しろかき2019 |  みねやまみちひとりごち (峰山道独言)

 みねやまみちひとりごち (峰山道独言)

   みねやまみちは 石ごろごろ  坂道 よこ道 けもの道 いのちの道  
  めぐりくる 日々を しばしとどめて つむごう

   峰山鍼療所 (みねやまはりいやしどころ) のひとりごとです ♪

 きのうまで、堂々三連休で、田んぼ。


 5月29日に田に水が入ると連絡があり、家人がその日に出かけて、代掻き(しろかき)に手を(足を)つけてくれた。

 まわりの田んぼに水が入る日が決まっているので、自分たちの都合でできないのが悲しい。 ‥‥とかなんとか言ってられない、怒涛の数日間になる。

 まわりの方々は週末に機械植えするから、水入れは直前でもよかろう。

 私たちは水が入る前に田起こし、草刈り、水が入ったら大急ぎで代掻きをせねばならない。

 私はそうそう仕事を休んでもいられないから、代掻きは1日と決めている。 31日は “けっせんの金曜日” なのだ。


 仲間とやっている稲作は、有り難いことに、もう20年余も続いている。

 メンバーも高齢化してきた。

 上に書いたような水のまわりとか、仕事とか、親の介護とか、孫の世話とか、もろもろで、共同作業日に出て来られなかったり、田起こしや代掻きが間に合わないのではないかという懸念のために、近年は機械で土を起こして代掻きをやらないメンバーが増えた。

 今や、11軒のうち、鍬で起こしているのはウチのほかには2軒だけ、足で代掻きしているのは5軒だけだ。


 もともとは 「新農耕民文化研究会」 とかで、手足を使った稲作をしたいという仲間の集まりだった。

 メンバーが出たり入ったりもしたけれど、やがておおっぴらに、耕運機を借りるだの、脱穀機を借りるだの、そういう話が出るようになった。

 もともとのメンバーは何も言わない。

 もともとのメンバーの気持ちをわかっているだろうに、よくも機械化の話ができるものだと、出たり入ったりで続けている私は正直苦々しく感じたりもする。


 「続けることに意味がある」 と思っているのだろうか。

 「無農薬」 を勲章にしたいのだろうか。

 自分で作った米をヒトにあげて喜びたいのだろうか。


 動機はどうであれ、無農薬で稲作したい者の集まり、でいいのだろうか。


 サティシュ・クマール氏の映画 「今、ここにある未来」 を観て、「プロセス(過程)こそすべてである」 という言葉が響いた。


 そうだな。

 ほかのひとはモンダイじゃない。

 私が、手と足を使って稲作をしているこの過程が、何ものにもかえ難い、私のアートなのだ。

 自分と世界との掛け替えの無い氣(エネルギー)の交感なのだ。

 私が、手と足を使って稲作ができること、それ自体がなんというしあわせなのだろうか。






 代掻きは、水の入った田の底を踏み固めてゆく作業で、過酷だ。

 硬いところは鍬で崩しながら、ひたすら水と泥の中で足踏みをする。


 過酷だけれど、嫌いではない。

 1日でやる、と決めているから、気合いが入っている。

 汗だくだく、泥が顔にも飛ぶ、虫が寄ってくる、だんだん足があがらなくなってくる。


 田んぼは小さな花たちで豊穣。




 踏みつけてごめんよ。

 田のコヤシになっとくれ。

 


 始まりはこんなん。

 まわりだけぐるりと、前回家人がやってくれてある。



 休憩中。 家人、がむばれ。



 もう少し。



 となりでは、トンボをかけている。

 土の偏っているところを寄せて、ならしてゆく作業。

 これもたいへんで、いつか呼吸困難になったことがあるから、苦手なんだなあ。



 終わった。


 


 トンボでならして、共同の田の代掻きもして。



 燃え尽きた。

 麦わら帽子のアタマの中が汗でかぶれたみたい。 かゆくてたまらん。


 田植えについては、また明日。