本項の題名、「万世一系を実現した、藤原氏の内紛」は、中華世界と同様、藤原氏による、皇位簒奪の可能性を論じることになる。

 「万世一系」は、無論、神武天皇の子孫の天皇で、天皇の外戚として、権勢を振るった、藤原氏が、皇位簒奪を考えたとの仮定を論じている。

 しかし、藤原氏は、内紛が続いたため、皇位簒奪に失敗したとの可能性である。

 無論、本項の仮定は、歴史の一側面に過ぎず、天皇家が、「万世一系」を実現したのは、日本において、「天照大御神の子孫しか、天皇になれない」との大原則があったためである。

 日本では、「天皇」は、「神聖不可侵」の存在であって、中華世界の様に、「易姓革命」等の概念は、存在しない。

 日本の「天皇」は、「万世一系」しか、有り得ないと言える。

 しかし、日本では、「権威」と「権力」が、分離したために、「天皇」は、「権威」のみの存在となって、長期間、「権力」を握ったのは、藤原氏であった。

 本項は、仮定の話として、藤原氏が、中華世界の「易姓革命」の概念を取り入れ、「天皇」ではなく、「皇帝」として、日本の皇位を簒奪することが、可能であったかもしれないと論じることにする。

 藤原氏は、大化の改新で、中大兄皇子と共に、蘇我氏を打倒した、藤原鎌足を祖として、その息子の藤原不比等以来、権力の中枢にいた。

 しかし、藤原氏は、一族の内部において、権力闘争が、続いたために、一族の一人が、「皇位簒奪」を企てれば、一族の別の者達が、確実に阻止したはずである。

 結果的に、藤原氏の内紛が、「万世一系を実現した」と言える。

 繰り返しになるが、本項の題名、「万世一系を実現した、藤原氏の内紛」は、仮定の話、また、歴史の一側面としての筆者の個人的見解に過ぎない。

 しかし、「公称」は、2684年間、126代の天皇が続いた、「万世一系」の背景の一つとして、「藤原氏の内紛」があったことは、完全に否定できないため、可能性を論じることにしたのである。

 「藤原氏の内紛」とは、藤原氏が、一族の繁栄のために、当主を支えず、一族の内部にて、権力闘争を行っていたことである。

 日本の古代において、天皇家を筆頭に、「嫡子相続」が、確立されていなかったと思われる。

 天皇家には、兄弟相続の習慣が残っているため、日本の氏族は、嫡子相続ではなく、兄弟相続があったと考えられる。

 「嫡子相続」とは、嫡子、即ち、正妻の息子が、天皇、または、氏族の全てを継承して、「当主」となり、弟達及び、叔父達の一族は、「家臣」になる。 

 長男が、側室の息子の場合、庶長子と呼ばれ、弟の「嫡子」が、相続権を得る。

 例えば、織田信長には、兄の信広がいた。

 しかし、父の織田信秀の正妻は、信長の母、土田御前のため、信長が、家督を継承した。

 「嫡子相続」が、確立されていれば、一族は、「当主」を中心とし、結束するはずである。

 中国では、「嫡子相続」が、確立していたため、「当主」の権力が強く、「皇位簒奪」さえ、可能であった。

 しかし、「嫡子相続」ではない、日本の古代では、兄弟間及び、従兄弟間等の相続権争いが、発生し、一致結束は、不可能に近かった。

 その結果、「当主」の権力は、弱いため、「皇位簒奪」を企てれば、一族の内部で、「当主」を追い落としたのである。

 本項は、最初に、藤原氏が、「権力」を握るまでの経緯を解説し、その後、「皇位簒奪」を考えたと明白に言える、藤原氏を紹介する。

 また、史書等には、記されていないが、藤原氏の「権力」が、絶頂に達した時、藤原氏の内紛があったことを解説する。