日本の古代探索

日本の古代探索

古事記・日本書紀・万葉集の文や詩を通して我々の先祖の生きざまを探ってゆきたいと思います。

2224・此夜等者 沙夜深去良之 鴈鳴乃 所聞空從 月立度

 

   このよとは さよふけざらし かりがねの きこゆるそらゆ つきたちわたる

 

 訳:この夜のもの音では 夜が更けられないようだね 鴈の鳴き声が聞こえる空から 

   月が渡り始めている

 

**「よと」は「夜のもの音」。

  「ざ(ぬ)らし」は「ざるらし(ずあるらし)」の略で「~でないらしい」。

  「たちわたる」は「渡る動作を起こす」意。

 

 *鴈がうるさく鳴き渡っていて、とても夜更けとは思えません。

  明るい月までも出て来ましたよ。(月もうるさくておちおち寝てられないのかなあ)

 

2228・芽子之花 開乃乎再入緒 見代跡可聞 月夜之清 戀益良國

 

   はぎしはな はなのかをりを みよとかも つくよしさやく こひますらくに

 

 訳:萩の花の 花のほのぼのとした美しさを 見て下さいと言っているのかなあ 

   月夜が澄んで明るく 恋い慕ってしまいますことよ

 

**従来、「乎再入」を「ををり:たわみ曲がる」と読んでいます。

  1421の「乎為里」も「ををり」と読んでいます。「乎為里」は万葉考では「乎烏里」とし 

  ています。

  「乎再入」の「再」は前の字と同じと言う意味と思われますので「乎乎入」とすれば「をを

  り:繁り」と読めます。しかし、「かをり」《(乎)は訓では(か、や)》とも読めます。 

  万葉集では(乎)は(を)の音で多く使われていますが。「再」の文字を使っていますので 

  「乎乎」の読みが異なっているサインかなとも思いました。

  「かをり」は「良い匂い、目で感じる美しさ・ほのぼのとした美しさ」です。

  「開」は「咲く」で「花」と読みました。

  「こひますらくに」は「こひ:(恋ひ慕ふ)の連用形+ますらく:丁寧語(ます)の連体形

  +形式名詞(あく)+に:結果を表す格助詞」で「恋い慕ってしまいますのに」。

 

 *さて、「ををり」と読むか「かをり」と読むかですが、詩の雰囲気から見ると「かをり」と

  私 は読みたいと思うのですが如何でしょうか。

 

詠風

 

2230・戀乍裳 稲葉掻別 家居者 乏不有 秋之暮風

 

   こひつつも いなばかきわけ いへをれば ともしくあらず あきしゆふかぜ

 

 訳:(妻を)恋い慕いながらも (稲場での仕事を終えて干した稲を)かき分けて

   (帰って妻と一緒に)家に居ると 満足です 秋の夕暮れの風は(心地よくて)

 

**「いなば」は「稲寄せ場・刈った稲を干しているところ」。

  「かきわけ」は「干した稲の間をかき分けて帰って」。

  「ともしからず」は「ともしくあらず:不足してはいない・満足」。

 

 *仕事の後の秋の夕暮れの風が心地よく、家に帰って妻と一緒に居るときが、一番幸せを感じ

  るときだなあ

 

2232・秋山之 木葉文未 赤者 今旦吹風者 霜毛置應久

 

   あきやまし このはあやしみ あかければ けさふくかぜは しももおくべく

 

 訳:秋山の 木の葉が普段と違って 赤いので 今朝吹く風は 霜を置きそうですね

 

**「文」は「あや」。「あやしみ」は「あやし:普段と違う(形シク)の語幹+み:接尾語 

  (連用修飾語を作る)」。

  「あかければ」は「あかけれ:(あかし:赤色である:形ク)の已然形+ば:接続助詞」。

 

 

 *山の木の葉が色づいて来たように見えるし、もう秋も深まってきて、今朝のこの冷たい風で

  は、きっと霜が降りているだろうな。

 

2235・秋田苅 客乃廬入爾 四具禮零 我袖沾 干人無二

 

   あきたがる たびのいほりに しぐれふり わがそでぬれぬ ほすひとなくに

 

 訳:飽き飽きしていた 旅の(途中の)仮小屋に 時雨が降ってきて 

   私の衣の袖が濡れてしまいました 干してくれる人もいないのに

 

**「あきたがる」は「あきた:(飽きたし:ひどく厭になる・飽き飽きする)の語幹

 

  +がる:接尾語(四段)(~と思う・~と感じる)」で「飽き飽きしていた」。

  「ぬれぬ」は「ぬれ:(濡る:濡れる)の連用形+ぬ:完了の助動詞」で「濡れてしまっ

  た」。

 

 *彼女とずっと逢っていないし、もう旅にも飽きているのに、この小屋の雨漏りは、なんて言

  うことだ。誰も着物を干してくれないよ

2206・眞十鏡 見名淵山者 今日鴨 白露置而 黄葉將散

 

   まそかがみ みなふちやまは けふもかも しらつゆおきて もみぢはちらむ

 

 訳:白い(朝の)月が掛かっている 南淵山は 今日も白露が降りて 

   黄葉の葉が散っていることだろう

 

**「南淵山」は奈良、高市郡で橘寺の傍、瀧の名所とある(吉田東伍)。

 

 *「まそかがみ」と言う言葉が詩には良く出て来ます。「まそ」は「麻(の繊維・布)」で 

  「白い」という意味ですから、「まそ鏡」は直訳すると「白い鏡」ですが、詩の中では「白

  っぽい鏡」と解釈した方が良いようです。即ち、昼間とか早朝の空の「白くうっすらとして 

  いる月」や、「鏡」としては「白っぽくなった鏡:古びた鏡」を表現していると思われる詩

  が多いからです。当時、女性にとって鏡は貴重品ですが、そうそう新品の鏡にいつも取り替

  えていることは考えられません。当然、長い間使っていれば古びて鏡面に曇りも出て来ます

  から、その状態を「まそかがみ」と言っているのでしょう。

  又、「白っぽい月」は明け方や昼間の情景を表すのに最適なのです。

 

2211・妹之紐 解登結而 立田山 今許曾黄葉 始而有家禮

 

   いもしひも とくとむすびて たったやま いまこそもみぢ そめてありけれ

 

 訳:彼女と紐を解く(愛を確かめ合う)といつものように (又、紐を)結んで 

   出てきた立田山は 今丁度、まさに黄葉で 染まっているのだなあ

 

**「とくと(解くと)」の「と」は接続助詞で「~ときはいつも」。

 

 *「紐を結ぶ」のは、今度会うまで他の人が紐を解かない約束。

 *愛を確かめ合って、清々しい気分で見る立田山の黄葉は、また格別に美しく感じられるな

  あ!

 

2217・君之家乃 初黄葉 早者落 四具零乃雨爾 所沾良之母

(初黄葉)は(意改:之黄葉)

 

   きみしへの そむるもみぢは はやはふる しぐれのあめに ぬれひつらしも

 

 訳:貴方の家の 色づき始めた黄葉は 激しい時雨の雨で 

   濡れてびしょびしょになっているでしょうね

 

**「はやはふる」は「はや:早く+はふる:鳥が羽ばたきをする」で「バタバタと・激し

  く」。「ねれひつ」は「濡れてびしょびしょになる」

 

 *私の所に訪ねてくる貴方もびしょびしょに濡れているのかなあ。

 

2218・一年 二遍不行 秋山乎 情爾不飽 過之鶴鴨

 

   ひととせに ふたたびゆかぬ あきやまを こころにあかず すぐしつるかも

 

 訳:一年に 二度とは来ない 秋の山を 心が飽きることも無く 

   時を過ごしたことだなあ

 

**「あかず」は「あか:(あく:飽く:飽きる)の未然形」+ず:打ち消しの助動詞。

  「すぐしつる」は「すぐし:(すぐす:時を過ごす)の連用形+つる:完了の助動詞(つ)

  の連体形」。

 

 *従来は「あかず」を「満足しない状態」と訳しているようですが、ここは「飽きることな

  く:じっくりと:充分に」という意味です。

 

2221・我門爾 禁田乎見者 沙穂内之 秋芽子為酢寸 所念鴨

 

   わがかどに いみたをみれば さほうちし あきはぎすすき おもほゆるかも

 

 訳:我が家の前から 禁(齋(い)み)田を見たら (その)穂の中に

   秋萩やススキ(が在るように)思えることよ

 

**「禁」は「いみ(忌み・齋み)」。「禁田(いみた)」は神社(皇室)のための田、或いは

  官田として農民が請け負わされた田のことか。実際、「いみた」と言ったかは不明。

  「さほうち」は「さ:接頭語+ほ:穂+うち:内」で、「稲穂の中」。

 

 *手入れが行き届いていないなあ。

2184・秋山乎 謹人懸勿 忘西 其黄葉乃 所思君

 

   あきやまを ゆめひとかくな わすれにし そのもみぢばの おもほゆるきみ

 

 訳:秋の山を 決して一緒にしてはいけません 忘れてしまう 

   その(秋の山の)黄葉の葉と (今も)想われるあの方を

 

**「ひとかく」は「一対としてならべる・一緒にする(下二段終止形)」。

 

 *秋の山と彼を一緒にはしないで下さい。秋の山の黄葉は忘れても、あの人のことは

  ズーと想っているのですから

 

2187・妹之袖 巻来乃山之 朝露爾 仁寶布黄葉之 散巻惜裳

 

   いもしそで まききのやまし あさつゆに にほふもみぢし ちらまくをしも

 

 訳:彼女の袖を 巻きつけてきた山の 朝露に 美しい黄葉が

   散ってしまうのは残念ですね

 

**「まきき」は「寒さのためか(袖を身体に)巻き付けて来た」という描写でしょう。

  勿論巻き付けたのは彼氏(この詠手)の身体です。

 

 *寒くて、彼女の袖で温めてもらいながら来たけれど、あの朝露で輝いていた黄葉は、

  もう散ってしまうのかなあ。素敵な思い出だったのに!

 

2188・黄葉之 丹穂日者繁 然鞆 妻梨木乎 手折可佐寒

 

   もみぢはし にほひはしげし しかれども つまなしのきを たをりかざさむ

 

 訳:黄葉は愛しく 鮮やかな色合いは沢山あります でも(私は)妻無しの梨の木を 

   手折って翳しましょう(顔を隠しましょう)

 

**「もみぢはし」は「もみぢ愛(は)し」、この気持ちとしては(私には黄葉を一緒に楽しむ  

  妻が居ないので)。

 

 *独り者なので、妻と黄葉を楽しむ男達が羨ましいな!

  でも、そっと顔を隠して、独りで黄葉を楽しんでもいいでしょ?

 

2189・露霜乃 寒夕之 秋風丹 黄葉爾来毛 妻梨之木者(露霜乃)は(元:露霜聞)

 

   つゆしもの さむきゆふへし あきかぜに もみぢにくるも つまなししきは

 

 訳:露霜が降りる 寒い夕暮れの 秋風の中で 黄葉が見たくなるのだなあ 

   妻無しの梨の木は(妻無しの私は)

 

**「もみぢにくる」は「黄葉に(気持ちが)行く」。

 

 *寒いときに暖めてくれる彼女が居ない身では、黄葉ぐらいしか

  想い慕う相手がないのです(梨の木を妻のいない自分に重ねています)

 

2202・黄葉為 時爾成良之 月人 楓枝乃 色付見者

 

   もみぢなす ときになるらし 月の日と かえでのえだの いろづくみれば

 

 訳:葉が紅葉する 時期になるようです その頃の日と思われる 

   楓の枝(の葉)が 色づいてきたのを見ると

 

**従来「月人」を「月人男」のこと、として「楓」を「桂」と読み替えています。

  確かに「月人男と桂」はセットになりますが、「月人と楓」を無理に「月」にちなむセット 

  にするのには抵抗があります。作者が「月人男」を知っていたら、ここは「楓」では無くて 

  「桂」と書いたはずです。どちらも紅葉は綺麗なのですから。

  「月の日と」と読んで「紅葉になる月の紅葉になり始める日頃と(思われる)」、と解釈い

  たしました。尚「楓」は通称「もみぢ」とも言われています。

 

 *我家の楓の葉が色づいてきたのを見ると、もう紅葉の季節なのですね。

  そろそろ綺麗な山の黄葉でも見に行こうかな