万民に対する万民への闘争」となった無政府状態を克服するため、政府が非常な力でもって革命体制を維持するところにあった。

*つまり政府である仙谷氏自身が「暴力装置」なのである
*聞き分けのない手下を殴れば、暴行罪となる。それは国家が暴力を独占しているからである



     近代国家(暴力独占)→復讐禁止

      *市民に暴力的仕置き権なし

       *子分を殴る権利なし


日本の縦糸と横糸=忠臣蔵の論理


■温存された個人

戦国時代等を除いて、日本人は狭い列島において、個人だの権利だのより、何よりも全体秩序を優先してきたように見える。少々矛盾があろうとも、全体を鎮めることができるなら、そっちが優先される。しかし、それでいて日本社会は「秩序絶対の集団主義」という単純なものではない。


米軍の日本研究が発端となった『菊と刀』は、アメリカ人に理解できない日本人を理解するための克明な研究分析だが、「忠臣蔵」を取り上げている。


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そこで赤穂浪士の討入りは、全体秩序に反する行為なのだ。しかし日本人はこれを称賛し、あこがれ、赤穂浪士討入りの日を決死行動の日に選ぶことがあった。そこには縦糸(忠義孝行)vs 横糸(義理人情=復讐)が複雑に織りなされていることがわかる。


    忠義・秩序(集団拘束) → 混在 ←  情事・復讐(個人欲求)


つまり日本社会には、欧米にはないような形で個人が温存されてきていた。現代日本でアダルト業界がとてつもなく発達し、中国の若者も呑みこむ勢いだが、「隠された個=情事性欲」が日本で長らく尊重されているという点もあげられよう。幼児ポルノ規制が欧米に比して遅かった日本だが、それも同じか。そこには、よくある日本的集団秩序は影も形もなく、「個の世界」である。また食道楽など、個人欲求に対する尊重は日本では強い。秩序や上下関係では説明できない古来の風習が根強く残っている。単に秩序と上下関係を新設して強要しても日本社会はうまくはいかない。こういう個人欲求を裏で大目に許容する姿勢が隠されている。
日本のアダルトビデオは中国でどのように浸透していったのか?(レコードチャイナ)


反逆と秩序


赤穂浪士の討入りは、将軍を頂点とする治安秩序を無視した欲求(私的復讐)であり、秩序に対する反逆である。だが幕府は「復讐」という反秩序的観念を否定することができなかった。そして幕府には「仇討届出制度」があったが、これは「復讐」を一応肯定していることになる。
曾我兄弟の仇討ち(wikipedia)
天下茶屋の仇討ち(コトバンク)
*江戸時代には100件を超える仇討の届出があったともされる
*仇討するまで家督が継げないという不文律があったせいでもあるらしい
*仇討届出は藩外旅行許可としても機能していた(仇討は武士だけの特権であり庶民は禁止)
*赤穂浪士の場合は、仇討制度のあった幕府法令下でも違法である

敵討ち(幕府の仇討手続き)


■集団性と個人欲求の共存

秩序絶対の集団論理!というには不思議な混在である。

が、それも日本なのだろう。つまり、秩序というものは日本人にとっては実は便宜なのかもしれず、秩序が好きなわけでもない。仕方なく殿様に百姓が従うように、仕方がなく秩序が最優先されている。それは土地の狭さなどもあるかもしれないし、戦国時代の自由が終わりなき闘争であったこともあるかもしれない。平和のために個を隠し秩序を一応絶対化する。だが個は死んでいない。


だが、こうした便宜と本音の使い分け、集団と個の使い分けは封建制下で発達したものであり、近代以降はなかなか問題が多い。「旅の恥はかき捨て」無礼講など秩序の一時的停止の慣行も残っているが、現代産業社会において、使い分けはうまくいかないものになっているのではないだろうか。なにしろ、これらはほとんど不文律の無意識な慣行である。


さらに、復讐の肯定は、現代においては治安秩序を牛耳る「法」を頭から否定する恐るべきものとなる。また法を打ち立てている議会制民主主義への不信・司法権への不信となり、国家の骨格が瓦解することになる。


だが復讐心を満たすため、あらゆるものを無視してつき進み、血で腹いっぱいになるまでやってしまったら、その後には日本は崩壊し、いくつものタコ壺のようなムラだけが残ることになる。


いじめ騒動にある復讐の論理


いじめ騒動は、特に子供が自殺した場合に大きくクローズアップされる。担任・学校・教育委などの姿勢をめぐって大騒ぎになる。
*もしこれだけ騒ぎになるのなら、北朝鮮のミサイルが田舎に落ちて「何の罪もない女子供」が数人死亡すれば、その後空気が一変し、制御不能な大騒ぎになることは確実だろう。
*日本社会を規定する空気は、いざとなると冷静さを失った危険な方向に走りかねない。
*1930年代の日本では自殺ブームが勃発し、政府は自殺をほのめかす歌等を禁止する羽目になったが、空気が動くと公権力もタジタジとなる



日本の構造と世界の最適化 また、そこには「俺が仇を討ってやる」という日本古来の復讐の論理を見るのである。そしてそれは現代の国家公共自治への不信であり、「天誅=テロル」という過激な道にすらつながる。それは「国家の法などクソくらえ」であり、秩序優先がもろくも崩れ去る。秩序という縦糸が壊れ、復讐という横糸が伸びる。個人より秩序の日本!といいながら、そのような構造を内在しているのもまた日本なのかもしれない。
大津「3人のうち1人殺す」…69歳男逮捕(2012/07/11読売新聞)
<大津いじめ自殺>爆破予告「謝罪しろ」(2012/07/10毎日新聞)


本来は、国家公共自治の中で厳正な対処を、そして公的機関に問題があれば制度改革を、行うべきだが。結局、いざとなると国家公共自治は「事なかれ主義の公務員」として振る舞い、逃げ隠れする。いかに一般人が公共に参加していないか。公共が特殊な公務員によって独占されていることがわかる。公共は建前と化す。そして不正義があれば私闘や復讐に走って正義回復を図る。
教諭「一緒になって笑っていた」(2012/07/05産経新聞)


■正義の横行

「加害者にも人権がある」という言葉は、不信を抱かれている機関から出たので、ますます反発が高まる。人々は日本的な正義を求めているかのようだ。不正義への怒り。そしてマスコミがその正義に便乗する。社会経済の閉そく感の中で、正義が売りつけられる。


その正義で何をしたいのだろうか?非道な加害者をさらしてその次は?


それは富田林集団リンチ事件のような殺人未遂事件ではない。メンチを切りあった末に人を半殺しにした事件には熱くならないが、いじめ自殺の場合は熱くなるのはなぜか?明らかに人々は「内容」に熱くなっている。ただの殺人事件にはここまで反応しない。
「死んでくれてうれしい」加害少年発言か(2012年7月13日産経新聞)

■「いじめ」は犯罪化すべきか

いじめが精神的なものではなく行為を伴う場合、こづいたり蹴ったりする行為もある。つまり社会はいじめを暴行罪という犯罪として追及したいのだろうか?たしかに、これだけ騒ぎになったのだから、いじめを「個人の尊厳」に対する犯罪(例えば、特殊な暴行罪・特殊な教唆罪)として禁圧し、日本社会に「個人の尊厳」を植え付けるという手もある。。


「自殺」があり「いじめ方」が非道だったから第三者がこんなにも騒いでいるのだろう。だが、まだ自殺に至っていないいじめはある。通常は「いじめられる側にも問題がある」という人すらいる。現在の空気は、担任・学校・教育委の対応姿勢によってますます火が燃え盛る感じだが。。教育界には反社会的な非行少年やいじめ加害者こそ教育したいという気持ちがあるのかもしれないが閉じた特殊社会にしか見えず、世間は正義と悪の対決と捉え、人倫にもとる悪が野放しになってニヤニヤ笑っている感じで憤慨しているのだろう。


■「死」という結果がなくても、「いじめ」を憎むか

なぜいじめは憎むべきものか。

大人たちは説明できるようにならなくてはいけない。自殺に至らなくてもいじめは憎むべきものだといえるのだろうか?いじめが自殺をもたらすと関係機関が叩かれるから、いけないと?残念ながら、いじめ事件報道にも、いじめ加害者追及にも、いじめが何故いけないのかを示すものはなく、ひたすら「死」という結果に対する報復的正義が飛び交っている。正義の復讐心だ。


大津いじめ自殺事件は、すでに民事訴訟になっており、暴行罪という線もありうるが、訴訟上の成否と社会の価値観や規範はまた別の問題だ
警察は「暴行だけでなく自殺教唆罪」視野(2012/07/12Jcast)

なぜ、いじめはいけないのか


いじめは「個人の尊厳」を傷つけるものだから、いけないと言えるのだろうか?そして個人を柱として近代社会が設計されているから?はたして「個人の尊厳」など日本人の腑に落ちているのだろうか?


■思いやり、だけでは足りない

また、社会は対立・反目を常態として持っている。いじめはいけないから「みんなで仲良く愛の家族になりましょう」といっても陳腐で現実的でない。弱者強者・嫌いな人・ウマの合わない人・価値観が対局の人、孤立している人、浮いている人、利害上の敵がいるのが社会であろう。また「嫌いな人間や目障りな人間は殺すか追放」というのは感情だが、それは社会制度にならない。


人間が集団でどう収まるかは、終わりなき課題であろう。政治・事業組織・地域コミュニティー・学校・ネット社会などなど。出る杭チクリを叩きのめすという組織文化になる場合もある。「外れている人間を矯正しろ!」というなら「浮いて孤立している子ども」を別の子どもが矯正と称して、いじめを行うのは、大人の社会を見習ったことになる。


  空気が読めない外れた人なら、いじめてよいか?

  浮いている奴は、いじめてよいか?

  孤立して弱い人は、いじめてよいか?

  出る杭は制裁的にいじめてよいか?

  チクリはいじめてよいか?


ネットやソーシャルですら、統制を叫ぶ奴もいる。「これはOK、これはダメ、いいかオメーラ(そこには自身が絶対的裁定者という前提が隠れている)」。海外在留日本人コミュニティーのほうが、雑多な東京よりも身内拘束が強かったりもする。それらは全体主義自由主義という政治思想にもつながっていく種かもしれない。つまり社会共通の価値観と規範がどこに向いているか?


大人たちの社会そして子供たちの教育では、「いじめは騒ぎになるからいけない」と言っているようにも見える。それは結局は人々の憎む「事なかれ主義」なのかもしれない。


なぜ、いけないかが重要ではないか。


  いじめはいけない → 個人の尊厳を害する(個人主義)
  いじめはいけない → 徒党で一人を狙うは卑怯なり(武士の論理)
  いじめはいけない → 卑劣でありフェアプレーでない(英国紳士の論理)


■「いじめよう」という空気を読む?

ところで「あいつをいじめようぜ、あいつを叩こうぜ」という空気になった時、空気の読める賢いあなたはどうするのか?刑事犯罪の場合、傍観者は無罪でない場合がある。事なかれ主義平和論がいつまでも安泰というわけでもない。第三者風情が感情移入して復讐心を燃やすより、なぜいじめはいけないのか、それがもっと議論されるべきだ。
車内レイプしらんぷり 「沈黙」40人乗客の卑劣(2007/04/23J-cast)
・スーパーフリー事件(これを受け重い集団強姦罪が成立wikipedia)
*共犯から抜ける点について「共犯離脱」という刑法論があるが、着手後の離脱要件は厳しい。単に見張り役が持ち場を放棄するだけでは離脱できないだろう。



そして、空気を破り、立ち上がり、集団に向かって一人で「おい!そんなことはやめろ!」というのは強い個人であろう。現実の「空気を読め」社会ではなかなか難しいが。。徒党がいじめを開始した個人がこれに対抗するのは簡単ではない。

*食品偽装を告発したミートホープの社員は、チクリとして身内に恨まれ、家庭崩壊して離婚したという


そろそろ「日本の集団主義はすばらしい!うおおお」というのをやめたらどうだろうか?「われわれの集団主義には問題がある」とまずそれだけ日本人が幅広く認識することができれば。