大雑把でポジティブ思考の私と
細かい娘たちの違いが
大変だあ
子供の考えていることは、「わからなくて当たり前」。
頭では、そう思っています。
幼い頃は、親の言うことを聞いて育ちます。
そうしないと、生きていけないから。
それは、良いとか悪いとかではなく、きっと本能なのでしょう。
でも、そこから自我が芽生え、
その子が「その子らしく」なっていく。
その成長を、ニコニコ見ていられればいいのですが…
「もっと言うことを聞いていたのに…」
そう、思ってしまうこと、ありますよね。
「言うことをきかなくなった」ことを、
「頼もしい!」と思えたら、どんなに楽か。
そもそも、親の言う通りに生きることが、正しいのでしょうか? 私の場合、
すっごくおっちょこちょいで、
忘れ物が多く、人の話を聞いているようで聞いていない。
とてもじゃないけど、
娘たちに見習ってほしいとは、到底思えません。
(「忘れ物しないでね!」なんて、説得力ゼロです)
でも、そのおかげで、過去にはあまりこだわらず、
「ケセラセラ」で生きてこられました。
だから、私が娘たちに伝えるべきは、
「こんな私だから役に立った」「こんな私は便利!」 という、
ポジティブ思考だ!…と、ずっと思っていました。
しかし、見事に、裏切られました。
彼女たちは、私のポジ-ティブ思考に、
全く共感しなかったのです。
「悲しんでいる時には、その悲しみに、ただ寄り添ってほしい」 そう、何度も、言われました。
電車に乗ろうとしたら、目の前でドアが閉まった。
Suicaで改札を通ろうとしたら、残高不足だった。
エスカレーターに乗ろうとしたら、今日に限って点検中だった。
そんな時、私は言います。
「きっと宇宙の誰かが『その方がいい』って、
してくれたんだよ」
「これは後々、結果的によかったってことなんだって」
「トラブルは、何かの導きなんだよ」
…全く、通じません。
「なんでそんなことわかるの!? 今が悲しいのに、
どうしてその悲しみと向き合わないの!?」
と、大騒ぎになったり、ものすごく落ち込まれたり。
母親の「なんでも良い方にとる」思考は、
彼女たちにとっては、
「謎の、無理やりポジティブ思考」
でしかないようです。
そして、もう一つ。
私にとっては、ほぼあり得ないほどの「小さな小さな心配」が、
彼女たちにとっては、
「可能性がゼロじゃない限り、心配するのは当たり前」 という、確固たる、堂々とした
「心配」に育ってしまうのです
小松菜についていた、ゴマの100分の1ほどの土。
私は、気づかずにモグモグ。
彼女たちは、それを、一生懸命に取り除きます。
「食べちゃったらどうするの!? 大丈夫!?」
と、本気で心配するのです。
Aの書類とBの書類に書いた履歴に、
髪の毛一本ほどの違いを見つけた時。
私は、書類を出した瞬間、「ハイ、次ー!!」と、
頭を切り替えます。
彼女たちは、「これを見つけた誰かが、詐欺だと訴えないか…」と、真剣に悩みます。
私が
「きっと大丈夫」
の電車に乗り込んでいると、
「ダメかもしれない」の電車に、
わざわざ乗り込もうとする彼女たちを、
思わず止めたくなってしまう。
「そっちの電車は、辛いだけだよ…」って。
でも、そのたびに、自分に言い聞かせるのです。
「彼女たちの脳は、私とは違うんだ」と。
みんな、それぞれ、気になるポイントが違う。
どんぶり勘定の母(私)と、
小さじの100分の1まで計れる、精密なスプーンを持っている、
娘たち。
今日も、私たちの「分かり合えない」一日は、続いていきます。
が、
話し合うことはやめません。
線路が交わることがなくても
とにかく、懸命に話していることだけは
確かです
