本項は、まずは、藤原氏の祖である、藤原鎌足についての解説から、始めることにする。
藤原鎌足は、中臣氏の出身のため、生前は、中臣鎌足を称していた。
鎌足の臨終に際して、天智天皇に、「大織冠」の位と共に、「藤原」姓を賜った。
そのため、生前の鎌足については、「中臣鎌足」、藤原氏の祖としては、「藤原鎌足」と呼ばれる。
中臣氏は、天孫降臨の際、ニニギノミコトに随伴した、天児屋命を祖とする、神別氏族で、忌部氏と共に神事・祭祀を司った、中央豪族である。
「神別氏族」とは、ニニギノミコトの子孫ではなく、ニニギノミコトと共に降臨した、天津神の子孫を意味する。
「神別氏族」は、その他、天忍日命の子孫の大伴氏、天太玉命を祖とする、忌部氏等がある。
神武天皇の子孫で、皇位を継承せず、臣籍降下した、一族は、「皇別氏族」と呼ばれる。
「皇別氏族」には、古代では、息長氏、葛城氏、紀氏、平群氏、蘇我氏等の中央豪族がいる。
平安時代の嵯峨天皇以降は、臣籍降下の際、に「源」の姓が与えられることになる。
橘氏、平氏等を含めると、日本人の多くが、「皇別氏族」の子孫と考えられる。
藤原氏の祖、中臣鎌足は、中臣御食子の息子とされる。
中臣氏は、天児屋命、天押雲命、天押雲命、天種子命、宇佐臣命、御食津臣命、伊賀津臣命、梨迹臣命、神聞勝命、そして、久志宇賀主命、国摩大鹿島命、臣狭山命、中臣烏賊津、大小橋命、中臣音穂、中臣阿麻毘、中臣真人、中臣鎌子、中臣黒田、中臣常盤、中臣可多能祜と続き、中臣御食子に至る。
中臣鎌子は、欽明天皇の家臣である。
紀元552年、百済の聖王の使者が、仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳を称えた。
欽明天皇は、仏像を礼拝する、可否を群臣に求めた。
大臣の蘇我稲目は、礼拝に賛成したが、大連の物部尾輿と中臣鎌子は、反対した。
天皇は、稲目に仏像を授けて、礼拝させたが、間もなく、疫病が起こった。
物部尾輿及び、中臣鎌子は、蕃神を礼拝したために国神が怒ったのだとして、仏像の廃棄を奏上した。
欽明天皇は、二人の意見を受け、仏像は、難波の堀江に流され、寺は焼かれた。
中臣氏は、前述の通り、神事・祭祀を司っていたため、海外から、伝来した、仏教に対し、反対したのは、当然と言える。
その後、用明天皇によって、仏教は、公認された。
用明天皇は、聖徳太子の父であり、聖徳太子及び、蘇我稲目の息子、蘇我馬子によって、仏教は、日本に広まることになる。
中臣鎌足の父、中臣御食子は、推古天皇が、崩御した際、皇位継承問題が、発生すると、蘇我蝦夷、阿倍内麻呂と共に、次期天皇に田村皇子を推挙し、事態を収めた。
田村皇子は、即位し、舒明天皇となる。
田村皇子と皇位継承を争ったのは、聖徳太子の息子、山背大兄王であり、山背大兄王は、その後、蘇我入鹿に殺害され、聖徳太子の一族は、滅亡した。
なお、舒明天皇の息子こそ、中大兄皇子、即ち、後の天智天皇である。
中臣御食子が、舒明天皇の擁立に加わり、息子の中臣鎌足が、舒明天皇の息子の中大兄皇子に仕えたのは、自然な流れであったと思われる。
中臣鎌足は、『藤氏家伝』によると、大和国高市郡藤原、また、大和国大原とされるが、常陸国鹿島との説があり、謎に包まれている。
藤原氏の氏神、春日大社の第一殿は、常陸国鹿島神宮の祭神、武甕槌命であり、「中臣氏」の祖先神、天児屋命は、第四殿に過ぎない。
そのため、「藤原氏」の守護神は、武甕槌命であると推測される。