日本の古代探索

日本の古代探索

古事記・日本書紀・万葉集の文や詩を通して我々の先祖の生きざまを探ってゆきたいと思います。

1946・木高者 曾木不殖 霍公鳥 来鳴令響而 戀令益

 

   こだかきは かつてきうゑず ほととぎす きなきとよめて こひまさらしむ

 

 訳:高い木は 決して植えませんよ(低い木を植えますよ) 霍公鳥が(低く近くで)来て鳴 

   いて響き渡らせれば (お互い)恋慕う気持ちを高めることが出来るから

 

**「こだかき:小高き:高い(連体形)」は後の「き・木」を修飾。「曾」は「かつて」で 

  「決して」という意味の全否定です。

 

 *高い木を植えたら、霍公鳥も上の方で鳴いていて、よく聞こえないし、

  近くで霍公鳥を(二人で)楽しみたいのです。

 

1951・慨哉 四去霍公鳥 今社者 音之干蟹 来喧響目

 

   うれたきや しぬほととぎす いまこそは なくねしひがに きなきとよまめ

 

 訳:いまいましいなあ (私は)死んでしまうよ 霍公鳥よ 今こそは 

   鳴く声が無粋に 来鳴いてうるさく響いて欲しいよ

 

**「うれたきや しぬ(終止形)」は「いまいましいことだなあ (私は)死んでしまう」。

  「ひが」は「やぼ・無粋」。「とよまめ」は「とよま:(とよむ:響き渡る)の未然形+

  め:(む:推量の助動詞の已然形、前の(こそ)を受けて)」で「響いて欲しい」。

 *従来は「音之干蟹」を「声のかるがに」と読んで「声がかすれるように」としています。

  また「四去」を「しこ:醜:醜悪な物を罵る詞」としています。

 

 *悔しいなあ 俺ももう長くはないし 霍公鳥よ、大声で鳴いて、

  滅入ったこの俺の気持ちを紛らせてくれないか。

 

1952・今夜乃 於保束無荷 霍公鳥 喧奈流聲之 音乃遙左

 

   このよるの おぼつかなしに ほととぎす なくなるこえし おとのはるけさ

 

 訳:今夜は 心細いのに 霍公鳥の 鳴いている声も (その)音が遠くかすかです

 

**「おぼつかなし(き)に」は「心細いのに」。「なる」は補助動詞で「その状態になる」。

  「はるけさ」は「はるけ:(はるけし:形ク活:遠い・はるか・久しい、の語幹)+さ:接

  尾語で名詞を作る」。

  「おぼつかなしに」を「(月が)おぼろげな(夜)で」と解釈すれば最後の句の「はるけ

  さ」は「久しぶりのこと・懐かしいこと」と考えられます。

 

 *今夜は唯でさえ心細いのに 霍公鳥まで遠くの方で鳴いていて 

  益々心細くなるじゃない!せめて近くに来て大声で慰めて!

 

1954・霍公鳥 来居裳鳴香 吾屋前乃 花橘乃 地二落六見牟

 

   ほととぎす きゐるもなくか わがやとの はなたちばなの ちにちらむみむ

 

 訳:霍公鳥が やって来て鳴いているなあ 私に家の庭先の 花橘が 

   地面に散りそうなのを見て(嘆いて)いるのでしょう

 

**「も」:「強意の間投助」。「か」:詠嘆で「~だなあ」。

  「ちらむみむ」は「ちら:(散る)の未然形+む:推量の助動詞+み:(見る:判断する・

  理解する)の未然形+む:推量の助動詞」。

 

 *霍公鳥よ お前も花橘が散ってしまうのは 寂しいのだね

 

 

問答

 

1928・狭野方波 實雖不成 花耳 開而所見社 戀之名草爾

 

   さぬかたは みのならずとも はなのみの さきてみえこそ こひしなぐさに

 

 訳:共寝をされる方は 実とが成らなくても(一緒になれなくても) 花だけでも 

   (綺麗に)咲いて見えればそれで 思い焦がれている身(私)の 

   慰めにはなりますよ

 

**「さぬかた」は「さぬ:共寝をする(終止形)+(める:婉曲の助動詞の連体形)+かた: 

  敬称」で(める)を省略した用法か、で「共寝をするような方は」。

  尚、「野」は古くは「ぬ」と発音されていたようです。「野・怒・努」は「の」の発音だと

  されている学者の方は反発されるでしょうが、これらは「ぬ」音で良いと思います。江戸時

  代の学者の誤りだとは私は思いません。

  万葉集では多く「怒・努」が「奴」と同じ「ぬ」音として詠われています。

  「雖」は限定の辭。「なぐさ」は「慰め」。

 

 *「みのならずとも」は「成果は得られずとも・一緒になれなくても」。

  「はなのみの」は「お顔だけでも・お姿だけでも」。

  「さきてみえこそ」は「美しく見えていれば」。

 

 *共寝が出来れば、綺麗な方なら、私はそれだけで満足です。

 

1929・狭野方波 實爾成西乎 今更 春雨零而 花將咲八方

 

   さぬかたは みになりにしを いまさらに はるさめふりて はなさかむやも

 

 訳:共寝をされる方は 実が(人妻に)なってしまったのに いまさら 

   春雨が降ったからとて 花が咲くでしょうか(又、恋が出来るでしょうか)

 

**1928の詩の「さぬかた」は1929で応えた(さぬかた)女性、即ち自分。

  この二首は、お互いが女性を第三人称の表現で問答をしています。

  「春雨が降っても」は「愛の言葉を掛けられても」という意味でしょう。

 

 *あらうれしい!でも私は人妻ですから愛の言葉を掛けられても恋は出来ませんわ!

 

 *大人の既婚者同士が問答で楽しんでいる風情が見えます。

 

1930・梓弓 引津邊有 莫告藻之 花咲及二 不曾君毳

 

   あづさゆみ ひきつのへなる なのりそし はなさきしくに あはざるきみも

 

 訳:梓弓を引いたような形の 浦の渡し場の傍にいる ナノリソの(貴女は) 

   花は美しく咲き誇っているのに 抱き合うことはしない貴女なのですね

 

**「ナノリソ」は「娼婦・遊び女(一緒に泊まることはしない、一緒に泊まるのはフカミ

  ル)」。「及:しく」は「しく:頻く:次々と重なる、或いは、敷く:一面に広がる」。

 

 *こんなに美しい人なのに、私の相手はしてくれないの?

 

1931・川上之 伊都藻之花之 何時何時 来座吾背子 時自異目八方

 

   かはかみし いつもしはなし いついつも きますわがせこ ときじけめやも

 

 訳:あの人は(私の)主人なのです 何時も自由きままなのです 

   いつもいつもあの人はやって来ます 時もかまわないのです本当に

 

**この詩は巻4・491の替え歌のようです。491では「主人」ではなく、

  「かは(あれは)カミナ(蜘蛛に似た生き物)」。

  この詩は「かは(あれは)かみ(主人)し(強意の副助詞:なのです)」。

  「はなし」は「放し:(放ち:自由にさせる)の上代東国方言」の連用形の名詞。

  「ときじけ」は「時じ:時期ではない・時節にかまわず」の未然形・已然形。

  「じ」は形容詞を作る接尾語で、打ち消しの意を表す。

  「めやも」は「どうして~しようか・ほんとうに」。

 

 *お相手をしたいのはやまやまなのですが、あそこで主人が見ているのです。ごめんなさい!

 *こういう断り方は、相手を傷つけない良い断り方ですね。

  きっと彼は彼女の好みに合わない人だったのでしょう。

 

1944・藤浪之 散巻惜 霍公鳥 今城岳叨 鳴而越奈利

 

   ふじなみし ちらまくをしみ ほととぎす いまきのたけと なきてこゆなり

 

 訳:藤の花が 散ってしまうのを惜しんで 霍公鳥が 今が盛りだよと 

   鳴いて飛んでいるようです

 

**「いまきのたけ」は「いまき:新しく来た・今来た+の:格助詞+たけ:(長(た)く:盛

  りになる)の連用形」で「今が盛り」。

  「なり」は助動詞で終止形に接続「~のようだ・~らしい」。

 

 *今木・今城は吉野郡や高市郡に比定されていますがはっきりしません。又「叨」の音は  

  「タ・と」ですから「を」とはなかなか読めません。

  そこで状況描写の句として読みました。

 

 *ホトトギスの鳴き声が、「今見頃だよ!」と一生懸命叫んでいるように聞こえます。

1912・靈寸春 吾山之於爾 立霞 雖立雖座 君之隨意

 

   たまきはる わがやましおに たつかすみ たつもいますも きみしまにまに

 

 訳:威張っている 私でさえ仰ぎ見る鬼は 立つ霞です 立ち去ろうが 

   居座ろうが 君(鬼・霞)のやり放題ですもの

 

**「たまきはる」は「手巻張る:立派な・偉大な」。「やま」は「仰ぎ見る対象」。

  「おに:鬼:想像上の怪物」。

  「於」を訓で「を」と読むことも出来そうですが、すると「尾根に立つ霞」となります。

 

  後の句で「きみ」と擬人化しているところから、「尾根」よりも「鬼=霞」とした方が詩の 

  面白さがあると思いました。

 

 *私も相当偉いのですが、その私が仰ぎ見てしまうほどの鬼は霞ですよ。

  私の意向など全く無視していますからね。

  朝起きて、「よし!今日も頑張ろう!」と思って扉を開けて外を見ると

  一面、霞んでいて、いつもはっきり見える山並みも見えません。何か気が滅入るなあ!

  霞の奴め!

 

寄雨

 

1915・吾背子爾 戀而為便莫 春雨之 零別不知 出而来可聞

 

   わがせこに こひてすべなみ はるさめし ふりわけしらず いでてくるかも

 

 訳:私の彼が 恋しくてしようが無いのです 春雨は 

   (いらっしゃる)途中でもかまはず やって来るかもしれませんね

 

**「ふりわけ」は「中間・途中」。「しらず」は「かまはず」。

  「いでてくる」のは「春雨」。

 

 *一雨来そうだけれど どうしても逢いたいのです。(彼が来る)途中で降られて

  気持ちでも変えられたら、気ままな春雨を一生恨んでやる!

 

1917・春雨爾 衣甚 將通哉 七日四零者 七夜不来哉

 

   はるさめに ころもかさねて かよはむや なのかしふれば ななよこぬかな

 

 訳:春雨ですから 衣を重ねて いらっしゃればどうですか 七日降ったら 

   七晩いらっしゃらないのですか

 

**「甚」は「厚い・激しい」から、「厚い衣・衣を厚くして・重ねて」としました。

  「かな」は終助詞で「かも(詠嘆・疑問・反語)」に同じ

 

 *「將通哉」を「とほらめや」と読むと「着物を突き抜けて肌まで通りましょうか、通ること 

  は ありません」となり、前の句の「甚:激しい」と言う言葉遣いと矛盾します。

  即ち、「激しくは通らないけれど濡れます」と言っていることになってしまいますし、

  それならば、「將甚通哉」と書くべき所でしょう。

 

 *「春雨が降りそうだ」などの言い訳は聞きたくありません。

  本当に私のこと愛しているの!

 

1921・不明 公乎相見而 菅根乃 長春日乎 弧悲渡鴨 (弧悲)は(元:弧戀)

 

   あけぬまに きみをあひみて すげのねの ながきはるひを こひわたるかも

 

 訳:夜が明けぬうちに 貴方と共寝をして 菅の根のように 長い春の一日を 

   戀慕い続けていることよ

 

**「不明」は「明けずに:明けないときに」。

 

 *もう今日は 一日中ずーっと幸せ!

 

贈蘰

 

1924・大夫之 伏居嘆而 造有 四垂柳之 為吾妹

 

   ますらをし ふしゐなげきて つくりたる しだりやなぎし かづらせわぎも

 

 訳:無骨者が (お前が病に)伏せっているのを(快癒を)嘆願して 作っておいた 

   しだれ柳の 髪飾りだよ 着けて下さいね愛する妻よ

 

**「ふしゐ」は「横になって動かない状態」。「蘰:かづら(国字)」は「髪飾り」。

  「なげきて」は「なげき:(嘆く:嘆願する・愁訴する)の連用形+て:接続助詞」。

 

 *元気になったのだから、快癒を祈って俺が一生懸命作った髪飾りを着けてみてよ。

  結構行けるだろう!