「母の聖戦」 | やっぱり映画が好き

やっぱり映画が好き

正統派ではない映画論。
しかし邪道ではなく異端でもない。

【ネタバレ】あります。すみません、気を付けてください。

 

メキシコの街で肝っ玉母さんが奮闘するクライムサスペンスは、犯罪加害者への追及側が倫理の逸脱へ向かう "正義の脆弱性" を問い質す。テオドラ・アナ・ミハイ監督の長編デビュー作品。ダルデンヌ兄弟が共同製作に参加している。

 

治安が脅かされ、誘拐という卑劣な犯罪がビジネスとして蔓延する社会は、被害者の家族やその知人、そして加害者の家族に各々理不尽な現実が突きつけられる。誘拐された娘の母親は無情な現実に苛まれる。大切な人命を救いたい。その一心で奔走する。だが、いつの間にか暴力に加担する正義の危うさがこの物語の主題となっていく。過激な捜査は不毛に終り、周囲に誰もいなくなった母親の非人道性がそこで露呈する。絶対悪はこの世になく、犯罪加害者は私たちも含めた俗世に何らかの因果関係で繋がっている。解決の糸口は絡み合った社会の病巣を切除するのではなく、治癒していく姿勢に私たちが加担する、その心構え、大袈裟に言うと覚悟にある。

 

もちろん法を犯す非道な行為において、加害者はその罪を認め償わなければならない。それが社会の規律であり、倫理はその根底にある。ただ恐ろしいのは、正義や倫理は相対的なモノサシでとても脆弱な比較対象となる。なぜか。感情が介入すると、冷静な判断を曇らせてしまうからなのだ。米国の他国への武力行使、ロシアのウクライナ侵攻、それぞれが正義や倫理を掲げるが、虐げられる弱者は看過されている。それがまかり通っていいのかと追及しても、為政者(加害者)は正義・倫理をことさら突きつける。聞く耳持たないのだ。

 

国家と個人、その行使力の大小はあるが、感情が言い訳となって実行に移す無謀に私たちは呑み込まれてはならない。今作の母親は自身の不条理に気づくだろうか。世の恨みしか残らないのであれば、これ以上の悲劇はない。ラストの意味深なカットをどう解釈するか、できれば救われるアンサーに帰結したい。

 

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