小治田廣瀬王の霍公鳥の歌一首
1468・霍公鳥 音聞小野乃 秋風 芽開禮也 聲之乏寸
ほととぎす こえきくをのの あきのかぜ はぎひらかれや こえのとぼしき
訳:ホトトギスが 鳴いている小野の 秋の風よ 萩は(まだ)咲きませんか
鳴く声が小さいですね
**「芽」は「芽子:萩」。
「ひらかれや」は「ひらか:開く・咲く、の未然形+れ(自発の助動詞、る、の連用形+
や:疑問・反語の助詞)」で「咲きましたか」。
*秋の風にのって霍公鳥の声がかすかに聞こえます。未だ萩は十分咲いていないのかなあ。
霍公鳥の声が小さいですよ。
山邊宿禰赤人の歌一首
1471・戀之家婆 形見爾將為跡 吾屋戸爾 殖之藤波 今開爾家里
こひしけば かたみにせむと わがやとに うゑしかづらは いまさきにけり
訳:(亡くなった妻を)忘れがたいので 形見にでもと 我が家に植えた藤は
今頃咲いていることだろうなあ
**「藤(ふぢ)」は蔓状の植物の総称。そこで「かづら」と読む。
「さきにけり」は「開(さ)き:(咲く)の連用形+に(完了の助動詞(ぬ)の連用形)+
けり(既に完了した状態を推量する詠嘆の助動詞)」。
*赤人が家を離れて旅に出ているとき、我が家を偲んで詠ったものでしょう
尚、霍公鳥が渡ってくる時期と藤の花が咲く時期はどちらも同じ頃であることから、どちら
も「夏の雑歌」のテーマとしては相応しいので、この歌が必ずしも「霍公鳥」を詠っている
とは限りません。
*尚「藤波」を「ふじなみ:藤の花が風に揺れ靡く様子」と読むと、それは、現在「藤」を見
ている風情です。後の「いまさきにけり」の「きっと今頃咲いているだろうな」の句がある
ので、自分では見ていないのですから、「藤(かづら)波(は)」と読みました。
小治田朝臣廣耳の歌一首
1476・獨居而 物念夕爾 霍公鳥 從此間鳴渡 心四有良思
ひとりゐて ものもふゆふに ほととぎす こまゆとよもす こころしあらし
訳:独りで 物思いをしている夕べに ホトトギスが 木の間で鳴き騒いでいる
(私を)思ってくれているようです
**「あらし」は「あるらし:~であるようだ」の略。
「夕(べ)→宵(よひ)→夜中→暁(あかつき)→朝(あした)」の順で表現される。
「こころ」は「情け・思いやり」。
*物思いをしている私を励ましてくれているようだな。ありがとう!
大伴家持の晩蝉の歌一首
1479・隱耳 居者鬱悒 奈具左武登 出立聞者 来鳴日晩
かくれきき をればうれはし なぐさむと いでたちきけば きなくひぐらし
訳:隠れて聞いて いたら訴えているようで 労ってやろうと
(外に)出て立って聞いていると やって来て鳴くヒグラシよ
**「鬱悒:うれはし」は「つらい、悲しいと人に訴えたい気持ちがする」。
「なぐさむ」は「労う・慰労する」。
*何か悩み事でもあるのかと思って、外に出て聞いていたら わざわざ近くに来て
一生懸命訴えているよ。可愛い奴だなあ。