『じゃあ』
『やめますか、聖女?』
『いつでも逃げられるから……それは忘れないで』
月曜の夜に決まって訪れるのは、アパートから少し歩いた所にある銭湯だ。
「…………ふーっ」
床に桶を置いた音がよく響くだだっ広い浴室で、浴槽に体を沈めて大きく息を吐く。ちょっと熱めのお湯は疲れた身体をほぐすのに良く効く。足を伸ばしてもまだまだ遥かに余裕のある広々とした浴槽の開放感も最高だ。
「はぁ……リラックスリラックス。やっぱ銭湯は最高だな」
うちのアパートの共同シャワーじゃこうはいかない。今時珍しい純粋な風呂屋として営業しているこの銭湯、特別な施設もサービスも無いが自宅に満足な入浴施設のない身としては天国にも等しい。
「ああ……まったくだ。命の洗濯とはよく言ったものだな」
同じ浴槽に入っていた紳士然とした人が俺の言葉に応えて頷く。この銭湯に通い出してしばらく経つが、その間にしばしば遭遇したことのある人だ。いわゆる常連さん。名前は知らないが時々言葉を交わすこともある。
しばらくのんびりと湯に浸かっていると、ふと紳士がなにげない調子で話しかけてきた。
「……少年。頑張っているようだな」
「……そう見えます?」
「ああ……」
互いに顔は見ず、吐き出す息に合わせて言葉を交し合う。
「……まあ……守らなきゃいけないものがあるんで……」
「……そうか」
この人と交わす言葉はいつもそう多くない。
だけど不思議と、この人と話す時間は心地好いものだった。
「さってと」
風呂からあがり銭湯を出て辺りを見回すが、一緒に来た人の姿はない。だいたい同じ時間に出るように示し合わせていたのだが、俺の方が少し早かったみたいだ。
「ふー……寒い寒い」
季節はもうじき冬。冷たさを増した空気は湯上りの肌から熱を奪い去っていく。マフラー代わりにと持っていたタオルを首に巻いて、手近な壁に寄りかかる。
「頑張っている……か」
待ち人を思い浮かべながら、先程の紳士の言葉を反芻する。
俺は今、そういう風に生きられているのか。
「あ……待たせてしまったかしら?」
銭湯の入り口から待ち人が姿を現す。
「いや、待ってないよ。……朱音さん」
外に出た途端寒さに顔をしかめる朱音に歩み寄り、笑顔で答えを返す。
『……本当に、いいんですね?』
彼女は全てを棄てて、俺の手だけを取ることを選んだ。人も、立場も、それまでの過去の全てを忘れて、遠い遠い場所で二人で生きることを決めた。
『大丈夫。俺がずっと、朱音さんのこと守りますから』
だから俺は、その手を絶対に離さないことを誓った。
「……どうしたの? 突然手を握ったりなんかして」
「まあ、なんとなく」
「もう。……瑚太朗の手、冷たいわ。やっぱり結構待ったんじゃないの?」
「朱音さんの手があったかいからいいんです」
「仕方ないわね、もう。これ以上冷えないうちに早く帰りましょう」
「はい」
握った手は離さないまま、俺たちは家路を辿る。
目指すのは二人だけで暮らす古ぼけた小さなアパートの一室。
俺たちの家へと。
部屋の中を自分以外の人が動く物音で目が覚める。
部屋の中に自分以外の誰かがいる。かつては幽霊が来るなんてこともあったが、今俺の部屋にいるのはそんな怖いものじゃない。それはもっと嬉しいもの。それは俺の好きな人だ。
そもそもここは俺の部屋じゃない。俺たちの部屋だった。
「…………」
昨夜二人で潜り込んだ布団。我が家には一揃しかないそれに、今横たわるのは俺一人だけ。
決して広いとは言えないワンルーム。探すまでもなくもう一人の姿はすぐに見つかった。
布団から身を起こして、台所に立つ朱音の背中を眺める。
朝起きて一番に見られるのが、朝食を作ってくれる恋人の姿。
……幸せって、こういうことを言うんだろうな。
「あ」
和やかな気持ちで眺めていたら、不意に朱音が慌てたような声を上げた。
大方何か失敗したのだろう。フライパンを持っている所を見るに何か焦がしたに違いない。しばらく固まった後、朱音はおずおずと振り向いて俺が起きているのに気付き顔を引きつらせる。
「……あら、起きたの瑚太朗」
「はい。で、今日は何を焦がしたんです?」
「……開口一番焦がしたなんて決め付けないで。その物言いは失礼よ瑚太朗」
「焦がしたんでしょ?」
「……まあ。目玉焼きを、作ろうとしたのだけど」
「目玉焼き……」
「…‥なに?」
「いや、なんでも」
これで今月に入って料理の失敗は十三度目。いつまで経ってもこんな調子で、朱音の不器用さは筋金入りのようだ。
「これでも上達はしているのよ」
「勿論、分かってますよ」
不機嫌そうに朱音が言う。俺はそれに笑って答える。
分かっているとも。朱音がどれだけの努力を払っているか。
少なくとも、もう不貞腐れて布団に戻ってしまうなんてことはない。
「じゃ、俺も手伝います」
「……ええ、お願い」
沢山のことが変わった。
朱音は俺よりも早く起きる。
起きて一番に考えるのは朝食のこと。
俺が仕事に出た後は、洗濯をして、掃除をして。
そして、帰ってきた俺を出迎えるのだ。平凡な笑顔で。
そんなあたりまえの人間に、朱音は変わった。
「……はは」
「どうしたの? 変な顔で笑って」
「別に、なんでもないですよ」
朱音は変わった。俺のせいで。
かつての朱音がもっと多くの人々のために割いていた想いを今は俺だけが独占している。平凡に当たり前に。
それは少しだけ傲慢な感動。
今の俺が手に入れた幸せ。
「あ、そうだ。忘れてた。朱音さん」
名前を呼ばれて振り向いた朱音を抱き寄せて、そっと口付ける。
「おはようのキスです」
「……おまえも飽きないわね。本当に日課にするつもり?」
「勿論。朱音さんとのキスに飽きるわけないって。朱音さんは飽きちゃいました?」
「まさか」
柔らかな微笑みに拒絶の意思は見えない。昂ぶり始めた気持ちを抑える意味はないと判断して、朱音の腰に回した手に再び力を込める。
「ちょっと、また焦がしてしまうわ」
「火、止めればいいじゃないですか」
「鎮火するべきなのは瑚太朗の性欲じゃない? こんな朝早くから……」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけれど……あまりのんびりしている時間は無いでしょう」
「少しだけだから。最悪朝飯食いっぱぐれてもいいから、今は朱音さんとこうしていたい」
「……もう。仕様がないのだから」
好きな人を好きなように抱きしめられる朝。
これ以上に気持ち良い朝は絶対に他には無いに違いない。
「じゃ、いってきます」
「ええ……いってらっしゃい」
支度を終えた後、最後にもう一度だけ口付けを交わして家を出る。
さあ、今日も一日頑張ろう。俺たちの生活の為に。
「ただいま……っと」
仕事を終えて帰ってきた俺に返事は無く、出迎えたのはパソコンに向かう朱音の背中。
これもまたいつもの光景といえばいつもの光景だ。
「朱音さーん? って聞こえてないし」
俺の声を阻むのは朱音の耳に装備されたヘッドホン。小刻みに揺れる肩と時折苛立たしげに漏れる舌打ちから相当熱中していることも伺える。
……やれやれ。
あえて足音を殺し朱音の背後に忍び寄る。肩越しに覗ける二次元の戦場。朱音は画面の中の照準に意識を集中させて、画面の中の引き金を絞る。
「えい」
朱音の首に手を回し、後ろから思いっきり抱きしめる。
「ひゃっ!?」
びくりと震える朱音の肩。赤く染まるFPSの画面。You are dead. ヘッドホンを落とし、露になった耳元で再び囁く。
「ただいま。朱音さん」
「あ、ああ……おかえりなさい」
「まーたFPSしてたんですか」
「だって暇だったんだもの」
「せめて俺が帰ってきたことくらい気付いて欲しいんですけどね」
「気付いては、いたのだけど。その、いいところだったから」
「無視してたんですか」
「……ごめんなさい」
「許さない」
「え」
「罰として。触っても、いいですか?」
「言いながら手が伸びているわよ。それに、罰と言うなら許可なんていらないでしょう」
「じゃあ遠慮なく」
「……そもそも拒んだりしないのだし」
「…………」
「……なに?」
「朱音さん。俺、止まらないかも」
「止める気なんて、初めからないくせに」
気持ちの赴くままに柔らかな膨らみに手を置く。ぴくりと震えた首筋に頬ずりをして、熱を帯び始めるそこに口付けを落とす。
溺れよう。甘い甘い幸せに。
この熱を抱いていれば、仕事の疲れなんて吹っ飛んでしまう。
さしあたっては、空腹を訴える腹の虫が悲鳴を上げるまで。このまま愛しい人を抱きしめていよう。
夕食を終えて一息つき。ちゃぶ台の向こうに座る朱音にふと思い出した問いを投げかける。
「……ところで朱音さん。今日バイトの面接だって言ってましたけど。どうでした?」
「……私にはもっとふさわしい仕事があるのよ」
「ダメだったんですね」
「だ、大丈夫。私にはアフィリエイトがあるから問題ないわ。家にいながら情弱釣ってがっぽがっぽよ」
「へぇ、ちなみに昨日の朱音さんのサイトのアクセス数は?」
「…………」
「…………」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんです?」
「生活費とか……今の状況は瑚太朗にばかり負担を掛けているわ」
「俺は別にいいんですけどね。好きな女を養うのも男の甲斐性じゃないですか」
「甲斐性ね……私は、瑚太朗が甲斐性無しじゃなくて良かったとでも思っておけばいいのかしら」
「そんな感じで」
「……でもやっぱりそれは、悪いわ」
「……ま、そう焦らなくてもいいですよ。そんなすぐに困るほど逼迫してないし」
朱音との間を阻むちゃぶ台を脇にどけて、朱音の傍に寄り項垂れる頭を撫でる。
「とりあえず。今は何も考えずに笑っててください。それが俺にとって他の何よりも嬉しいことなんですから」
朱音が何も考えずに笑っていられるために。そのために俺たちは今の人生を選択したのだから。
それだけが、俺が幸せを感じられる、何よりも価値のある報酬なのだから。
「笑っているだけでいいの? 瑚太朗はちょろい男ね」
「惚れた弱みってやつですよ。まあ他にもイロイロしてくれるなら、それはそれで嬉しいけど」
「お馬鹿」
朱音は緩やかな笑顔を浮かべて俺の傍ににじり寄り、俺の肩に寄り掛かる。
「……私も、ちょろい女ね」
「え?」
「そんな風に言われたら、やっぱりニートじゃいられないわ。瑚太朗が私のために頑張ってくれるのだから、私も瑚太朗のために頑張りたい」
「……朱音さん。マジメになりましたね」
「もしかして、馬鹿にしてる?」
「まさか」
嬉しくて、愛しくて、たまらない。
二人寄り添って生きていくということ。そういう選択を、そういう決意をしたことを、本当に嬉しく思う。
「あ、でも。朱音さんはニートじゃないですよ。専業主婦でいいじゃないですか」
「それは……」
「まあそれはそれで頑張らないといけませんけどね。家事、ちゃんとできるようにならないと」
「……ぐぬぅ」
唸る朱音を抱きしめる。抵抗なく身体を預けてくる朱音をゆっくりと押し倒す。
ああ、楽しい。
ああ、幸せだ。
そして俺は目を覚ました。
俺の目を覚まさせたのは、部屋の中を自分以外の誰かが動く音。
勿論それはかつて俺の眠りを妨げた幽霊ではなく。
ついでに言うなら、ここは部屋というよりは小屋だった。
ワンタッチで展開可能なお手軽魔物ハウス。テントと言ったほうが正しいかもしれない。そして今の俺たちの愛の巣だ。
「あら。起きた? 瑚太朗」
振り返る物音の主。俺の愛しい人。
「おはよう。朱音さん」
寝袋から体を出し立ち上がる。踏みしめるのは石の感触。
俺たちがたどり着いたのは、遠い町の古い小さなアパートなんかじゃなくて、冷たい世界の荒野の真ん中だった。
「どうしたの、瑚太朗? 変な顔をしているけど」
「いや、なんでもないよ」
ちょっとした、夢を見ていただけだ。
「そう。ならいいのだけど。朝食、出来ているわよ」
「ああ。目玉焼き、焦がしませんでしたか?」
「目玉焼き?」
「あっと。いや、なんでもないです」
何のことかといぶかしむ朱音の目をごまかすように、慌てて用意された食卓に着く。
「いただきます」
「ええ。どうぞ」
綺麗に盛り付けられた朝食を口に運びながら、ふと思ったことを言う。
「……朱音さん、料理手馴れてきましたよね」
「そうね。まあ、料理というほどのことはそもそも出来ないけど」
俺たちの環境では滅多に火は使えないし、手に入る食材も限られている。目玉焼きなんてそれこそ夢の中でしか食べられない。
それでも。
「瑚太朗に変なものを食べさせるわけにもいかないもの。それなりに努力はしたつもりよ」
「俺の為に、ですか」
「他に、何か違う意味に聞こえる?」
「いえ。……はは」
今朝見た夢。
あれはきっと、俺たちが選べなかった世界の夢。
いや、選ぶことが出来た世界の夢と言うべきか。
夢の内容を思い返して、軽い喪失感を覚える。
もしかしたら、あんな風に。何かを失って、そして何かを失わずに済んだのかもしれない。
朝食を食べ終えて。食器を片付ける朱音に言う。
「今朝、ちょっとした夢を見たんですよ」
「夢?」
「ええ。いや、たいしたものじゃないんですけどね」
それでも、あの夢に何かを思う必要なんて無い。
今がたとえどれだけ間違えた結果で、どれだけたくさんの後悔をしていても。
「幸せだなあって、思いました」
朱音がいて、寄り添って生きていけるなら。
辿り着いた場所に、違いなんて無いと思うから。