「五代友厚」ときたので、彼と一緒に薩摩藩英国留学生を引率した「新納中三」について書いて

みます。

1832年に鹿児島城下で薩摩藩家老新納駿河の子として生まれました。

いわゆる、一所持(いっしょもち)と呼ばれる藩内でも重臣の家系です。

若くして軍役方総頭取として藩に出仕し軍役奉行、大目付と順調に昇進していきました。

この後、薩摩藩留学生の引率役件親善大使格として渡英。

帰国後は、勝手方家老に昇進し、1864年に新設された西洋式軍学や技術を専門に学ぶ「開成所」

の責任者に任命されました。

明治4年の廃藩置県により、藩が消滅するとともに藩を退職。明治9年に七等判事として新政府に

出仕し各地の裁判所に歴任しました。

一時期退職した後、明治18年に奄美大島島司となり、特産品である黒糖の流通改革に従事。

負債に苦しむ島民のために尽力し、後まで島民から救世の恩人と敬慕されたといいいます。

明治22年没。享年58歳の生涯でした。






南州墓地関係の話が続いたので、ここいらでちょっと趣向を変えてみたいと思います。

「五代友厚」

1836年2月12日、鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)に、薩摩藩の記録奉行、五代直左衛

門秀尭の次男として生まれました。父親は、三国名勝図会の執筆者としても知られています。

藩でも結構上級武士の家柄に生まれた為、19歳で藩の郡方書役助の役職に就き、その1年後には長崎

海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びました。

その後、1865年に寺島宗則・森有礼らと藩命により、薩摩藩遣英使節団として年少の留学生達を引率

して英国に渡航、欧州諸国を歴訪し帰国しました。帰国後は薩摩藩御小納戸奉公格という藩の財政を

任される役に付き、国際感覚とともに金銭感覚を益々磨いていきました。

明治新政府では、の参与職外国事務掛に就任、外国官権判事、大阪府権判事兼任も兼任だったた

め、主に大阪が彼の仕事のフイールドとなりました。明治2年にはすべての官職を辞任し、大阪

で様々な殖産事業を立ち上げて、今の大阪発展の基礎を築きました。

刀をソロバンに持ち替えて、日本の近代化に大きく貢献した彼も、薩摩のラストサムライ達の

一人だと言ってもよいのではないでしょうか。






数年振りにアメブロ再開しましたので、以前のネタがかぶるかも知れませんが、御容赦下さい。

「小松 帯刀」

言わずと知れた「篤姫」で有名になった「尚五郎さん」です。
島津分家に次ぐ、「一所持ち」と呼ばれた藩から領地を与えられた重臣の家の一つ、肝付家の三男として生まれました。
藩主斉彬公のもとで家格に応じた要職を歴任し、途中で同じく「一所持ち」の小松家の跡目養子となりました。肝付家が喜入領5.500石、小松家が吉利領2.200石と数字だけみると降格したようですが、肝付家では兄がいたので家督を継げませんでしたが、跡取りがいなくなった小松家から請われ当主になったのですから、藩内での地位、身分も上がったといえるでしょう。
斉彬公亡き後は、29代当主島津忠義、その父久光に仕え、実直で聡明な人柄であった為に側用人を経て、家老にまで出世しました。
その後藩命を受け、主に京都での朝廷対策、倒幕を掲げる諸藩との交渉に藩主の代理として従事し、坂本龍馬、桂小五郎らと親交を結び、薩長同盟の立役者となりました。
明治維新を成し遂げるには、西郷達だけでは無理だったでしょう。
朝廷の公家、諸藩の大名家老達と交渉するには身分が高くないと会見も出来なかった時代に、彼がその役を務めたからこそ出来たのではないかと思います。
幼少時から体が弱かったそうですが、頭脳明晰、寛容で雄弁明快な人柄で維新を裏から支え、新政府樹立後は、誰もが新生日本のリーダーとして、期待していましたが、明治3年に病死。
まだ36歳の若さでした。
彼もまた、薩摩のラストサムライでした。