闔閭(こうりょ)が国王で、伍子胥(ごししょ)が宰相だった時代(紀元前515年~紀元前496年)に、軍師として活躍したのが孫武(そんぶ)です。
(画像は借り物です)
孫武は現在の山東省を中心とした地域にあった斉という国の出身ですが、一族に内紛があったとやらで、呉に移って来たそうです。
呉では定職に就かず、山間部に引きこもって兵法書『孫子』を執筆します。
それまでは戦争の勝敗は時の運と認識されており、戦の前には占いをするのが常だったそうです。
『孫子兵法』は戦争に科学を持ち込んだ最初の書物であり、現在でも通用する兵法書だと言われています。
武田信玄のキャッチフレーズとして有名な「風林火山」という言葉も、『孫子兵法』を引用したものです。
『孫子』を執筆していた頃、孫武はやはり山間部で引きこもり生活を送っていた頃の伍子胥(ごししょ)と知り合いになっています。
『孫子』を読んで感銘を受けた伍子胥は、闔閭に宰相に引き立てられると、孫武を軍師として雇用することを闔閭に進言します。
闔閭は「伍子胥がそんなに推薦するなら、孫武という奴に会ってみよう」ということで、彼を宮廷に招き「お主の兵法はどんなものか」と尋ねます。
孫武は「実演して見せましょう」と言って宮中の女官たちを兵隊に見立て、「回れ右」とか「右向け右」のような命令を出しました。
しかし、女官たちはそんなことをさせるバカバカしさに笑ってしまい、指示通りには動きませんでした。
すると、孫武は隊長役の女官を剣で切ってしまいました。
そして、別の女官を新たに隊長役に任命して、再度「回れ右」とか「右向け右」のような命令を出すと、今度は殺されることを恐れる女官たちはきちんと指示に従いました。
闔閭は、お気に入りの女官を殺されたことで気を悪くしたのですが、孫武の実行力に感嘆し、彼を軍師に雇うことに決めました。
但し、この逸話は後世の作り話だと言われています。
『孫子兵法』は無益に戦争を行うことを諌めており、簡単に人名を奪ってしまうこのエピソードは、孫武のキャラクターとは全く合わないのだそうです。
孫武が本当に『孫子兵法』の作者なのかという点についても異論があるそうです。
現在では、『孫子兵法』のベースとなる部分は孫武が書いたが、後に後世の兵法家たちが書き足したものが現在の『孫子兵法』であるというのが定説になっています。
確かに、『孫子兵法』には孫武が書いたにしてはおかしいな?という箇所があります。
その代表例が、有名な「呉越同舟」です。
この言葉については既にこちらで紹介しましたが、「敵同士が同じ船に乗り合わせた時に嵐が来たら、敵同士でも協力して難局を乗り切るべきだ」という意味です。
つまり、「呉越」というのは「敵同士」を表しています。
これは呉と越が激しい敵対関係にあったことを知っている現代人に は素直に頷ける比喩なのですが、孫武が『孫子兵法』を表したとされる時期(多分、紀元前520年頃)には、まだ両国の敵対関係は 顕著ではありませんでした。
「呉越」という言葉は当時は「敵同士」を表す比喩としてふさわしくなかったのです。
『孫子兵法』の中の少なくとも「呉越同舟」の部分については、紀元前505年~紀元前473年の呉越戦争よりも後に書かれたと思わなければ、辻褄が合わないのです。
そんな感じで謎の多い人物ではあるのですが、孫武は伍子胥と共に闔閭を支え、呉の黄金時代を築きました。
呉軍はしばしば、自軍を二手に分け、片方を孫武が率いてもう一方を伍子胥が率いて、敵軍を挟み撃ちにするなどの戦法で、敵軍を蹴散らしたのだそうです。
ちなみに、700年くらい後に活躍した三国時代の孫権や、その更に1,700年後に辛亥革命で活躍した孫文は、孫武の子孫を名乗っています。
孫という苗字は中国ではありふれているので、まゆつばっぽいですけどね。
次回はようやく、伍子胥の平王に対する復讐である呉楚戦争の話です。