マーティン・マクドナー監督の最新作は、アイルランドの孤島を舞台に "生きることの窮屈さ" を痛々しく滑稽に紡ぎ上げていく。コリン・ファレル演じる主人公パードリックは落語に出てくるような間抜けな人物として描かれている。彼を含めた島民が限られた場所を行ったり来たりする物語進行もしかり、これが次第に一興となってくる。
本土の内戦と孤島に住む隣人の諍いは、変革と保守の対峙に通底する。現状に満足しない者、現状を変えたくない者、それぞれが生活する社会はどのように折り合いをつけるのか。それが間抜けと頑固の対峙となって展開する。話し合いではなく分断を最善だと見誤る、これは古今東西で表出する局面であろう。
正誤の二者択一判断ではなく、お互いに正誤は混在し認め合う、そこで持続可能が発現するのではなかろうか。都合の良い、心地良いものが最良ではない、妥協という相手を慮る姿勢も清貧として歓迎しようではないか。パードリックの信条はまさにそれであり、本土へ移住する妹の便りにしたためられた "満喫" という言葉に彼は違和感を拭えないだろう。どうして己の満足しか考えないのか、パードリックの世界は凡庸な日常に慈愛と平穏があると感じさせる。
欲言うならば、道化として活躍するドミニクの視点をさらに充足させると、パードリックが友人コルムからの宣言に戸惑う心情へより迫ることができたのではないか。パードリックはドミニクを軽視してコルムに執心する。パードリックよ、慈しむ相手を取捨選別する振る舞いは如何なものか、コルムが辟易する退屈極まりないパードリックの信条は呆れた代物ではないか、と諌める立場にドミニクは存在する。
ドミニクは初登場する場面で "鉤がついた棒" をパードリックに見せて自慢する。その道具はドミニクにとって目的は存在しない非合理なモノなのだが、最終 "その棒" でドミニク自身の成れの果てをつかまれる。ここで "棒" は合理性を宿す。当初のドミニクが(棒を)気に入る感情は非合理だが(棒が)道具として役に立つのは合理となる、だが理屈じゃない面白味は薄れてしまう。パードリックのルーティン生活にコルムが訝しんでしまうのは、合理性を感じてしまったのではないか。目的と手段という相互関係を意識すると、人間関係はつまらなくなる。それは当たり前で、歓談する場は目的なんてない。楽しい、ただそれだけ。なのだから。
私はタイパ(タイムパフォーマンス)という時間対効果なる言葉が好きじゃない。あらかじめ結果を予測して行動するビジネス用語であって、これを友人関係や娯楽にスライドすると途端につまらない。そこに合理性を求めるのおかしくないか、まさに "生きることの窮屈さ" が蔓延しているとつぶやく。
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