吉村 昭ドドーン 第二弾
時代は明治。ここでも頑張る日本のお医者さんはいた。
吉村 昭は東京慈恵会医科大学の創始者である高木 兼寛の功績を
『白い航跡』に描く。わたしも知らないことばかりだった歴史ではあるが、
この本の中核となるのは当時、結核と並ぶ国民病であった『脚気(かっけ)』
に関する研究とライバル・森林太郎(鴎外)らとの対決だ。
森鴎外になってしまうと、「舞姫」だ、「高瀬舟」だと、漱石と比肩する
明治の文豪になってしまうわけだが、どちらかというと本業はお医者の方。
森林太郎は医者も医者、超優秀なだけに陸軍省からドイツ留学を許され、
ドイツの先端医学を日本に持ち帰ってくる、ドイツ仕込みの英才だ。
当時は東京帝国大学も陸軍も優秀な医者を、世界最先端の医学水準を
誇ったドイツに留学させた。ドイツ医学は基礎医学に優れ、その細菌学は
高名な研究者をたくさん排出した。神髄は(いかにも)理論。
かたや、高木 兼寛の方はというと、出身が宮崎で、その地縁から薩摩藩に
信が篤く、その縁よりイギリス医師・ウィリアム・ウィリス ※ に見いだされ、
イギリス留学を許され、のちに海軍の軍医となる。
イギリスの医学は実証に基づく臨床医学。理論よりも結果を重視する医学
(ちょっと言い切りすぎではありますが)。
※ 生麦事件をはじめ、鳥羽・伏見の戦い、上野戦争(彰義隊討伐)、戊辰戦争など幕末の
歴史的重要事件において医者として数多くの人命を救う活躍をみせ、明治新政府への
貢献が顕著にみとめられる。東京帝国大学医学部の創始者。
当時の日本にはこれだけの医学を修めた日本人が皆無であったから、幕末から明治初年
当時, このおかかえ医師に頼らざるを得なかった、という背景があった。
一時は明治天皇に拝謁する栄に浴すウィリスであったが、西郷隆盛らに重用されたことが
後に仇となり、西南戦争の勃発と日本医学がどちらかというとドイツ医学の習得に傾斜し
はじめた為に、失意の中で日本を離れる。
〝要は患者が治りゃいいじゃないかのイギリス式″の海軍と〝人の命よりも
理屈・理論が一番大切なドイツ式″の陸軍+帝大。
バチバチ、医学界でぶつかるが、天から降ってきた、というより富国強兵の
時世柄、兵隊さんを悩ませてきた謎の病気・脚気の解決が両者のお題となる。
粗食の方が脚気にならないことに着目した高木は南洋への遠洋航海訓練で
脚気によるたくさんの病人・死者を出した軍艦・龍驤のたどったコースを同・筑波
で再トライ。今の基準でいうと完全な人体実験ではあるが、この航海で一人の
死者も出さなかったことで高木は脚気の主原因は『白米の摂取過多によるもの』
であり、『麦(パン)を同様にとることで発病を防げる』と予防法を見出した。
なおこの「ビタミン」の発見以前に、ビタミン不足からくる疾病に対しての原因の究明と
その予防法の確立は欧米の医学界では非常に高い評価を得、のちに高木 兼寛を
称えるべく、南極の岬に日本人で唯一「高木岬」と名づけられた岬がある。
一方、「細菌原因」説に固執し、その意見に耳を貸さなかった陸軍は、のちに
日清戦争での戦死者977人+戦傷死者293名(合計1270名)であったのに対し、
脚気による死亡者は3,944人(発病者34,738名)であり、つづく戦役である日露
戦争での陸軍全体の戦死者が47,000人に対し、脚気による死者は27,800人
(脚気発病者211,600人)と大きな代償を払う。
「古今東西ノ戦役中殆ト類例ヲ見サル」 惨憺たる結果を記録とある。
明治43年12月に東京帝国大学教授兼盛岡高等農林学校教授の鈴木梅太郎が
新栄養素・オリザニン(ビタミンB1)の発見するも、帝大医学部はここでも
「医学者ではない農芸化学者の発表」だからと無視。
『白い航跡』は日本人の献身と愚かさを一挙に目の当たりにする本です。
ご一読をおすすめします。
豆知識①
現在アリナミンVとして口にしている武田薬品のドリンク剤は、元はというと脚気
予防薬としてビタビンB1誘導体が入っているアリナミンからスタートしている。
豆知識②
『海軍カレー』の由来は脚気に悩んだ帝国海軍がイギリスのカレー食(カレーライス)
をパン食でアレンジしたのが始まり。栄養のバランスがよい。後に牛乳と一緒に供す。