凄く長いです…
旅の帰りです。
初めての年はツアー続きで風邪をひいたままの参加。皆さんに迷惑をかけたにも関わらず温かく迎えてもらった記憶がある。
しかも、パソコンを使いたかった事もあり1人だけわがままを言って別の宿にして頂いた。
それから回数を重ねて、3回を超える頃にモダンオーケストラなのにバロックトランペットを持ち込む事を指揮の Oさんに相談した。
これにはいくつか理由がある。
先ずはバロックトランペットの可能性を伝えたい事。そして、ここのメサイアは常に前進をし続けている事。これは、停滞した安定よりはリスクを持って挑戦した方が良いと言うマエストロの考えが強いと思っている。それも有り私から全体のサウンドとして良くなるであろうバロックトランペットを使うアイディアを出した。難しくはなるが一度やるともう戻れない位オーケストラと声に馴染む。
この姿勢は昨日のレセプションで、年によってソロを歌われたり、完全に裏方にまわられたり、このコンサートの存続のために奮闘する I先生の言葉に「毎年、同窓会の様に集まって演奏するので無く、常に次のステージを目指して」と言う言葉に表れているのだけど、参加するすべての方が常に労力やリスクをいとわず変化を求め変化し続けている。
参加するすべての方は舞台に立つ方だけで無く、取りまとめて下さるH先生、Yさん、を始め、予算を組んでくださる大学や手伝ってくださる大学の職員、学生の方々皆さんであり皆さんが思いを持って変化し続けている。
お隣の韓国からの学生や音楽関係の方もコンサートに参加、聴きに来られる。
お客さんも毎年満席で今年も補助椅子を含めて満席。一人として予定調和で無くてさらに一歩先を目指す。
音楽家としてこう言う場に参加し続けることは幸せだ。音楽家は安定を求めた時点で成長はおろか安定も出来ず下降線を辿ると思っている。もちろん、年齢による体力の低下など戦ったり、対処を考えなくてはならない事はある。でも、前進し続ける魂は絶対に必要でそれはそれぞれのレベルとは無関係。皆がそれぞれの中で踏ん張るからこそ全体が本当に良いものになる。
ここまで出来たら良し、周りがこれ位だからそれに合わせて、正確に音にしたから… そう言うことは全部要らない。
さて、自分自身。
今年は配置が変わって最初の合わせは正直とてもきつかった。しかも、ソリストの声がとてもよく響く素晴らしい声でラッパも対等の位置で対等に鳴らさないと負けてしまう。もちろん勝ち負けではない。しかし、このアリアのラッパは物凄く大切。
自分がずっと考えていたり、耳にする幾つかの演奏より遥かに大きな意味を持って大切なのだと昨年スーザン氏は教えてくれた。その為には対等で無くてはならない。
今までは歌が入ったら引く〜今回は全く必要が無くて逆に上げる(笑)
これは凄い事。若い I氏は年々パワーアップしておりこちらも負けてられない。再度言うが勝ち負けでない。歌が存在感を増したらラッパも存在感を増さないと意味が薄れてしまう。もちろん、ピッコロを使えばバランスも技術も何分の一になり楽。でも、あの場面の「ラッパの音」、合唱との共鳴を考えると戻れない。
前日のリハはこちらからも要求して何度もやり、今年は他の奏者の協力を得てティンパニも含めたパート練習も敢行。普通のリハーサルの数倍は吹いた。
当日は軽くして欲しいとお願いしてあったので本当に軽く。前奏と後奏のみ。しかも、僕の要求した確認の為に。
(ハレルヤは韓国から参加した方々の為に前日を含めて何度かやったが)
コンサートは蓄積してる疲れを心配したが大丈夫だった(実際コンサートの中で疲れを感じていた)。やはり、少しソロの声の響きに包まれてしまい自分の音を見失う(!)事は有ったが、安定感は大きく増す事が出来、本来の物語に必要な強さ、威厳も少し音や言葉に出来たのではないか?と思ってる。録音を聴いた感じは悪くない。
実は、昨年瀬戸でやったメサイアを聴かれた方が気に入って下さり、関東から聴きに来てくださっていた。お話をしたら、出身が同じ土地。その方の出身高校は生まれ育った家の近く。
そして、現在は単身赴任で故郷の幼稚園の園長をされている。私のラッパ師匠と同じ歳らしい。
その方がガッカリしない様に。その為には巧くでなくて真摯に正面から向き合った演奏をと思っていた。
ソリスト達から歌を感じたと言ってもらえた。僕は人の声の歌に勝る楽器は無いと思っている。如何に歌い、語り、それが自らの心、身体の奥から自然に発せられる様に技術と音楽に向き合うか?
楽器を置くまで続けるんだろうな。
旅の帰りと記したのだけど、それを体現してる80歳の師匠のリサイタルに向かっている。師から習った事で一番大きな事は音楽に対する生き様。
ちょっと身体を鍛えないと…