「新納忠元」
戦国時代の島津家家臣団においても、その勇猛さは今に伝えられています。
新納家は、島津宗家4代当主忠宗の四男時久を家祖とし、その子「実久」から分かれた分家の
家柄に1526年、新納祐久の子として志布志で誕生しました。
島津貴久と島津義久の2代にわたって仕え、主従一体となり幾多の戦いに参加し、常に先陣をきって
敵に向う姿は、島津一の猛将とだれもが認めるところでした。
義久・義弘からの信任も厚く、慶長の役で出征した時には、薩摩藩の留守居役に指名されるほどでし
た。
長年の武功により、大口の地頭に任命され所領を与えられましたが、秀吉の薩摩征伐軍に対して
は最後まで徹底抗戦を主張するほどの武闘派でした。
その後は大口で、若い武士達への教育に努め、彼が纏めた二才咄格式定目(にせばなしかくし
きじょうもく)はその後の薩摩藩全体の郷中教育の原点とされるています。
1610年、多くの武士、領民に惜しまれ大口城にて死去。
享年85歳の大往生でした。