春馬なら大丈夫。 | 春馬街道を疾走する馬.新参者/春馬さんへの想い

春馬街道を疾走する馬.新参者/春馬さんへの想い

春馬くんはみくびれない男。
天晴れ春馬。
偏愛ブログです、ご了承下さい。
seasonⅡは、はてなブログから。



ちょっと、

昨日の続き、、、?




春馬くんはマッケンにとっての

渡さんになったのかなぁって。


何回か一緒に出掛けていたんだよね。。

海外へ行った方が良いぞー、とか

出来るだけ普通の子と結婚するんだよ、とか

早く家族を増やせると良いねー、とか

言っていたかな、、、。






春馬くんにとっての、

渡さんは、、いたのかな、、、。



そう、、

春馬くんなら大丈夫、、

そう言ってあげたい。。







春馬くんみたいに、、

ストイックにしている子には

特に、丸ごと包み込んでくれる人

必要だよね。。

途中までは村木さんみたいな人が

いてくれたんだろうけど、、、。




固すぎるとかいわないでさ、、


自信持っていいよ、、とか

そのまんまでいいんだよ、とか


そうやって言ってくれる人が

ずっとそばにいたら

もう少し早く、、

自己解放できたんじゃないかな

なんて思う。



きっと、春馬くん、、

あの2019あたりから、、

自分に自信を持って、、

やっと気持ちを楽に持てる様に

なってきてたんじゃないかな、、

って感じる。



自分で自分を育ててきた人だよね。


もちろん、春馬くんの言う通り

たくさんの人に支えられて

きたと思うけれど。。










それと、弱点のない故の苦労、、

って話し。



確かにね、、

意外と2枚目俳優って

整っているが故に

役に幅が持ちにくい、、とか

昔から言われていたよね。。


渡辺徹さんなんかも、

太ってからの方が役に

幅が出たりとか

たしか、、言っていたし、、


三浦友和さんも、

若い時は2枚目役以外が難しい?

みたいなこと言われたり、、

歳を重ねて、今本当にステキなんだけれど。




役者さんの一般論としては、

ハンサムって

若い時はいいけど、

それだけでは難しいって話し、、

あるんだろうね、、、。




だけど、、、

わたしが2021に見つけた

2018のジェシー、、




何度か記しているけれど、、


あー、、

こんなステキな俳優さんが

日本にいたんだー💕

これからがますます楽しみな人だな。。

ってすぐ思ったんだよね。

春馬くんには、

そう予感させるものがあった。



28歳の若きハンサムな、、

春馬くんだったけれど、、

弱点の無い事のハンデなんて

微塵も感じるさせなかった。




実際、そこからの20192020

目を見張る躍進だもの。。



だから、、やっぱり

春馬なら大丈夫って。。



もうね、、

自分の努力で、、

そこまで築きあげてきたんだよね。




そう、

三浦春馬は、、

ただのイケメンじゃないんだよ。








そして、

子役から売れているって言うのも

ハンサムと同じ位のハンデだと思う。

子役からの人の、その後が

なかなか難しいのは

なんとなく

皆さん感じているのでは、、

と思いますけど、、。



その難しさも

はねのけてきたよね。。




本当に本当に

春馬くんは稀有な人。。

三浦春馬は奇跡なんだよね。


自分で自分を奇跡的な人に

育てあげていったんだよね、、

春馬くん、、、。





三浦春馬は、、

弱点が無いが故のハンデも

子役であるが故のうれいも

はねのけてきたんだよね。





春馬なら大丈夫。 

前人未到な春馬ですから、、。


 

 

 
 子役からの
春馬くんの事を書いてくださってます。
本当にその通りだな、、って。
 
一部抜粋です。

樋口 尚文(ひぐち・なおふみ)
1962年生まれ。映画評論家/映画監督。
 
しかしこんなことになる前は、私は必ずしも三浦春馬の「老成」ぶりを(普通の子役出身俳優にありがちな)後ろ向きのおとなしさと一緒くたにする気にはなれなかった。むしろその落ち着きぶりが、これから長年にわたって本当に老熟するまで、じわじわといいものを見せ続けてくれるのではないか(ひとときの旬に散る花火ではなく)という“伸びしろ”に感じさせた。多くの俳優が、その魅力の源泉を“若さ”に負うてうるなかにあって、これはひじょうに独特なものだという気がした。
 
彼はキザなジゴロの詐欺師に扮して華麗なオーバーアクトで笑わせてくれた。こんな屈託のない演技を楽し気に見せてくれる人が、そうおいそれと自らの命を絶つものだろうか。人の抱える闇というものは本当に御し難いものだが、いずれにしてもこうしたかたちでの若すぎる才能の喪失は、ひじょうにこたえる。三浦春馬の死は、疫病禍のただなかにおける深い黒点のような記憶として、人々を憂鬱にいざない続けることだろう。