音楽の流れ | HARUのブログ

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ラッパの事、普段の事、色々。

僕が楽譜を読む時に一番最初に感じ取るのは、この曲はどんな時間の流れの中でどう進んでいくのだろうという事。

どういう音程でどんなリズムかって事も含んでいるのだけど、細かな事、ディテールよりも大きな部分。

この春から夏は、ある学校の吹奏楽部のコンクールへの取り組みを手伝った。とても、素敵な楽しい時間だった。
最初から唯の一度もメトロノームとチューナーを使わず、音の表面的な形には触れず、その曲の中の音の言葉や文章をどう紐解いて感じ取り音にするか?そして、その為に必要な事、技術、ソルフェージュ、原曲を知る事… 自分の言葉で音で伝え続けた。もちろん、それぞれ自分の音や周りの音を聴くという事の大切さを繰り返し伝えた事は言うまでも無い。

技術的にかなり厳しい部分も有ったがそこは「必要なんだよ」とは伝えたものの強要は一切せず、ただ、指摘して意識だけを持ってもらうようにしつつ、自ら気が付いた時に技術を求める事に進んで行けるように気を付けた。

それらが彼らの中から自発的に音や意識として現れ始めたのは最後の一週間~合宿辺りからであろうか。その三日間の変化は驚いた。楽器を始めてそんなに年数も経って無い子も含まれていて、二人で一つのパートをやっと、、でも、きちんと音にするのが厳しかったりする場合も有った。しかし、何人かの中心になる子達の理解しようとしてくれた頑張りや、その演奏から全体が大きく音楽を発し始めて、先生を中心に彼らが持てる技術の中で目一杯の音楽を、合宿の最後からそして本番で、全員が共感、共有した演奏を音にする事が出来た。

4ヶ月を楽しかったと言ってくれた。本番が本当に楽しかったと… もう、合宿の最後の音を聞いた時から十代のその秘めた力に心の奥から動かされて居た。本当に魂から楽しく全力で自らの感覚を渡そうとした時間だった。不覚にもジーンと来てしまった。

コンクールでは残念ながら狙った賞には届かなかったが、そんな事は彼らには関係ない位お互いが音楽を通してその時間を見事に共有した。心の深い所に刻まれた12分だったと思う。
間違い無く大人の音楽をしてた。
僕は誰がなんと言おうと、彼らが僕のアプローチを必死で理解しようとしてくれ事と、自らが感じて見事な音楽をしてくれた事を誇りに思う。表面を整える事は敢えて音合わせにおいてもせずに、彼らの内側から生まれるものに訴え続けた結果だから。



僕は音程やハーモニー、リズムは素晴らしいが少し音楽の流れが… て演奏より、技術は少し辿り着かなくて乱れは有るが、音楽がそこに存在する演奏に間違い無く惹かれる。音楽は時間が無いと存在でき無い。
流れが良いという事は、音楽に対して適切な時間を感覚で掴めて居て、音楽を感じ取れていないと出来無い事で、本来は最も大切な事で有りもっと評価されるべきものだと思って居る。
そこが有るから音を磨いたりテクニックを追い求めたりするのが本来の姿では無いかと思う。僕はそこに目覚めた時に音楽を専門にやりたいと思った~15の時。
音楽の流れは良いけど他がダメだから…と他を優先する事は結局本来の目的で有る音楽には辿り着かないとも思う。

例えば譜面にスタッカートが有る。
それは一つの状態を表す記号では無い。
その音楽を理解する~拍子感、テンポ、和製、音色、フレーズ… 多くの要素が絡み合って生まれるそこの表情があり、そのニュアンスを出す為の技術の選択はその表情から決まる。決して技術が先にあるわけでは無い。何故スタッカートが有るか?って事が一番最初に無いと音になった物は音のパズルでしか無い。それを、大きくしたり、表情を工夫しても、ただショーアップされたものでしか無くて、本来の音楽から感じ取り寄り添い、読み解き、共感したものを音にする事からは全くかけ離れた別物だと思う。
最近、そんな演奏を聴く事が有り、それを賞賛する周りの雰囲気(原曲の魂は何処かに行ってしまっていたのに…)と共に、その空気感に何故か酷く心の奥が傷付いた。



たとえ音階練習でもそこに音に対する感覚が存在しなければ、それは音楽の為のものでは無くなってしまう。


アンソニー ホプキンスのインタビューを観たことがあり、その中で彼は「演技をするので無くて、ただ、台詞を読む」と言うような事を話して居た。それでも、彼の存在感は凄い。彼はその物語の背景を調べたりもしないそうだ。ただ、台詞を読む。それがどういう意味か。表面的な受け取り方で無くその言葉の重みは楽譜を読む事、音楽する事にも通じるとその時に感じたのを思い出した。

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