「大東亜戦争肯定論」はご存知ですか
まだまだ「大東亜」と言う言葉を使うのがはばかられた昭和38年 発表。
大東亜戦争はアジアを欧米の植民地支配から解放するための戦争で、日本は残念ながら敗れはしたが、結果的にアジア諸国は独立を果たした、故に大東亜戦争の目的は達成されたのであり、日本は過去を恥じることはない、といった大東亜戦争を肯定するのかと大論争を巻き起こした著作です
題名はともかくとして、内容が幅広く、明治維新の時代から振り返り、西欧列強による亜細亜の植民地支配に日本がどう考え、どう動いたかということが伝えたかったのではないでしょうか
おっと今回はそんな話ではありません。
大湯鉄道の社長で大分銀行の頭取でもあった小野駿一さんとのつながりです
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林先生は、本名 後藤寿夫 1903年生
大分県出身です
実家はもともと「カンタン(西大分)」で裕福な雑貨商を営んでいたそうですが、
小学校3、4年生の頃、父親が酒におぼれて破産
追われるようにカンタンを離れ、南大平寺の農家の土蔵に引っ越し
生活は貧窮し、このため母親が(有)大分製糸所(別名:岩田製糸、明治21年大分郡荘隈村、現在の大分市大道町5丁目)の女工として家計を支えます
このおかあさんが大変立派な方で、その後の林先生の作品に強い影響を与えます
1916年(大正5年)、旧制大分中学(現県立大分上野丘高校)入学
その後…
1918年(大正7年)、大分中学3年生のころ、当時大分銀行頭取で大湯鉄道社長であった
小野駿一家の住み込み家庭教師となります
小野家の援助を受け、1919年(大正8年)、第五高等学校(現国立熊本大学)に入学
五高在学中から文学者になりたかったようで東京帝国大学文科を希望しますが
小野駿一さんの意向は、法科か経済科
結局、東京帝国大学法科に進みます
1923年(大正12年)、大正の大恐慌で学費を援助していた小野家も大変な影響を受けます
東京帝国大学を中退した理由もこのあたりではないかと思います
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その林先生の著書の中に、大分を舞台として
ふるさと南大分の風景や、小野家のあった古国府の様子が描かれている作品を紹介します
・繭
・太陽と薔薇 河出書房 1938
・美しき母への讃歌 主婦之友社 1953
大正時代の大分の町の様子が美しく清らかに書かれています
繭については、詳しくは知りませんが、とにかく大分の描写がすばらしく
内容も母への愛と感謝にあふれているそうです
林先生自身、五高時代、いつも机の中に繭をひとつ入れていて、それを見ては母を思い出し
くじける心をムチ打ったとか
太陽と薔薇については、映画化を希望する監督もいたようですが映画化はしていないようです
美しき母への賛歌は、1955年 原節子主演「美しき母」東宝製作で映画化されています
舞台はそのまま大分で、自身の境遇を作品にこめているようです
小野駿一さんについてはこちら
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10歳年上に、同じ旧制大分中学→第五高→東京帝国大学法科に進んだ
一万田尚登元日銀総裁がいる
おおいた文学紀行 林房雄さんに触れた記事を紹介します
「繭」「青年」に見る林房雄の原像