24時間、増えてくれええええ

 

人間はさまざまな新しいものを発明してきました。

発見してきました。

でも一人に与えられた時間が24時間であることは

まだ?変えられませんねえ。

時間は買うことができない。

 

この時間だけは、増やしたり、減らしたり、

ポイントのように貯めておいたりすることもできませんね。

 

 

私の娘たちは、ご存知の通り、発達障害の特性を抱えています。

 手帳の区分では「精神障害」に入りますが

(そもそも身体か精神の2種類しかありません)

その敏感さ、

世間とは少し違う反応や考え方は、

この社会で生きていく中で、心だけでなく

体調の悪さにも直結することがよくあります。

 

 

主治医、カウンセラー、市のアドバイザー。 

ここに、耳鼻科、整体、など、

その時々の不調が加わってくると、

1週間のうち3回くらいは病院に行くことになります。

 

正直、「一人で行ってほしい」と思うこともあります。 

でも、先生への説明や、

こちらからの質問。

それに、もし途中の交通機関でパニックになったら…。

 そう考えると、

結局、私が車を出して付き添った方が、

結果的に『行った甲斐があった』なるのです。

 

だから、今日もハンドルを握ります。

ブッブー🚗

 

さて、無事終わった後、、

「あ、あそこ、寄りたい、買い物したい」

と思ってもこれができないのが

タイムロスの一つ

 

「私が思いついたところに、ふらりと寄ることができない」

のは、ついでにやっちゃえ、、が

好きな私としては、心の中で「うううう」

と思うことがよくあります。

特に私はおっちょこちょいなものですから。。

 

例えば、病院の帰り道。 

「郵便局に寄って帰りたい」 「あ、銀行に用事があったんだ」 「今日の夕食のマヨネーズが足りないから

、スーパーで買いたい」

 

出かける時点で決まっていなかった、

よくある小さな寄り道。

 

それが、どうってことある!!

予定外の行動は、彼女たちを不安にさせ、

ストレスが溜まってしまう。

 

ストレスのちりつもはパニックにつながる

彼女たちの予定が狂うということは…

その先には、暗黒の世界が待っています。 

 

だから、車はいつも、家と目的地をまっすぐに往復するだけ。

またはあらかじめ決まったところだけに寄ります

 

 

しかし、私もこのままではいけない!!用事が終わらん!!

我慢できん!!となりまして、、

 

最近、ささやかな実験を始めたのです。

「銀行だけは、デフォルトで立ち寄る場所にする」

です!! 

 

「出かけた帰りは、銀行にも寄るかもしれない」ということを、あらかじめの「予定」として組み込んでしまう。 

 

これがうまくいくかは、まだわかりません。

でも、何かを変えなければ、

私の時間は永遠になくなってしまうから。

 

 

 気がつくと、あっという間に1週間が終わっています。

「今年が始まったばかり」

と思っていたら、もう2月が終わり、3月になっている。

 あまりの時間の速さに、愕然とします。

 

母として、家長として、やるべきことに手綱を引っぱられても

音楽やアートに向かう時間をどう生み出すか??

 私の「元気の源」を自家発電する時間は大切です

『これを無くしちゃならねえーー』です。

 

どうすれば、自分のエネルギーを回せるか?

 この小さな「実験」が、その第一歩になることを願いながら、

私は今日も模索を続けています。

 

今日は藤沢市の六会というところで

講演会です

 

みなさまのお近くでも講演会ができますように。

フォローをしてくださると

エネルギーも倍増ってもんです!

 

 

 

 

 

 

気絶して初めて気づいた、夏の夜のNの我慢

 

今日はHの歌の打ち合わせのため、

Nと二人で話す時間を持ちました。 

三人とは違う、そしてHと二人の時間とも全く違う

時間が流れました。

 

彼女との関係は、

時期によって、様々な色合いがありました。

 

私とNの関係が、

まったく相容れなかった時期。 

それは、私がもう一人の娘、

Hのことでてんやわんやだった頃です。

 

 

「ほら、またHの味方をする」

 

Nから、そう言われることがよくありました。

 たまたま私とHの意見が合うことが多かったのも事実ですが、

それだけではありません。

 

学校でHがパニックを起こすと、

クラスが違うのにも関わらずNが呼び出される。

Hの帰り支度を、なぜかNが頼まれる。 

「どうして、いつも私にばっかり皺寄せがくるの?」 

そんな思いが、彼女の中に渦巻いていたのだと思います。

 

学校は「双子でも別々に、独立して行動するように」

と指導するのに、

いざトラブルが起きると「家族なんだから」という理由で、

Nを頼る。

その矛盾が、どれほど彼女を苦しめたことか。

私も学校にもっと物申せばよかったと大反省です。

 

 

私の両親もそうでした。

「大声を出すH」を早く鎮めることに必死で、

Nの心のケアは、いつも後回しになっていたように思います。

 

 

家の中に障害のあるきょうだいがいる時、

大人は多くを学びますが、

年の近い子どもは、とても複雑な環境に放り込まれます。

 

 パニックの現れ方が違うだけで、

二人とも同じように不安で、焦っていて、過敏であるのに、

片方だけがケアされる。

 

その光景を、Nはどんな思いで見ていたのでしょう。

その孤独は、きっと想像を絶するものだったはずです。

もっと私にできること、あったんだよなあ。。

 

 

ふと、Nが3歳だった頃のことを思い出します。

 私が仕事で留守の間、私の両親が娘たちを連れて、

江の島の花火大会に出かけました。

 

 案の定、Hは大きな音と人混みでパニックになり、

祖父母にしがみついて

泣き叫んでいたそうです。

 

その間、Nはずっと、静かに頑張っていた。

そして、家に帰り着いた途端、まるで糸が切れたように、

気絶してしまい、救急車に。。。

 

あの頃からずっと、

彼女は「Hが大変、私、頑張る」

でした。 

 

「一緒に生まれたのに、どうして私だけ

我慢しなきゃいけないの?」 

 

そんな、もやもやした気持ちを沢山抱えながら、大きくなった。 そして私は、その気持ちを、

長い間、解消してあげられないままでした。

😂

 

もちろん、

「私は悪くない。私のせいでパニックが起きているんじゃない」というHの言い分も、

また真実です。

 

 彼女はいつでも

「こんな風になりたくない。みんなみたいに冷静でいたい」

と願っているのですから。

 

 

だからこそ、親は思うのです。

 

あなたの気持ちがわかるなんて 私はとても言えません 

あなたはあなたの世界を持ち 私に虹をかける

だからこそ親は思う 

どこまでもわかりたい かわわれるものなら

 いますぐ かわりたい

 

これは、

「子供を抱きしめたくなるコンサート」

というライブで、私がいつも歌っている「あなたがいい」

という歌の歌詞の一部です。

 

この歌の最後の歌詞は、こうです。

「も一度 子供を授かるなら、やっぱりあなたがいい」

 

この言葉は、Nへ、そしてHへ。

私の二人の娘への、心からの本心です。

 

 

今日も読んでくださって、ありがとうございます。 

ライブにはなかなか行けないけど、

フォローはしようかな?

 

と思ってくださったら、幸いです。

 

二人なら平和、三人だと地獄。

そして主治医は笑っていいました。

 

 

 

我が家の娘たちはご存知の通り、双子です。

 

 幼い頃からいつも二人きり。

そこには、いわゆる「ツーカーの仲」という、

特別な世界がありました。

二人きりなら、いくらでも話すことが尽きなかったようです。

そう、二人だったら

 

二人だったら、、ねえ。

 

社会学的に言うと(えっへん!口髭のおじさまを想像して)

この「二人」という関係は、

濃密な絆を築く最小単位。

でも一度こじれると、逃げ場がなくなる、らしい。

たしかに、、わかります。

 

 

ところが、ここにたった一人だけが加わって「三人」になると、人間関係の相関図は途端に複雑になります。

 

 点が二つなら線は一本ですが、

点が三つになると、線は三本に増える。 

この「三本」になった途難、

娘たちはとても話しにくくなります。

 

 

そして、私たち親子三人の暮らしでは、

この複雑な関係性が頻繁に顔を出すのです。

 

さっきまで娘たち二人で和気藹々としていたのに、

私が話に加わった途端、 

「どうしてHの味方をするの?」

 「じゃあ、私だけが悪いの?」 

 

なんて言葉が飛び交うシチュエーションに

いとも簡単になってしまう。

 

「ほら見たことか!お母さまもそう言ってるじゃない!」

 なんて、どちらか一方が勝ち誇ろうものなら、

今でも取っ組み合いの喧嘩が始まります。

 

この前の喧嘩は、本当にひどかった。 

きっかけは些細なことでしたが、

茹で上がった素麺を、互いに鷲掴みにして投げ合ったのです。 

 

飛び散る素麺。

壁にべちゃりと張り付く白い麺。

そして最後には、麺つゆまで飛び交う始末。

 

 もちろん私は、二人の喧嘩を止めたい気持ち以上に、

「その麺つゆが白い壁のシミになる!」

という一心で、喧嘩の真っ最中だというのに、

一人黙々と壁を拭いておりました。

 

 

社会のなかで自分たちの違いを感じていること対して、

二人で戦ってきた「同志」でもある彼女たち。

 

 仲が良い時は

「世界中に味方がいなくても、二人が一緒なら大丈夫」と

思えるほどの絆で結ばれています。 

でも、そこに私が加わると、

こじれにこじれてしまうことがある。

 

 

「三人」は、社会が成立する最小単位だと言われます。 

「三本の矢」「三人寄れば文殊の知恵」のように、

力を合わせれば無敵!という格言もあれば、

 

「三匹の子豚」のように、三つ目が肝心という物語も

たくさんあります。

 

「二度あることは三度ある」「三度目の正直」

なんて言葉もよく使いますよね。

 

つまり、「3」は物事の「肝」になる数字なのです。

(勝手に結論づけました)

 

このまるでバラバラな三人。

 家庭という小さな社会で熟成するには、

まだまだお互いに知らないことがあるのでしょう。

 

以前、主治医の先生に「この三人の関係が本当に大変で…」と

こぼしたことがあります。 

すると先生は、にっこり笑ってこうおっしゃいました。

「多様性、ですね」

 

がーーーん。

今日も我が家という名の「多様性」は、

吉と出るか、凶と出るか。 毎日が、そんな感じです。

 

こんなドタバタな『多様性』の日々ですが、

もしよろしければフォローしていただけると、

明日の素麺を茹でる励みになります。

 

 

ダメ、だめ、そっちじゃない、、、

 

 

 

脳科学や量子力学。 

中学の頃の私なら「げえええっ」と

目を背けていたであろう分野の本や番組を

最近、よく見るようになりました。

 

 発達障害の娘たちが、定型発達とは違う、

特別な脳を持っている。

そのことを、もっと知りたくなったからです。

 

 

もし未来の科学が、

彼女たちの脳の特性を一つだけ解決できるとしたら?!

 私が何よりも先になんとかしてあげたいと願うのは、

「小さな心配が、際限なく大きな心配になってしまう」

という、あの特性です。

 

それは、たとえば、、、

たんぽぽを食べる虫が、一匹いたとします。

 すると、彼女たちの頭の中では、思考がこう飛躍するのです。

 

 「いつか、この虫が、

世界中のたんぽぽを食べ尽くしてしまうかもしれない…」 

その、あまりにも壮大な恐怖に、

彼女たちは、本気で怯えます。

 

もちろん、

「備えあれば憂いなし」が大切なことは、わかっています。

 

 車のトランクに、

パンクした時のためのスペアタイヤを入れておく。

それは、社会で生きていくための、当然の「備え」です。

 

でも、彼女たちの心配は、そういう種類のものではないのです。

 

例えば、小さな違反。

(ここだけの話ですが)

 黄色信号で、本当は止まるべき、でも先を急いでいて

突っ切ってしまった、とします。

 

その時、交差点の交番に、お巡りさんが立っていた。 

「あ、違反したと思われたかも…」

 

そのことを、3年経ってから、ふと、思い出すのです。 

そして、途端に、

どうしようもない不安に襲われる。 

 

 

「どうしよう、今からでも、捕まるかもしれない…」

(これは例え話です。彼女たちは運転下戸です)

 

一度、その心配の轍(わだち)にはまってしまうと、

もう、止まりません。 

あれも、これも、過去の些細なことが、

次から次へと思い出され、

全てが「心配の種」になってしまうのです。

(記憶力がいいのも問題です)

 

私は、岸辺から声をかけます。 

「大丈夫だよ」と。

 説明すれば、彼女たちも、頭ではわかるのです。

 でも、一度、心配という名の激流に飛び込んでしまった心は、

もう、言うことをききません。

 

 

 目の前に流れてきた「心配の丸太」に必死にしがみついて、

どこまでも、どこまでも、流されていってしまう。

 

「ちょっと立ち上がってごらん!

 もう、その川は浅いよ! 十分、自分の足で立てるよ!」 

 

そう叫んでも、彼女たちの耳には届かない。

 「立てないーーーーーっ!」

と叫びながら、

丸太と共に、流れの彼方へ消えていくのです。

 

頭では、分かっている。 

でも、その心配を『大丈夫ボックス』に

どうしても入れることができない。

 

 

しがみついている人の手を、

無理やり丸太から引き剥がすことは、誰にもできません。

 

 私にできるのは、急流の脇の草むらから

ただ、ひたすらに手を伸ばし続けることだけ。 

「こっちだよ、こっちだよ」と。

 

 

できることなら、 耳から小さな「妖精の救助隊」を送り込んで、彼女の頭の中でずっと、囁いていて欲しい。

「大丈夫、大丈夫、大丈夫だよ」って。

 

彼女たちは、妖精が大好きだから

きっと、妖精の言うことなら、素直に聞いてくれるはず…。

 

一方、母である私は。 時々、どうしても我慢できずに、

こう叫んでしまうのです。

 

「だーかーらー、だいじょうぶだってばーーーーー!!!!!」

 

…そうよね、そう思っちゃうよね、心配だよねって、

優しく言いたい気持ちは、いつだって、本当は持ってる。

 

でも、こういう気持ちもある

「そんな昔のこと心配しているよりさ、

未来の楽しいこと考えたら?」

 

それができれば、苦労はないわよね。。

 

 

 

ごめん、ちょっと期待してしまったんだ。。。

 

今日は私の仕事部屋で、

とあるアニメの歌入れの録音がありました。

 

今回は英語での歌唱が条件だったため、

シンガーは私ではなく娘のHです。

 

私がスタジオでの録音に初めて立ち会ったのは、

音大1年生の時。

そこから数えて、もう半世紀もこの世界にいるのかと思うと、

我ながら驚いてしまいます。

 

さて、今日の録音現場は、

かっこいい防音ブースもアシスタントもいない、

我が家の一角。

 

私がにわかエンジニアとなり、マイクスタンドを立て、

機材を準備するところから始まります。

 

ところが、いざ始めようというところで、

パソコンの電源が少ないことに気づきました。

 

この段取りの悪さ、実に私らしいです。

 

慌てて電源をつなぎ、イヤフォンを挿し、

データの名前を変更しているうちに、

「この立ち位置は効率が悪い」と気づき、

場所を移動することに。

 

ご想像の通り、パソコンからは

電源コード、マイクケーブル、イヤフォンコードと、

何本もの線がビロビロと伸びています。

 

それに気を遣いながら椅子をどかそうとした、その時でした。

 

ドデンズデン、ガンラガラガラ。

 

椅子が大きな音を立ててひっくり返ってしまいました。

予期せぬ大きな音は、

Hにとって決して好ましいものではありません。

ごめん、ごめん。

録音前にごめん。

 

急いで元の通りにとちょっと焦っておりました

Hの顔が曇ったから

 

ただ、、、

 

右肩を骨折し、まだ回復中の私。

それでも、

落とすわけにはいかないパソコンを左手で抱えながら、

なんとか右手で椅子を起こそうと試みます。

 

しかし、うまくいきません。

人間の関節というものは本当によくできていて、

椅子を起こすという単純な動作一つにも、

絶妙な角度の調整が必要なのだと痛感します。

今の右肩には、

少々酷な作業でした。

 

 

四苦八苦している私を、

Hはじっと見ています。

その時、私の心に本当に小さな、小さな期待がよぎりました。 「H…椅子を起こしてくれないかな…」

 

 

彼女は、こういう時に「こうすれば相手が助かるだろう」

と想像することが、とても苦手です。

だから、ただじっと私を見ています。

私の気持ちは

「あのさ、ちょっとさ、、これ、、

椅子、、おこしてくれないかな???」

 

 

いよいよ何度やっても椅子を起こせない私に、

彼女がかけた言葉は、 

「ねえ、左手のパソコン、どこかに置いたら?」 でした。

 

 

「そ、そうだね。そうしたら両手が使えるものね…」

 

そう答えながらも、私の心の中では、

もう一人の私がつぶやいた!「手伝って欲しかったなあ」と。

 

彼女がASDであるという事実を、完全に無視した希望です。

 滅多にそんな風に思うことはないのですが、

今日は久々に、「ればたら鳥」が

頭の中をよぎりました。

 

 

「ればたら鳥」は疲れた時に飛んできます。

今日は早く寝ようっと。