昨年の秋に記事に書いた、二人目妊活を共に頑張っていた30代後半のママ友から、無事に出産したというメールが今日届きました。

友達の妊娠報告に感じた自分の変化 | 40代の妊活を丁寧に語りたい (ameblo.jp)

妊娠報告の時は素直に喜べたのですが、今日はまた心が揺れてしまいました。やはり日によって、時期によって、受け取り方は変わりますね。

今日は、

「二人目妊活をするか悩んでいた彼女の話を聞いた時から、はや一年。同じだけの日数を生きてきて、今日の時点で彼女は既に出産を終え、一方の私は未だに妊活中。この差って何だろう…」

と思ったんです。

もう少し詳しく言うと、

さながら仕事のような感覚で、「同じ期間で出せた成果の違い」という視点が入り、「成果を出せていない自分」という自己認識が浮かんで心揺れたのが一つ。

もう一つは、今日の時点で、私の望んでいる「未来」(無事に妊娠・出産する)が彼女には「過去」になっているという、人生の時間感覚の違いが純粋に不思議で戸惑った、というのがあります。

変な例えですが、Aさんが3年前にある本に出会って心打たれる経験をし、Bさんが最近その本に出会って感動したとしたら。

この時私は、「Aさんの方が、3年早くその本を読んでいた」という錯覚を感じてしまいます。実際には、年齢も人生も異なる二人を比較できる同じ土俵などなく、厳密には「3年という時間差がある」とは言えないはずです。(仮に言えたとしても、それはあまり意味のないものだと思います。)

ましてや、Aさんの方が凄いとか、偉いとか、そんな優劣はないはです。

それなのに、何となくそんな錯覚を感じてしまう。本ではなく妊活なら、尚のこと。

今期は妊活から意識を離して心穏やかに過ごしたかったのですが、そんな心の揺れがふいに訪れています。

化学流産続きで気持ちのアップダウンに疲れたのと、心身の調子を整えることも面倒になっている現在…

7周期目に入りましたが、「今期うまくいく期待」をハナから捨てています(笑)

食事だ、サプリだとあれこれ頑張るのが面倒…
早く成功したいと意気込むのに疲れた…
それより誰か私を肯定してくれ…
今できている部分を認めてくれ…


そんな心境なので、夫にも「今期は捨て周期にするから」と宣言。

クリニックには通っていて、レトロゾール2錠×5日間を服用することになりました。

が、効果は期待せず、ただただ飲むだけにしようと思います。

一応妊活はするけれど、成功を期待するどころか、妊活自体をほとんど意識に上げない。

そんなテキトーな周期があってもいいよね、と思えてきました。

次男の食事問題をきっかけに、「大らかでいつも笑顔の母親には全然なれない自分」にションボリしています。

ネットで調べてみると、

「良い母親になれない」
「理想の母親になれない」
「自分が母親で子どもが可哀想」


…と思っている女性がとても多いことに驚き、また慰められています。

そういった女性を応援するサポートサイトに、「理想のお母さんになんてならなくていいんです。笑顔で優しいお母さんでいるだけで十分です」とあり、「いや、それが一番理想のお母さんでしょ」一人でツッコミを入れてしまいましたが(笑)

ともあれ、一歳児のカオス(食事グチャグチャ)に耐えられず、すぐにイライラしてしまう自分は母親に向いてないなぁ…と思います

誰か良い母親がメインで次男に関わってくれて、私はサブになれないかなぁと。

ところが…

その一方で、三人目妊活をしている自分がいます。

それは、大きな矛盾ではないか…

チラチラ感じてきたことを、今回はっきりと自覚しました。

「母親に向いていない=子育てに向いてないと思っているのに、なぜ子どもが欲しいのか」


「自分が母親で次男が可哀想と思うなら、もう一人子どもを持ったら、可哀想な子どもを一人増やすことになるではないか」

……

例えば、何か欲しい物を買う場合、購入するだけでなく、所有までがその行為の範疇に入ります。購入は、買った物を大切に手入れし、持ち続けるところまでが一セットだと思います。

それと同じように、子どもが欲しい場合、妊娠・出産だけでなく、育てていくところまでが一セットなわけで、

謂わば私の矛盾は、「好きな物を購入したいけど、買った後の維持管理は向いてないからやりたくない。誰か他の人に任せたい」と言ってるようなもの…??

ギクリとし、グサリとくるポイントです。

では、どうすればこの矛盾が緩和されるのか…

単純に考えれば、

①母親に向くよう自分が変わる(カオス状態に耐えられるようになる、など)
②子どもを持つことを諦める

…このどちらかでしょう。

子育ては親育ちでもある、と言われますが、これから母親として育っていけるのか。まあまあ大らかで、そこそこ笑顔の、まずまず優しいお母さんになっていけるのか。

それは、人生の可変性、人格の可塑性次第なのでしょうか…

現在、次男の食事にまつわって、夫婦で意見が対立しています。

そもそもは、料理が人五倍苦手な上、カオスな状況が人十倍苦手なが、次男の一日3回の食事に疲れ果てているのが原因です。

・水やお茶は飲まず、パックジュースばかり飲みたがる
・パックジュースを逆さにしたり、振り回したり、ストローを出し入れしたりして遊ぶので、中身がこぼれまくる
・手づかみ食べで、テーブルや床はグチャグチャ(その割に量は食べない)
・何でも自分でやりたがるのでスプーンと料理を渡したら、料理をすくったスプーンをぶん投げ、飛び散ってグチャグチャに
・スプーンを取り上げたらギャン泣き、私が食べさせるのも嫌がる


…この状況で、食材の買い出しから調理、一口サイズ&適温に準備、食事サポート、食べた量の計量、こぼれたりグチャグチャな場所の掃除、食器洗いまでやるタスクが一日3セットある状況がストレスで、イライラし愚痴をこぼしている事に、夫もまたイラついています。

【夫の意見】
・こぼれたり、グチャグチャになったりする状況にイライラし過ぎ
・もっと大人の対応をすべき。次男と同じレベルで反応してる
・自分だったら次男の好きにやらせるし、スプーンをぶん投げるのも可愛く思うし、自主性が芽生えてる成長を喜ばしく思う
・無理してまで頑張らなくていい

【私の意見】
・私だって、準備や掃除は他の人がやってくれて、食事サポートだけならニコニコやれる
・全部やってる私の努力はスルーで、イライラしてる部分だけ非難されて、否定されるのはしんどい
・食事の準備は無理しないとできない。無理しなくていいと言うなら、何もしたくない


次男が高熱を出した看病疲れと、見事にそれを貰って夫婦共に風邪を引いている体調不良も影響して、余裕のない者同士で衝突しています(苦笑)

とにかく私は、「母親はこう在るべき」的な事を言われると、そうではない現状をダメ出し/否定されているように感じ、日々私がどれだけ努力してるか知りもしないで…と怒りを感じてしまいます

おそらく、どちらの意見も正しくて、性格と立場の違いが大きいのだとは思いますし、

次男はイライラしている私と一緒にいるしか選択肢がないので、申し訳なくも思います。

ひとまず今日は、「昼食」「夕食」というまとまった括りはやめて、おにぎりやハンバーグなど、一品ずつをその都度、適当に、ダラダラと出してみることにします。

次男がいつもより一時間早く寝ついた昨夜、夫と「今よりさらに健康になるにはどうすればいいか、お互いにアドバイスし合おう」という話になりました。

40代の健康会議です。

そこで、一旦目を閉じて、ここ最近の夫の雰囲気や、夫に対して感じている感覚を思い出して私から言葉にしました。

「◯◯(夫の名前)は、やっぱり◯◯(長男の名前)が亡くなった悲しみを瞬間冷凍させて、ずっと見ないようにしてるよね。本やスマホに没頭して、自分の内側から意識を逸らしてる。そうやって意識をぶつ切りにしてる人を隣で見てると、不自然だし、何となく安心できない感じ。だからもっと健康になるには、自分の内側のブラックボックスを無くして、全部見渡せるようになるのが一番だと思う。今ならできると思うよ。」

長男が亡くなってからずっと感じていた事を、初めて言葉にしたのですが、夫は大いに頷いてくれました。

次に、夫は私に対してこんなアドバイスをくれました。

「◯◯(私の名前)は、子どもを産んでからものすごく変わったよね。あのまま仕事を続けてても、結局は行き詰まってたと思う。生い立ちから「自分には何も無い」って苦しんだままだったから。でも、今の◯◯には可能性を感じる。例えて言うと、0が1になった感じ。1は積み重ねていけば、100にも1000にもなる。だから、人生全体で見たらものすごく健康になってる。今は、それを自覚したらいいんじゃない?」

……

最初は、食事や運動といった具体的な内容を想定して話し始めたのですが、いざ真剣に考えてみると、こういった抽象的な話に終始しました。

40代こそ、こういう人生のまとまり感、自分のまとまり感みたいな感覚が整っていることが、健康の基礎の基礎なのかもなぁ…と昨日の話し合いを振り返っています。