残留嗜好

残留嗜好

模索中

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【注意】
『anemoi』全ルートのネタバレを含みます。
                                
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家の前のベンチに身を預けて、私は黄金色の麦畑を眺めていた。

「麦畑、大きくなったね」

となりで横たわる麦の頭を膝に乗せて、瑞々しさを無くした彼の髪を撫でながら呟く。

「守り続けてくれてありがとう、麦」

麦からの返事は返ってこない。
もう何度、こうして一方通行の言葉を落としただろうか。
麦に触れる手はもう温度を感じていない。
心も、もう伝わってはこない。

「……麦」

私たちの間に流れる静寂とは裏腹に、世界は騒々しく動いていく。
ふと気が付くと、太陽はもうずいぶん高いところにいる。
風は穏やかなはずなのに、回る風車の羽根の動きはどうにもせわしない。
無限のような長い間、この時間を望み続けた。愛しい人と同じ速さで流れていくこの時間を。
ようやく手に入れたその時間は、あっという間に私の手からこぼれていく。
つくづく時間というものは、私の望むように動いてくれない。

「……そろそろ、動かないと」

意を決して呟いた言葉は、けれど私の体を動かしてはくれない。
動けば、この時間が終わってしまう。
もう麦の時間は止まってしまっていて、とうに二人の時間は終わってしまっていると頭では理解していても。
自分から終止符を打つことはできそうになかった。
もう、いいだろうか。
もうこのまま、この体が朽ちるまで、二人で寄り添い続けていてもいいだろうか。

そうして思考を手放しそうになったとき――近くで物音がすることに気付いた。
あたりを見回すと、家の前に人影を見つける。
車いすの老人が、驚いた表情でこちらを見ていた。

「……スピカ?」

彼は私の顔を見て、次に私の膝で眠る麦の顔を見て、もう一度私の顔を見て、また麦の顔を今度はまじまじと眺めて。
そんなことを繰り返しながらこちらに近寄ってきた彼は、最後にもう一度麦の顔をじっくりと眺めて、麦の手に触れて、そして力のない笑みを浮かべた。

「いっちまったのか」
「……ええ」

問われて、頷いて。私の中に酷い喪失感が広がる。
と同時に、妙なおかしみが湧くのも感じていた。
何十年経っても、この男は私たち二人の時間に割り入ってくるのか。

「最後は俺に勝たせるって言ってただろう……。でも、お前はちゃんとやり遂げて行ったんだな。やっぱり凄いやつだよ、お前は」

力なく横たわる麦の手に自身の手を重ねて静かに語り掛けている。
そのままいつまでもぶつぶつ言っていてちっともこちらを見ないものだから、思わず問いかけてしまう。

「……私のことは聞かないの?」

「ああ、マッハで理解してるさ」

ニヤリと口角を上げて彼は答える。

「お迎えに来たんだろう?」

いくつになっても、河瀬千春はこういう男だった。


~*~*~*~*~*~


麦の葬儀の準備は、河瀬が呼んできた役所の人たちによって進められた。
驚いたのは、河瀬が私のことを「麦の妻だ」と紹介し、役所の人たちもさほど疑うことなく受け入れられたことだ。

「あの頃麦の近くにいた人間は皆、風の一族の話は聞いてたんだ。穂乃夏が旅に出た時にな。
 でなきゃ、穂乃夏をあの年で旅に出したりしないわな」


『――皆、話があるんだ。突飛なことだから、俺の頭がおかしくなったと思われるかもしれない。でも聞いて欲しい』

『なになに、どしたの麦君』
『これは尋常じゃないですねぇ』
『昼間っから呑んでるんじゃないよな?』
『まあまあ、まずは聞こうじゃないか』

『――実は穂乃夏は人間じゃなかったんだ』

『『『『『は?????』』』』』

『そして人間になったんだ』

『『『『『ん?????』』』』』


「皆、信じたの?」
「ああ。まあそれっぽいことはいろいろあったし、広美さんにも本当だって言われちゃあな」
「広美が……」
「玖琉未も本当だって主張してたけど、いつも通り恐竜がどうのと言い出したせいで皆あまり聞いてなかったな」
「そう……」
「で、穂乃夏がスピカを探しに行って、麦はスピカを待ち続けてるんだって聞いて、文弥さんたちが手を回してな。
 書類上は麦とスピカの婚姻関係は続いてるんだ」

そんなことになっているだなんて考えもしていなかった。

「私と麦が、今でも夫婦……」

口にすると、じんわりと胸の内に嬉しさが広がる。

「スピカが戻ってきたらいつでも夫婦として生活できるように、住民情報もうまいこといじっててな。
 たしか今だと……スピカは28歳で、10年くらい前に結婚したことになってるはずだ」
「それ、大丈夫なの?」
「最近は戸籍の再編製もかなり進んだから、もう1回裏工作する時が来たらやばかったかもなあ。
 まあ間に合ったんだし、麦の世間体以外はセーフだ」

わはは、と事も無げに笑う河瀬に妙な貫禄を感じて不思議な気分になる。
言動の端々にあの頃と変わっていないところを見つけられるのに、同時に重ねてきた年月も感じさせる。
真澄町に来て広美と再会した時も似たような気持ちになったっけ。

「……ともかく、ありがとう。麦のために……私たちのために動いてくれて」
「礼にはおよばんさ。スピカのいない間の麦の女房役は、ライバルである俺の役目だからな」

それはちょっと、認めがたい。


~*~*~*~*~*~


葬儀には町の内外から多くの人が訪れた。
麦の妻として突然現れた私のことは、麦の介護でつきっきりだったから町に出ていなかったのだと河瀬が話を通している。
誰よりも麦の傍に居た河瀬が言うことだからと、それを疑う人は現れなかった。

……誰よりも傍に居たという冠を河瀬が得ていることは許しがたいけど、事実だからしょうがない。

私の容姿のことで変な目で見られることも覚悟していたけど、ここでも思っていた以上にすんなりと受け入れられた。

「まぁ、あのピザ爺さんだしねぇ……」
「ピザ爺ならありえるか……」

麦、町の人からいったいどんなイメージを持たれてるの。

「私になびかなかったのはやっぱりそういうことなのねぇ……」

聞き捨てならないことが聞こえた気がしたけど、私の立場で取り乱すわけにもいかないので聞かなかったことにする。
麦が町でいったいどんな振る舞いをしていたのか気になってしょうがないけど、麦のことだ、不誠実なことはしていないはずだ。
麦のことを信じよう。
頭を振って邪な想像を振り払い、弔問客の対応に戻る。
町の外から来た人たちの中には、麦の弟子だという人たちが多くいた。
弟子の弟子まで含めれば麦の弟子は全国にいるんだぜ、と何故か得意げな河瀬が一人一人紹介してくれる。

「こいつなんて今や全国規模のピザチェーンの社長なんだぜ! 麦の所に来た頃はヒヨッコだったのにな!」
「本当に、今の自分があるのは麦さんのおかげですよ。麦さんの味を全国に広めるのが自分の使命だと思ってここまでやってきましたから」

彼らの話を聞いていると、想像以上に麦がピザ職人として広く名を馳せているのだと感動を覚える。
麦の味。麦はどんなピザを焼くようになったのだろう。
叶うなら、一枚でいいから食べたかった。

「そうだ、後でピザ焼いてくれよ。スピカにも食べてもらおう」
「ええ、私でよければ喜んで」

私の方に目配せをしながら、河瀬がそんな提案をしていた。
……気が利くじゃない。この人は本当に河瀬なのかな。

そんな風に彼らと話していると、興味をひかれる話が出てきた。
彼らが麦に師事するために真澄町に来たきっかけの話だ。

「ある日、私たちの町に小さな女の子がやって来たんです。母を探して旅をしてるんだと言って。
 いろいろと聞き込みをした後、その子がこう聞いてきました」

『この町にピザ屋さんはありますか?』

……穂乃夏だ。
特徴を聞いていくと、その女の子は間違いなく私たちの娘だった。

「残念ながらその頃はうちの町にピザ屋は無くて。あまりにもがっかりしているものだから、
 ありあわせの材料でピザトーストっぽいものを作ってみたら凄く喜んでくれてね」

『このソース、すごく可能性をかんじる』

『ピザとともに生まれ、ピザとともに育ったほのかにはわかります。あなた、ピザの才能がある』

『真澄町にくることがあったら、うちのピザを食べてみて』

『きっと、あなたもピザのとりこです』

「そのことが妙に心に残ってね。
 あるとき、こちらの方に来る機会があって、あの子のことを思い出して食べてみたらすっかりはまっちゃって。
 気が付いたら麦さんの所の門を叩いてました」

話を聞いていくと、似たような経緯で真澄町に来た麦の弟子は多いらしい。
初めは弟子をとることを渋っていた麦も、経緯を聞いたら前向きに認めてくれるようになったんだとか。
穂乃夏は旅の中で真澄町のピザを広めてくれていたのだ。

――穂乃夏。母は誇らしいわ。

私がドムドムじーさんのピザを食べてピザに目覚めたように、
穂乃夏に導かれ、麦のピザを食べてピザに目覚めた人たちがこんなにいる。
私の家族はピザ家族なんだ。
こんなに嬉しいことがあるだろうか。
目頭が熱くなるのをこらえながら、葬儀の時間は過ぎて行った。


~*~*~*~*~*~


麦の体を見送るとき、不思議と心は穏やかだった。
そこにはもう命が宿っていないことを否応なく感じてしまうからだろうか。
たくさんの麦を知る人たちと話して心の整理がついたからだろうか。
自分の心の居所をなんとなく見つけられないまま、麦は私の手でも持てる大きさになった。

「墓の場所の希望はあるか?」

いつか麦と二人でお墓参りに行った海辺の墓地が脳裏に過ぎる。
あそこがまだあるのなら、彼の思い出の場所で眠ってもらうべきだろうか。

「……我儘を言ってもいいのなら」

それでも、心の内から出てきた場所はひとつだった。

「私たちの家のそばに」

許されるのなら、これからもあの場所にいてほしい。
私の答えを聞いた河瀬は「だろうと思った」と言って私たちの家の方に手を伸ばし、私もよく知る風車を指さした。

「スピカの風車のそばに埋葬できるよう話はつけてある。麦にはあそこで眠ってもらおう」

この手際の速さ、さすがのスピードだろう? まあ話をつけたのは俺じゃないが……とあれこれ言っている河瀬の言葉を聞きながら、私たちの思い出の風車をじっと眺める。
穏やかな風を受けて、風車の羽根はゆっくりと回っていた。


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葬儀の翌日、一人で真澄町を巡り歩いた。
復興と開発が進んだ街並み。私たちの家の周辺を離れると、かつての面影はあまり見つからない。
『巡り合い』のあった場所に通りかかると、店名も店構えも変わっており、『真澄町観光兼移住振興兼子育て支援課』の看板も無い。
長い時が過ぎたことを実感しながら町を進んでいく。
目的地である墓所へ着き、広美や文弥さん、塁……よく知る人たちの墓に手を合わせる。

「……みんな。麦のこと、ありがとう」

みんなのおかげで、きっと麦は孤独ではなかった。

「穂乃夏のことも、ありがとう」

みんなのおかげで、健やかに育ってくれた。

そう思える人たちに出会えたことに改めて感謝する。

墓参りを終えて、河瀬との待ち合わせ場所に向かう。会わせたい人がいると言われ呼び出されていた。
待ち合わせ場所に着くと、河瀬と共にいたのは葬儀で会った麦の弟子のひとりだった。全国チェーンの社長だという人。

「まずはこれをどうぞ」

彼が焼いたというピザが差し出される。

「いただくわ」

麦の弟子の味。心して味わおう。ピザを一切れ手にし、かぶりつく。

「……美味しい。それに――」

遥かな時を超えて、ひさしぶりに味わうピザの味。
蘇る思い出の数々。毎日がピザと共にあったあの頃。
その思い出が告げていた。

「もし何も言われてなくても、このピザを食べたらあなたが麦の弟子だってわかってたと思う」

この味は懐かしい味だ、と。

「あなたにそう言っていただけて光栄です。スピカさん。……いえ、大師匠」

私の言葉を聞いた彼は予想外の言葉で私を呼んだ。

「だ、大師匠?」
「ええ。あなたが、麦さんにピザを教えたスピカさん……なんですよね」

咄嗟に河瀬の方を見る。いや、訳知り顔でうんうん頷いてないでちゃんと説明して。

「ええと、その、あなたも知っているの。私のこと」
「はい。麦さんから話は聞いています」

弟子の内の何人かは風の一族のことや私のことを聞いているのだと彼は語る。

「きっかけはこれでした」

彼が薄い絵本のようなものを取り出す。表紙に書かれているタイトルは『風の一族の冒険』。

「うちの店の販促キャンペーンでピザのおまけに絵本をつけることになって、
 麦さんにアイデアを聞いたら風の一族の話を教えてくれたんです。あくまでおとぎ話としてですが」

言われてみれば、絵本の大きさはちょうどピザの箱と同じぐらいだ。おまけというのも頷ける。
絵本を受け取り、ページを開いてみる。描かれているのは人知れず厄災を鎮めて周る旅人の物語。
主人公の姿は心なしか私に似ている……かもしれない。

「実際に絵本の配布を始めたらけっこう好評で、他の弟子の店でも配り始めたりして。
 そうしていたら、ある日この絵本を書いた人を教えて欲しいという人が店に来たんです。
 自分は本当の風の一族を知っている、と。
 麦さんに紹介したら、二人で色々と話し込んでいるようでした」

絵本の設定は風の一族そのものだ。
知っている人が見れば、気になって接触してきても不思議じゃない。

「その人が帰ったあと、どうしても気になったので麦さんに訊ねたんです。
 風の一族って何なのか……と。
 そうしてスピカさんのことを聞いたんです。風の一族の話は本当のことで、麦さんにピザを教えてくれた人も風の一族だったんだと」
「それで、大師匠……」

麦にはピザの焼き方を直接伝授したわけではないから、その肩書は過大じゃないか。

「風の一族シリーズはかなり手広くやってましたから、他にも絵本きっかけで風の一族の関係者と接触した人はいるそうで。
 それでなんとなく信じてはいたんですが……こうして本当にお会いできるとは思っていませんでした」

話しながら、新たに数冊の絵本を取り出してくる。すべて風の一族シリーズのようだ。

『風の一族の伝説』
『風の王の戦い』
『風車王スピカイザー』 

「スピカイザー!?」

異彩を放つタイトルに思わず声をあげる。
表紙では風車をモチーフにした巨大ロボットが巨大な猪と戦っていた。
他にも、犬や龍と戦っているものもある。

「スピカイザーは特に麦さんイチオシのシリーズですね」

『この町も人の入れ替わりが増えて、スピカの名前を憶えている人ももう少ない……。
 でも、スピカイザーが多くの人に読まれれば、スピカの名前がその人たちの心に残るんだ。
 それは……なんというか、救われる気がする』

「……くぅっ」

麦め。
なんてアホなことを。
なんてアホなことをっ……と、思いはするけど。
でも。
ちょ、ちょっと嬉しい……!
そもそもスピカイザーなんて、そんな些細なことまで覚えていたなんて。
麦にとってはちょっとした冗談も私との大切なメモリーというわけね。

「さて、今までの話はこれくらいにして、本題に入らせてもらってもいいですか」

そうだった。何か用があるということで呼び出されたのだった。
思い出話が目的ではないのなら、彼の用事は。

「麦さんのやっていたピザ事業を引き継がせてもらえませんか」

彼自身の店は後進に譲り、真澄町に移住して麦の店を継ぐ。
それが彼の提案だった。

「私もそろそろ隠居を考える年齢でして。身の振り方を考えていた時に、この町のピザを継ぐ人がいないという話を聞いて、それならばと」
「麦の許可は以前に取ってある。だが、この町のピザ事業の始まりはスピカだからな。
 スピカにも話を通すのが筋だと思ったわけさ」

その提案を断る理由は無かった。
私たちで始めたピザ事業。
私がいなくなっても、麦が続けてくれて。
そしてまた次の人へ続いていく。それはこの町に私たちがいた証が残り続けていくということ。
これは麦が人生をかけて繋いだもの。
暖かい気持ちで胸を満たしながら私は頷く。

「よろしくおねがいします」


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家に戻り、部屋の中を見回す。
ピザ事業を引き継ぐということで、拠点であるこの家も片付けないといけない。
私が望むなら他の場所に拠点を作ると言われたけど、それは断った。

『……私はもうすぐまた旅に出るから』

風の一族のことが思いの外知られていることには驚いたけど、あくまで麦の周囲の一部の人たちに限られる。
このままここで暮らし続けていくことはできないだろう。
本格的に事業が再開されるまではしばらくの時間がある。
それまでに、ここで私がやるべきことを済ませる。

「まずは穂乃夏の部屋から」

かつての自分の部屋でもあった部屋に入り、部屋の中を見回す。
この数日間この部屋に入る度に思っているけど、まるでこの部屋だけあの頃から時が止まっているようだ。
麦が定期的に手入れしてくれていた部屋は数十年前とまるで変わらない。
もっとも、それほど物が多くないというのもあるだろうけど。
穂乃夏のものは穂乃夏が旅に出る時にきちんと整理して行ったようで、部屋の整理はすぐに終わった。

「きちんと片付けできてえらいわ、穂乃夏」

言ってあげられなかった言葉を空に投げながら、小さくまとめた荷物を眺める。
一番上に置いてあるのは、ピンク色の大きな枕。かなり色褪せてはいるけど、派手な柄と文字はいまだに健在のYES/GO枕。

「それにしても、どうしてこれを穂乃夏の部屋に置いていたの」

穂乃夏の教育に悪いでしょう。
もう少し穂乃夏が大きくなってこの枕について聞かれたらどう答えるつもりだったのか。
それに、夜寂しくなった時にこの枕を抱きたくなったりしなかったのかしら。
麦と私の思い出が染み込んだ枕。
もしも私と麦の立場が逆だったら、夜の麦を思い出すのにこの枕に目を付けただろうに。
夜の麦ってなんだ。

「……こほん」

しょうもない考えは振り払って、片付けを続けるために次は麦の部屋へ移動する。
部屋の中を見回すと、頑丈そうな造りの本棚が目に留まる。私がいた頃にはまだ無かったものだ。
本棚には何冊もの冊子が収められている。
一冊目は私自身にも強く馴染みのある装丁。私と麦の交換日記の最初の一冊。
二冊目も装丁は一冊目と同じ。三冊目以降は装丁はバラバラだけど、どれも中身は十年日記。
一冊目のころは引き出しの中にしまっていたけど、いつからかこうして目立つところに置くようになった。

一度は諦めてしまった交換日記を麦は再び書くようになった。穂乃夏が用意してくれた二冊目を使って。
毎晩記される麦の日記に対して、私からの返事はそれまで以上に減ってしまった。
麦が穂乃夏に自身のアルミアスと命を捧げたように、私もまた力の多くを穂乃夏へ渡した。
その代償に、はっきりと自我を保ち続けるのはそれまで以上に難しくなり、風の中に意識を溶かしている時間も増えていった。
目覚めて麦のそばにいても思考は曖昧なことが多く、麦たちを見守るという意思だけがなんとか私の自我を繋ぎとめているような状態だった。
だから返事と呼べるほどのものは書けなくて、書けたとしても複雑な文章は書けない。
それほどに希薄な繋がりになっても、麦は日記を書き続けた。
十年書ききる度に、新しい日記を用意して。最期の時まで、私への文字を遺し続けた。

さらには日記だけじゃない。
本棚の他の棚へ目を向けると、そこには様々なものが置かれている。
余りものの紙片。持ち運べる小さなホワイトボード、ひらがなやアルファベットが書かれたカードやブロック。五十音表。
どれも文字を表現することができるものだ。
穂乃夏が旅に出た後、麦はこうしたものを市場やジャンク品から集めてくるようになった。
家のあちこちにこうしたものを置いておき、何かあるたびに文字を記す。
日記とは別に、日記とは違いあとには残らないその時だけの、私に向けた言葉。

"こんなんじゃ、ぜんぜん足りないと思うけど"

1日≪27年≫に1度よりももっと君と言葉を交わせるように考えたのだと、麦は日記に記していた。

"いいえ、うれしい"

頻度や回数以上に、私のためにと行動してくれることが嬉しかった。
直接傍にいることができないから、どうしてもそういう機会は少ない。
私が消えてから、「私のために」麦ができたのは、命をかけての風の回廊の探索だけ。
「やめて」と何度も日記に書こうと迷って、結局は書かなかった。
それに関してはもう、私たちには前科が有り過ぎるから。私が帰ってくる以外に止める方法は無いと分かってしまう。
そうして不安と愛情がごちゃごちゃになった気持ちで見守り続けてきた。
だから、麦が苦しむことのない形での私のための行為は本当にひさしぶりで。
葛藤無く受け取れる愛情は、それだけで数万年を余裕で過ごせるものだった。

それに、長い文章ではない分、か細い意識でも反応しやすい。
ブロックを転がしてみるだけの時もあったけど、麦はちゃんと私からの返事だと受け取ってくれたかな。
風のいたずらだと思ったかな。

そうした麦との時間を超えたやり取りを振り返りながら、棚の品物を箱に納めていく。
日記を一冊一冊手に取るたびに開いて中を見ようかと迷って、結局開かずに箱に入れる。
見なくとも、書かれている内容はわかる。
だって何度も読み返したから。
悠久の時の中で、何度も何度も数えきれないほど読み返した。
何年何月何日に何があったか、いくらでも諳んじられる。
だからもう読み返さなくていい。

「読み返すなら……一緒に」

麦と一緒に読み返すことができたらよかったのに。
ずっと夢想していた願いが口からこぼれ落ちる。
十年日記は1ページに1日の10年分を記していくもの。つまり、いつか読み返すことを前提にしたものだ。
麦もそのことは意識していて、日記には時々"いつかスピカと読み返す日が来たら"という言葉が出てくる。

"いつかスピカと読み返すとき、この日のことは鮮明に思い出せると思う"
"いつかスピカと読み返したら、このことを怒られるかな"
"いつかスピカと読み返すとき、俺たちはこの日をどんな風に思うんだろう"

そんな言葉が出てくるたび、私もその日が楽しみになった。
いつか二人で読み返すときを思い描いて、寂しさを耐えしのいだ。
今となってはもう叶うことの無い願い。

麦の人生が詰まった日記。
二人で読み返せたなら笑い合えただろう。愛の証を辿れただろう。
でも、一人だけでは。
ただ、失ったものを見せつけられるだけ。
この日々に。この1日1日に。私も、寄り添えたはずなのに。

「この日記は、麦と一緒に眠ってもらおう」

穂乃夏のものは弟子の人に預かってもらい、その他のものは処分する。
でもこの日記は、誰かに預けるのも捨ててしまうのも違うと思った。
だからこれも風車の傍に埋葬する。

日記をしまい終えた箱を持ち、リビングへ運ぶ。
箱をテーブルの上に置いた瞬間、不意に体から力が抜けた。
咄嗟に椅子の方へ体を向け、倒れこむように座る。
視界の端で光が舞っている。

「……もう、タイムリミット……?」

今の私の体は、私と穂乃夏の願いによって形作られたもの。
麦のもとへ帰る。その願いが、私が今ここにいるただひとつの理由。

だから、願いが果たされれば、私の時間は終わりだ。

「もうちょっとだけ……がんばらないと」

麦の最期を看取り、葬儀を行い、遺品もまとめた。
妻としてやるべきことは終えてしまった。だから終わりが見えたのだろう。
でも、まだやるべきことは残ってる。
あとひとつ。

――母として。

気力を振り絞り、体に力を入れる。立ち上がって一息つくと、ふらつきは消えている。
ふと、風を感じた。
窓を開けてもいないのに、部屋の中に暖かな風が吹いてくる。
風の流れは私の正面へと向かい、顔に吹きつける風に思わずまばたきをした次の瞬間、部屋の中に一人分の気配が増える。
視線を下に向ける。
私の腰に抱き着き、こちらを見上げる娘の姿がそこにあった。

「母! 起きてる!?」
「起きてる。まだ大丈夫よ。
 それより穂乃夏。帰ってくるなら玄関からでしょう」
「うぷす。ごめんなさい。急いでたから。
 いちおう、玄関から入ってはきたよ」

分かってる。
私と穂乃夏は願いで繋がっている。私の終わりが近いことを察して、急いで帰ってきてくれたのだろう。
私もまた、穂乃夏が帰ってこようとしていることは感じていた。
だから、この子の帰りを待つことが私の最後の仕事だった。

「おかえり、穂乃夏」
「ただいま、母」

ぎゅっと穂乃夏の体を抱きしめる。
ようやく。ようやくだ。
この子をこの世界に生み落としてから今日まで、果てしない時を超えて、ようやくこの子を抱きしめられた。
胸の中の穂乃夏は私の体でも包み込んでしまえるほど小さくて。
そして、確かにここに存在してる。
小さくても力強く。熱と鼓動を私に伝えてくれる。
私たちの娘は、今日も元気に生きてくれている。

「大きくなったね、穂乃夏」
「ううん、大きくなってないよ。母より大きくなりたかったのに」

ぷくりと頬を膨らませる穂乃夏の頭を撫でて、そうじゃないわ、と言葉を続ける。

「たくさん見てたし、たくさん聞いたわ。穂乃夏が世界中でがんばってきたこと
 わたしたちのためにありがとう、穂乃夏」
「……ちゃんと、父に会えた?」
「うん。会えたよ。穂乃夏のおかげで」
「こんなに時間がかかっちゃって、ごめんなさい。もっと早く合わせてあげたかったのに」
「いいえ、十分だわ。それに、お父さんから聞いてるでしょう?
 我が家では、ごめんなさいは禁止」
「……うん」
「本当にありがとう、穂乃夏」

安心したように笑う穂乃夏を連れて、二人でソファに腰掛ける。
そして、この数日間であったこと、会った人たちのことを話した。
穂乃夏からは、願いを叶えてからこの町に戻ってくるまでの話を聞いた。
私も母と一緒に届けてくれればよかったのに、と穂乃夏がぼやく。
外見は幼いままだけど、こうして愚痴をこぼす様からはどこか大人びたものも感じる。
私も、皆からはこんな風に見えていたのかな。

「そうだ。穂乃夏、欲しいものはない?」
「欲しいもの?」
「がんばってくれたご褒美をあげないとね」

私の時間が終わる前に、できることは全部してあげたい。

「うーん」

しばらく悩んでいた穂乃夏はテーブルの上に目を留める。

「……本を読んで欲しいな」
「本? 読み聞かせ?」
「ううん。おとーさんとおかーさんの本」

穂乃夏が示すのは、テーブルの上に置いていた交換日記を入れた箱。

「二人の交換日記をいっしょに読みたい」

――読み返すなら……一緒に

先ほど呟いた言葉が脳裏に過ぎる。
私はとんだ考え違いをしていた。
二人が良かった、一人では読めない、なんて。
私たちは三人家族だ。
思い出を分かち合うべき家族は、今、私の隣に居てくれている。

「……うん。一緒に読もう」

日記の箱を持ってきて、一冊取り出し二人で肩を寄せ合って読み始める。
一冊目。最初の10年。
私と麦の、麦と穂乃夏の人生が重なっていたころ。

「この日記は二人の同棲記念で始めたんだよね」
「記念というとちょっと違うけど、そうね」
「父と母はどうして付き合い始めたの?」
「……穂乃夏もそういうことを気にする年になったのね」
「む。わたしもうとっくに大人だし」
「じゃあ、穂乃夏は彼氏できたの?」
「……それは、ないけど」

私たちは成長しない。幼い姿のまま時間が止まっている。
それは得られる経験も限られていることを意味している。
子供の姿、子供の立場では、どうあっても子供としての経験しか積めない。
普通の人であれば大人になるのに十分な年月を過ごしても、同じだけ成熟できるとは限らない。
この子はどうだろうか。
長い旅の中でどんな経験を積んで、どんな心を育ててきたのだろうか。

「きっと穂乃夏にもいい人が現れるわ」
「……そうかな」

そんなことを話しながら、一冊目に目を通していく。
一冊目は波乱万丈だ。
私と麦が、同棲を始めて、結婚して、穂乃夏を身籠って。
私がいなくなって、穂乃夏を育てていく日々。
時折、私の思い出と穂乃夏の思い出をお互いに話しながら読み進めた。

「父、この日記をすごく大事にしてた」
「うん」
「こうして読んでると、わかる。大事にしたい気持ち」
「……そうね。私も、とても大事」

二冊目の冒頭は、私と穂乃夏のやり取りが残っている。

「私、ちゃんと文章書けてなくてごめんね」
「ううん、分かったよ。ちゃんと」

穂乃夏が旅立ってからすぐの日々には、数日に一度は穂乃夏を心配する言葉が並んでいる。
十年間ずっとそんな調子だから、結局はどのページでも穂乃夏を心配していて、それを見て穂乃夏は呆れた様子。

「父、心配しすぎ」
「仕方ないわ。私だって心配してたもの」
「ふたりとも、過保護」
「女の子の一人旅なんだから、心配するのは当然だわ」
「ツミレさんもいたよ。それに、母だって一人で旅してたんでしょ」
「それでもよ」

時折、穂乃夏から麦に宛てた手紙が挟まっていて、そのページには手紙への反応が書かれている。
旅をしている穂乃夏に返事は出せない分、ここに記していたのだ。
穂乃夏はそれを読んで、懐かしそうに笑っていた。

三冊目からは麦の生活の変化は穏やかになり、町の変化を記したページが増えてくる。
復興の勢いも増し、他の町との連携も強くなっていく。
塁や文弥さん、町の中心の人たちが忙しくしている様子と、麦の周りは相変わらず馬鹿をやっている様子が記されている。

「塁ママたちにも会いたかったな」
「……うん」

そうして冊数は進んでいき、晩年。遂にはその記述に辿り着く。
最初は元町長。

「厄介な人だったけど、お父さんもお母さんもお世話になったわ」

次は、広美。

「お母さんにとって、とても大切な人だった」

健さん、文弥さん、塁。

「みんな、大好き」

しみじみと言う穂乃夏の頭を撫でながら、私も頷いた。

おまけに、河瀬について。

「父、千春がしばらく来ないって心配してるね」
「食あたりでしばらく寝込んでたらしいわ」

そうして、麦が書いた最後のページまで読み終えて、最後の日記を閉じる。
そういえば、ずいぶんたくさん読んだけれど、どれだけ時間が経っただろう。
窓の外を見ようとして、自分たちがいつのまにか風の回廊にいることに気付く。

「穂乃夏、あなたが連れてきたの?」
「うん。ちゃんと最後まで読み切りたかったけど、一晩じゃ足りなそうだったから」

気付かなかったのは、日記に集中していたからか、それとも。

「母。日記、どうだった?」
「……うん。読めて良かった」

この町に来てからの麦の一生が綴られた日記。
私たちが一緒にいられなかった日々。
私たちが一緒に待ち続けた日々。
全部をこの胸に受け止めて、終わることができる。

「……母」

穂乃夏が私の手を握り、じっとこちらを見つめる。
揺れる瞳が、私たちの願いの終わりを悟っている。

「わたしもいっしょにいくよ」

ずっと決めていたことのように、穂乃夏が言う。

「母といっしょにわたしも風になる。そうしたら、これからもいっしょだよね」

穂乃夏の言葉に驚きはなかった。
かつての私も同じところへ向かっていたから。

人としてあるべき生き方から離れ、使命のために生き、使命の果てを目指す一生。
私と同じ運命を、私たちはこの子に背負わせてしまった。
風の一族としての生と、私たちを再会させるという願いをこの子の人生に載せてしまった。
そのためにこの子は生きてきた。

だったら、やり遂げたこの子のために、私たちはどうすべきか。

家族でいっしょに。願いの通りに。
ここを、この子の結末にしてあげるべきなのか。

「……穂乃夏」

私は微笑みを作り、穂乃夏の手を握り返して言葉を紡ぐ。

孤独なままの私だったなら、その選択も良しとしたかもしれない。
でも私は、この町で過ごして、麦と一緒になって。
そして、この子の親になったから。

「穂乃夏は、もう、やりたいことは無いの?」
「……父と母といっしょにいたい」

親らしいことは何一つできなかったけれど、私はこの子の母親だから。
親として、あなた自身の人生を、願うの。

「それは、急がなくてもいいよ」
「え?」
「私たちは待ってるから。ずっと、いつまでも、待ってるから。
 穂乃夏がやりたいこと全部やって、やり切って、その後で、帰っておいで」
「……でも、わたしはずっと……父と母といっしょになるために……」
「ごめんね。ずっと、穂乃夏の欲しいものをあげられなくて。
 約束するから。穂乃夏が帰ってきたら、今までの分ぜんぶ、いっしょにいるから。
 だからそれまでは、私たちのことは忘れて、穂乃夏自身の人生を生きて」

この体が消えたら、私はどうなるのか。
予感はあるけれど確証はない。
だからこの約束は守れるのかどうか分からない。私のする約束はそんなのばかりだ。
でも、大丈夫。
私も麦も待つことだけはやり遂げたから。
この約束は、絶対守れる。

「忘れるなんて……っ」

穂乃夏の表情が崩れる。
目に涙を溜めて、すがりつくような顔で首を振る。

「……やりたいことなんて見つからないかもしれないよ?」
「うん」
「おとーさんとおかーさんのこと、本当に忘れちゃうかもしれないよ?」
「うん」
「ずっとひとりだったのに……まだひとりでいなくちゃいけないの……?」
「ううん、ひとりじゃない」

穂乃夏の手を引き、胸に抱き寄せる。
私の全部で穂乃夏を包み込む。せいいっぱい、気持ちが伝わるように。

「知ってるよ。あなたの旅をずっと見ていたから。
 あなたが、たくさんの人の中で笑っていたこと」

風になって、この町と世界中を行き来して、麦と穂乃夏を見守り続けてきた。
アルミアスの繋がりを辿って穂乃夏の居場所を探すと、穂乃夏は本当に色々な場所に行っていて。
どこでも上手くいくわけじゃない。
だれもがやさしいわけじゃない。
それでも最後には、この子の周りには笑顔があった。
過酷な運命の中で、それでも穂乃夏は、たくさんの絆を結べる子だった。

「穂乃夏は、ひとりじゃないよ」

少しの沈黙のあと、穂乃夏は私の胸に顔をうずめたまま口を開く。

「……あるよ。やりたいこと」

小さく、けれど芯の通った声。どこか大人びた雰囲気を纏わせた響きで、穂乃夏は言う。

「母を探して旅をして、たくさんの人に会った。
 その中にいたんだ。風の一族のことを知ってる人たちが。
 父みたいに大切な人と離れ離れになった人や、風の一族に助けられたことを知ってる人。新しく使命に目覚めた人も。
 いろんな人がいて、みんな、ひとりで辛い気持ちを抱えてた」

「母探しに協力してくれる人も、あきらめた方がいいって言う人も、
 みんな、これだけは同じことを言うの。
 わたしと話せてよかったよ、って」

「やっぱり、この運命は、ひとりでは抱えきれないんだ」

「だからね」

穂乃夏が私から体を離す。顔を上げた穂乃夏の瞳はきらきらと決意にきらめいている。

「わたしがみんなを繋げるの。風の一族も、そうでないひとも。
 父の絵本が少しだけ風の一族の輪を広げたみたいに。
 この世界に、風の一族の居場所をつくる」

「目指すは、風の一族団」

私を探す旅に出たあの日と同じ、未来を目指す活力に満ちた顔で穂乃夏は言った。

「それは、大きな目標ね」
「……無謀?」
「いいえ。きっとできるわ。穂乃夏なら。
 私と麦を繋げてくれたみたいにね。」
「母が言うなら、まちがいないね」

私の言葉に穂乃夏が笑うのを見届けた次の瞬間、また体から力が抜けていく。
ソファに座っていて良かった。今度は倒れる心配はない。
けれど、もう立ち上がることはできないだろうという感覚がある。
終わりを悟ったことが伝わったのだろう、穂乃夏の笑顔が一瞬崩れる。
けれどすぐに持ち直して、微笑んだまま私に抱き着いてくる。
制御の利かない私の体は少し穂乃夏の方に倒れこんで、顔と顔をくっつけるようにして寄り添う形になる。

「たくさん、話したいことあるよ。今までのことも、きっと、これから先のことも」
「うん。私もいっぱい聞きたいよ、穂乃夏の話」
「だから。おとーさんと二人で待っててね」
「絶対。いつまでも。待ってる」

触れている頬が熱い。
穂乃夏が何を堪えながら微笑んでいるのか、痛いほどに伝わってくる。

「……穂乃夏」

ごめんねと言いそうになるのを飲み込んで。最期の言葉を探す。
けれど何かを言う前に、穂乃夏が再び口を開く。

「ね、母。わたしも父みたいな人に出会えるかな?」
「……できるだけ、相手がなるべく小さいうちに出会っておくといいわ」
「父と母みたいに、おねしょた?」
「違くて」

大人の身で穂乃夏に惚れ込む人よりは、子供のころに好きになってからのパターンの方がマシそうだし……。

「いい、穂乃夏。気がありそうなそぶりを見せられてもすぐになびいちゃだめよ。勘違いってこともあるし……相手が奥手な人だったら、かなり振り回されちゃうから……」
「母の実体験?」
「い、一般論」

最後の会話がこんなのでいいんだろうかと思いながら、意識はゆっくりと溶けていく。

「母……」

穂乃夏が私を呼ぶ声が遠くなっていく。

「穂乃夏」

最後に、これだけは言っておかないと。

「いってらっしゃい、穂乃夏」

私の目に映る世界が白くなっていく、その最後の一瞬に見えた穂乃夏は、力強く頷いていた。


~*~*~*~*~*~


一面、白い世界。

見渡す限り真っ白に降り積もった雪原に、一組だけ足跡が残っている。
しっかりと地面を踏みしめて付けられた足跡。

私は、その足跡を追って歩いていた。

――スピカ。

不意に聞きなれた声が私の耳に届く。
声の方向、足跡の向かう先を見て、私の内に熱が宿る。
たまらず駆け出して、彼の元へ。

彼の隣に辿り着き、並び立って寄り添う。
それはきっと、当たり前の光景。

ここは私たちの約束と願いの果て。
私は帰り着いたのだから。
私たちは再び一緒になれたのだから。

だから、これからは、ずっと一緒だ。


――穂乃夏はもう少し後から来るよ。

――穂乃夏は強い子だからな。きっと全部やり遂げて帰ってくるんだろうな。

――次は彼氏連れて帰ってくるかもよ。

――俺より旨いピザを焼けるやつじゃないと認めんぞ。

――ピザ爺さん。そんなこと言ってると穂乃夏に嫌われるよ。

――それはイヤだなあ。


二人、尽きることなく言葉を交わす。
空白を埋めるように。
声をかければ返事がある。遠い時間を待つことなく。その喜びで胸を満たしながら。

ふと、ふり返る。
私たちの足跡が、二人並んで続いている。
どこまでも、続いていく。

いつか三人の足跡が並ぶ日を待ちながら。
いつまでも、続いていく。

 

端的に言うとこのイラストのシーンの話です。

 

配信では1:47:00辺りからのシーン。

那智の離反や胡乃美の正体を知って混乱する皇成に対して胡乃美が「今の皇成はステージで何を届けたい?」と問いかけて、皇成の運命を胡乃美が肩代わりするシーンです。

 

このシーンは本来立って会話するシーンでしたが、この公演では「どうしたらいいか分からない」と慟哭する勢いで皇成が膝をつき、それに合わせて胡乃美も座り込んで話をします。

そして皇成から問いかけの答えを聞いた胡乃美は立ち上がり、皇成を助け起こしてステージへと送り出しました。

 

この「胡乃美が皇成を助け起こす」というアクションが刺さったポイント。

 

この後の終盤、皆の後押しを受けて胡乃美がBelieveを歌うシーンでは、トラウマを吐露してうずくまる胡乃美を皇成が助け起こし、ステージへ送り出します。

 

そう、前者のシーンで膝をつく芝居が増えたことで2つのシーンの動作が重なり合うわけです。

 

ARIARIUMの物語の中で、胡乃美と皇成の関係性は循環しています。

胡乃美のステージから想いを受け取った皇成。

皇成のステージから想いを受け取った胡乃美。

皇成を運命から解き放とうとする胡乃美。

胡乃美を運命から解き放とうとする皇成。

 

助け起こすという動作が互いに繰り返されたことで、この関係性がより強調されるものになったのです。

 

舞台は生き物。日々変化していく舞台の中で、この公演のこのシーンは特にミラクルと言っていい変化でした。