「新感染 ファイナル・エクスプレス」 | やっぱり映画が好き

やっぱり映画が好き

正統派ではない映画論。
しかし邪道ではなく異端でもない。

【ネタバレ】あります。すみません、気を付けてください。

 

先日亡くなったジョージ・A・ロメロ監督が築き上げたゾンビという概念はその後のホラー映画に限らず様々な方面で多大なる影響を与えたことは周知の事実であり、ゾンビ映画というジャンルも確立された。この作品は紛れもなくゾンビ映画であり且つそのツボをここぞとばかり押さえまくりであり、観客の一人として "そこ!" と思わず喝采する。一体なにがツボなのか、まず第一に死者が蘇って生きている人間を襲うというサバイバルを賭けた恐怖、第二に襲われた人間もまた死者として蘇り拡散していく絶望、第三に死者である故殴られても銃弾を撃たれても手足が無くなっても襲いかかってくる異形の執念、最後は親愛なる者が襲われて彼らと同じ恐怖の対象となる悲劇が描かれることにある。その他作品によって様々なルールがあるにせよ、最近はウイルスによる感染によって変貌していくパターンがあり、これは元祖と異なり走って追いかけてくる感染者としてこの作品にも登場する。

 

ゾンビが走る、走らない、は賛否が分かれるのでここでは取り上げないが、今回のツボの一つとして囲われた空間として列車が舞台となることの功績が大きい。逃げ場がない高速で走る列車。狭い通路において招かざる乗客に出会うのは必至、そこをどう切り抜けるか前半の頓智はユーモアもあって楽しめる。これが後半力技でしか選択肢がないのは惜しい。クライマックスのゾンビ絨毯の上での格闘はできれば見たかった。しかし中盤、線路をまたがる橋のガラス壁を突き破って列車の屋根に舞い降りてくるゾンビはまさに地獄絵図として脳裏から離れない。

 

ジコチューな主人公以下その娘や同じ乗客の妊婦とその夫、野球部員の男とその応援団の女、これらの人物描写は申し分ないのだが、その他の乗客として物語に関わる老姉妹や意味深な言葉を呟く浮浪者風男性の行動を裏付けるエピソードがイマイチ描ききれていないのでしこりを残してしまう。老姉妹は致命傷となる仲違いの場面があれば終盤あの扉を開けることが贖罪としての行動へと結びつけられるし、浮浪者もココ一番に打開できる対処法を繰り出すことで大きな転機を導き出すことができたであろう。

 

しかしもう一つ私が "そこ!" と唸らせたのはクライマックス手前の人間のエゴと心の弱さを描いた魔女裁判の場面。王道だが、ここで恐怖の対象が感染者から生き残った人間へと転換する絶望を見事に描いている。

 

妊婦の夫役のマ・ドンソクがイイ。当初無精者の印象だった巨漢が妻のために不屈に立ち向かう姿は勇ましく、感染者退治へと武装をキメる場面も そこ! なのだ。主人公のコン・ユ(我が家では愛称コンちゃん)もイイ。めちゃ男前ではない彼が窮地に追い込まれる表情が巧く娘との距離感が物語の進行とともに変化していく様を限られた台詞の中で演じている。欲言うならば、コンちゃんの非業の最後がクサい、クサすぎる演出なのだ。せっかくここまで積み上げたものをベタな回想シーンやシルエットによるコンちゃんの姿なんていただけない。一つ前の場面で(好演する)主人公の娘が父親を引き止める瞬間、私を含む世界中のお父さんの涙腺を通った涙が一気に干上がってしまう "そこじゃない!" のだ。

 

 

もうすぐハロウィーン、USJにも欠かせないゾンビはやはり今年も繁華街を徘徊するであろうが、今年は生みの親であるジョージ・A・ロメロの追悼を込めて彼のコスプレは如何なものか。しかし私たち日本人がどう上手く試みてもムツゴロウ先生となるのが関の山か。

 

 

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