藤原四家の中で、最初に朝廷の実権を握ったのは、藤原南家であった。藤原南家の祖、武智麻呂には、豊成・仲麻呂・乙麻呂・巨勢麻呂の四子がいた。長屋王の変の後に、藤原四兄弟が相次いで死去すると、長男の豊成が、藤原氏の氏長者を継承した。豊成は、749年に右大臣に就任する。

 しかし、756年、大炊王が次弟の仲麻呂に擁立されて立太子すると、翌年、橘奈良麻呂の乱に連座して、太宰員外帥に左遷された。実弟に排斥された豊成は、後に、仲麻呂が謀叛を起こして斬首されると、右大臣として政界に復帰した。

 孝謙天皇(聖武天皇と光明子の娘。重祚して称徳天皇)の時代、武智麻呂の次男、藤原仲麻呂(恵美押勝と改名)は、左大臣橘諸兄を排斥して朝廷の実権を握った。翌年には、諸兄の息子、橘奈良麻呂を処刑して政敵を一掃すると、順調に昇進する。そして、760年、遂に人臣初の太政大臣に就任した。
 
 孝謙天皇が上位して淳仁天皇が即位すると、仲麻呂は、息子の真先・訓儒麻呂・朝狩を参議として、日本史上初めて、父子四人が公卿に列せられた。しかし、同年、光明皇后が死去したことによって、仲麻呂の権勢に翳りが見え始める。

 孝謙上皇は、弓削道鏡を寵愛すると、淳仁天皇・藤原仲麻呂と対立を深めた。道鏡の台頭に焦る仲麻呂は、恵美押勝の乱と呼ばれる謀叛を起こすが失敗、斬首された。

 仲麻呂が処刑されたことで、南家の勢力は衰退する。その後、南家では、継縄(豊成の息子)・是公(武智麻呂の三男、乙麻呂の息子)が、桓武天皇の時代、右大臣に就任している。しかし、平城天皇の時代、乙叡(継縄の息子)・雄友(是公の息子)が、伊予親王の変で連座して失脚、南家は中央政界から姿を消すことになる。

 承平・天慶の乱の時代、藤原是公の四世の孫、藤原維畿は、常陸介として坂東に下向した。しかし、鹿島玄明を匿った平将門によって常陸国衙が襲撃されると、維畿は将門に抑留されている。維畿の息子、為憲は、平将門の乱が坂東全域に拡大すると、平貞盛と共に将門の捜索を逃れて潜伏した。
 
 940年、為憲は、新皇を称した将門追討の官符を得ると、藤原秀郷・平貞盛・平公雅と共に、将門討伐を果たして、維畿を救い出したのである。

 為憲は、将門討伐の勲功として木工助に任官すると、工藤為憲を称して工藤氏・伊藤氏・伊東氏・二階堂氏・天野氏・吉川氏・相良氏の祖となった。工藤氏の後裔は、工藤祐経と祐経を仇討したことで有名な曽我兄弟を輩出している。

 武智麻呂の四男、巨勢麻呂は、次兄の藤原仲麻呂の乱に連座して処刑された。巨勢麻呂の後裔は、「道長四天王」の一人、藤原保昌を輩出している。武勇に優れた保昌は、源頼光と同時代の人物で、共に藤原道長・頼通に仕えた。保昌は、頼光の酒呑童子退治の伝説にも登場している。

 保昌は、大和守・丹後守・摂津守・山城守・肥前守・日向守を歴任して、極位は正四位下に昇った。また、大和国の所領を巡って、甥の源頼親と対立している。保昌の弟の保輔は、後世、盗賊の袴垂として有名になった。
 
 巨勢麻呂の後裔は、上記以外に平安時代末期、保元の乱の後に死刑制度を復活させ、平治の乱で殺害される後白河院の近臣、藤原信西を輩出している。また、源義朝の妻の由良御前(源頼朝の母)は、巨勢麻呂流藤原氏の熱田大宮司家の藤原季範の娘である。