本のお話。
図書館から借りました。
『[新メガ版]自然の弁証法』
(エンゲルス 著、秋間実・渋谷一夫 訳、新日本出版社、1999)
エンゲルスの「本の読み方、自然科学を哲学に吸収させていく考え方」みたいなエッセイ集ともメモ書きとも言うような「変な本」。
19世紀版『徒然草』『エセー』といったところです。
エンゲルスの自然科学の勉強法は正直あまり感心しないのですが(弁証法や唯物論という自説に合うような素材や傍証を集めるために自然科学に接近している感じで、結果として、自然科学に限らずものの見方が窮屈になってしまっている)、それでも大学を出ておらず(「商人に学問はいらない」と、エンゲルスのお父さんは大学に行かせなかったそうです)自然科学についてはズブの素人のエンゲルスがここまで深く考えられたのはすごいというか、さすがだという、不思議な感動を覚える本です。
●「56」pp37-38
●「99[サルがヒトになることに労働はどう関与したか] 労働者の圧服.フリードリヒ・エンゲルスによる 序論.」pp106-120
●「162 心霊界での自然研究.」pp186-197
など、現代でも十分通用する論考だと思います。
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自然研究者たちは、哲学を無視するとか罵倒するかすることによって哲学から解放される、と思いこんでいる。ところが、かれらも思考なしには先へ進まないし、思考には思考諸規定を必要とするのに、こうしたカテゴリーを、とうの昔に消えさった諸哲学の遺物に支配されているいわゆる教養人たちの通念とか、大学で無理やり聴かされたわずかばかりの哲学(これは、断片的であるばかりか、この上なく雑多なたいていは最悪の諸学派に属する人びとの諸見解の一大混乱である)とか、ありとあらゆる種類の哲学者の、批判も系統性もそっちのけの読みあさりとか、といったところから調べもせず取ってくるので、かれらは、あいかわらず哲学の、しかもたいていは残念ながら最悪の哲学の、奴婢の地位にあまんじることになり、哲学者たちをいちばんひどく罵倒する自然研究者たちが、最悪の哲学者たちのまさに最悪の俗流化された遺物の奴隷になっているのである。 37-38 *[56]
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われわれは、しかし、われわれ人間が自然にたいしてかちえた勝利にあまり得意になりすぎないようにしよう。そうした勝利のたびごとに、自然はわれわれに復讐するのである。なるほど、どの勝利も、最初はわれわれの見込んだとおりの諸結果をもたらしはする。しかし、二次的また三次的には、まったく違った・予想もしなかった効果を生み、これが往々にしてあの最初の諸結果を帳消しにしてしまうことさえあるのである。 117
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弁証法を軽視すれば、ほんとうの話、罰を受けずにはすまない。理論的思考をすべてどんなに過小評価しようとも、二つの自然現象を関連させたり両者のあいだに存立している連関を見ぬいたりすることは、理論的思考なしにはできない。その場合にはただそこで正しく思考するかしないかだけが問われるのであって、理論の過小評価が自然主義的なしたがって誤った思考をする最も確実な道だということは、言うまでもないのである。(中略)経験を盾に取って弁証法を軽視すれば、最も冷静な経験主義者のいく人かがすべての迷信のうちでも最も不毛なものであるこんにちの心霊信仰へ導かれる、という罰を受けることになるのである。 196
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ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英(1940-2021)さんが愛読した本としても知られています。
マルクスやエンゲルスに自然に接することができた最後の世代かもしれませんね。