世間の方々は、
「外国語を使って仕事をしている」
ことを
「当たり前」
だとお思いになるみたいで、そうではない状況を
「もったいない」
と思われるようです。
また、2カ国語に堪能だと、自動的に「通訳」や「翻訳」ができる、
という誤解もとても多いのです。
通訳や翻訳という「仕事」は
そんな甘いものではないですし(仕事は皆、甘くないのですが)、
「2ヶ国語に堪能」だからといって、自動的に「通訳」や「翻訳」ができるという
単純なものではないのです。
私は、かつて中国語の通訳者としてお仕事をさせていただいていました(今も、やめたわけじゃないです^^;)。
ありがたいことに、とても良いご縁をいただき、
チャレンジングなこともありましたが
本当に良い経験をさせていただいたとおもいます。
5年という期間に、何度かお仕事をさせていただいて気づいたことは
「通訳者や翻訳家になりたかったわけじゃなかったんだな」
ということです。
それくらいのレベルに到達したい
と思っていたけれど、それが最高のレベルというわけでもありません。
通訳や翻訳というのは、レベルではなく
「技術」なのです。
トレーニングを経て、得ることができる
「スキル」でもあります。
ですから、その仕事を続けて行くためには、
外国語のレベルアップということの他に
「訳す」ためのトレーニングも欠かすことができません。
ウィスパリング(耳元で囁くように通訳する方法)のような同時通訳をするのと、逐次で通訳するのとでは
使う「筋肉」が違います。
ウィスパリングでは、反射神経が必要ですし、動体視力ならぬ、動体「聴力」が必要です。
先を予測する力も必要になっては来ますが、
予測に頼りすぎると、スピーカーの言葉やその意味を取り違える危険があるので
基本的には、聞こえてくる言葉に集中します。
逐次通訳では、やはりノートテイキングの技術が必須です。
数字や固有名詞など、絶対に間違えてはいけない単語を、正確に聞き取り、メモする力。
そして、そのノートを再現する力(メモするだけじゃなくて、言葉を出さないといけないからね)。
言葉は、「気持ち」を相手(または、他者)に伝えるために、ある
…と私は思っています。
外国語を学ぶということの私的な意味は、
外国語を母国語とする人と、その人の使う言葉で話すことによって、
新しい視点での「日本」を知ることができる
ということだと思っていますし、実際に外国の視点から見た日本(外国人の印象ということではありません)を知ることができた、と思います。
また、相手の言葉を使って話すことによって、
私が大好きな、日本のことや、日本の文化についても説明することができます。
日本語ができる外国人というのは、
それなりに日本に対してシンパシーを持ってくださっていて、
何らかの情熱を持って
日本語を習得してくださったのだと思うのです。
そうではない方に対して、こちらからアプローチすることで、日本の良さをもっと伝えていくことができる
という風にも思います。
そういう意味では、隣国である中国と韓国の言葉。そして、グローバルな英語。
この3つの外国語を話せるようになることは
私にとっては、体調管理するために運動する… みたいなことかもしれません。
やったほうがいいけど、やらなくても別にそんなには困らない…的な(笑)
外国語を話せる、ということは、
欧米ではあまり特別なことではないようにおもいます。
母国語がドイツ語だったり、フランス語だったりしても、英語「も」話せる人は普通にいるわけでしょ。もちろん、レベルに差はあると思いますが。
全員が全員通訳者になったりするわけじゃないしね。日本だけ、そういう風潮なのっておかしいよね。
それと、外国語ができるからって通訳できるって思うのもおかしいと思う。
おかしいと思うけど、それが今の日本なんだろうなぁ。
そういう考え方でいるうちは、グローバル化なんか難しいかもしれないね。
外国語を習得するときに大事なのは、その外国語を使って何がしたいのか、ってことをだと思う。
別に通訳者にならなくても、翻訳者にならなくても、その外国語の使い道はたくさんあるし、
普通に話せるだけで、本当にたくさんの収穫があるのだもの。
外国語だって、基本的には「言葉」であり、それ以上のものでもそれ以下のものでもない、っていう気がします。
だから、「語学」っていう表現にものすごく違和感を覚える。本屋さんや大学の単位のカテゴリーとしての表現ならいいんだけどね。