物事を比べるというのは、普段やっていることなんだけれども、厳密にやろうとすると難しい。
初対面の人にあって、「大柄な人だなあ。」、なんて印象を抱いたときには、すでに誰かと比べている。でも、それは主観的な判断でしかない。
理科の世界では客観性が求められるため、古今東西、いろいろな研究者が自分の考え方の正しさを証明するために、苦労に苦労を重ねてきた。
とりわけ生物学で比較なんてことをすると、さらに面倒なことになる。条件を一定にすることが難しいためだ。世の中に、同じ人間が一人もいないように、全ての生き物は少しずつ違っている。個体差があるのだ。
これを、対照が作りづらいと表現する。対照が厳密に作れないと、再現性に精度が求められるので、研究者は統計学的に実験のデーターを処理して、有意、無意を論じなければならない。
どれだけ手間暇かけても、統計学に則ってデータを処理しても、全ての批判をかわすことは不可能に近い。
だから、「生物学は科学じゃない。」、なんて、ひどい言われ方をされることもある。
だが、「どうみても正しいだろう。他にどうやって説明するんだ。」、としか言いようのない事象も見られることは確かだ。進化がその例である。ただし、実際に確かめることなどできないので、この場合は、「論」、とか、「説」、と呼ばれる。
ちなみに、客観性と再現性について、誰しもが認める場合は、「法則」の名を冠する。高校生物の教科書の中で、名誉ある「法則」と称されるのは「メンデルの法則」と「全か無かの法則」くらいしかない。物理や化学とはえらい違いだ。
高校の理科では「対照実験」について学ぶのだけれど、授業で以上のようなことを説明し出すと、大方の生徒はついてこれないので、我が身を教育に捧げる気持ちで、次のような身の上話をすることにしている。
あれはまだ30歳の時。私は写真に写った自分の後ろ頭のてっぺんが白いことを発見した。
「おや?なんだか薄いぞ。おかしいな。日の加減かな?」
禿げる家系ではない。おかしい。信じたくない自分がいる。
おそるおそる頭頂部に触れてみると、毛の感触はある。なくなってはいない。
今度は鏡を2枚使って視認すると、まずいことになっているのが分かった。毛が細くなっているのか、部屋の照明ですら頭皮が反射している。昼間の日差しに耐えられるレベルにない。
「おれはこれから直射日光を避けて、日陰者として暮らすのか?」
戦慄の現実。何とかしないと。
当時、大○製薬から「リアッ○」という新製品が発売されていた。従来の育毛剤と違い、発毛促進の効果が期待できるという。より強力に違いない。やってみるべし。
○アップは一本3000円もする高額商品だ。ちくしょう、足元を見やがって。
痛い出費なのだが、背に腹は代えられない。それに本当に生えれば安いものだ。
と、決意して育毛生活を続けること3ヶ月。はっきり言って、目立った効果がない。
くじけそうになった私は職員休養室で同僚に、全く毛が増えた気がしないことについて相談した。
すると、意外な返答が帰ってきた。
「効いてるかもしれないじゃん。」
使っていなかったら、もっと進行していたかもしれねえじゃねえか、と言う意味にとれた。
私は対照を作っていなかったので、何も言い返す言葉がなく、絶句するしかなかった。
そう、ここで「リ○ップ」に効果がないことを主張するためには、そう、例えば、「頭皮全体を左右半分に分け、片方はリアップをつけ、もう片方はつけないで結果を比較するといった具合に、条件が一つだけ違う対照区を作っておく必要があったのだ。
よく、理科のテストで、どれとどれが対照実験の関係になっているかを見極める問題が出るのだが、条件が一つだけ違うものがそうだと考えれば良い。
ちなみに、堅いことを言い始めると、人体は完全な左右対称ではないので、前述の方法だけでは全ての批判はかわすことができない。何百人で同じ実験をして傾向を見るとかしないと有効なデータは得られないだろう。また、左右逆とか、いろいろな対照区を作るなどして客観性を高めなければならない。
薬品といったたぐいのものは、効果があると証明することも、否定することも実際には難しいのですね。
こうして、いつまでも育毛剤や発毛促進剤の効果のほどは、曖昧なままなのである。
同じことは、健康食品ブームに乗じて売られている商品にも言えるのである。(そして人は騙される。)
生物学の実験で行われている「対照実験」の意味を理解して、余計な出費は避けたいものですね。