ミロの版画にうっとり♡ 〜「ピカソ・ミロ・ダリ 版画展」@大丸神戸店7階美術画廊〜 | 西宮・門戸厄神 はりねずみのハリー鍼灸院 本木晋平

西宮・門戸厄神 はりねずみのハリー鍼灸院 本木晋平

鍼灸師、保育士、JAPAN MENSA(メンサ)会員/IQ149(WAIS-Ⅲ)、日本抗加齢医学会指導士、実用イタリア語検定3級。趣味は読書、芸術鑑賞、小説執筆(2019年神戸新聞文芸年間賞受賞)、スイーツめぐり、香水づくり。

事後報告。
おととい、神戸・元町にある大丸神戸店の7階美術画廊で


を観ました。

大丸神戸店の広告より

スペイン20世紀の3大巨匠
ピカソ・ミロ・ダリ 版画展
20世紀スペインを代表する巨匠ピカソ、ミロ、ダリ。彼らの創りあげた作品は世界中に衝撃を与え、20世紀の美術の展開に革命をもたらしました。今展ではそのピカソ、ミロ、ダリの版画作品を一堂に集め展観いたします。

3人ともわたしの好きな画家ですが、この3人の中ではミロが一番好きです。
自由闊達で独創的な画風なので(みんな独創的ですけれどね)。

そのミロの版画の中でーーということはこの展覧会に展観されている作品の中でーー一番いいな、欲しいなと思った作品は、


(銅版画、1967年 58.5x92.5cm)

です。
直筆サイン入りのお宝です。

値段を見ると

4104000円
(本体3800000円)

わたしはお金持ちになりたいとはそんなに思わないのですが(だいたい、お金持ちになりたければ、鍼灸師なんて儲からない職業についてません)このときばかりは、「お金があればなあ」と己の経済力のなさを悔やみました・・・

医療業界にいる身でこういうことを言うのもどうかと思うのですが、仕事がんばって稼ぎます。この絵欲しい!!!

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そう言えば・・・

滝川一益(1525-1586)は、織田信長(1534-1582)の重臣でした。

ウィキペディアより

天正10年(1582年)、信長が甲州征伐を企図し、嫡男の織田信忠に軍を与えて信濃へ攻め込ませた。この際に一益は2月12日に出陣し、家老・河尻秀隆と共に軍監となり、森長可らと合わせて攻略戦の主力となっている。一益はこの甲州征伐において武田勝頼を追い詰め、天目山麓で討ち取るという功績を挙げている。また、甲斐で北条氏政の使者が信長に拝謁した際、やはり一益が申次を行っている。
戦後処理として、3月23日に一益は上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与えられ、同時に東国取次を命じられている。しかしながら一益は領地よりも茶器(安土名物とも呼ばれた「珠光小茄子」)を所望したが叶わなかったことを悔しがったという逸話がある。信長は名馬「海老鹿毛」と短刀を下賜し、引き続き一益を関東統治の取次役にした。

主君の信長から上野国(こうづけの国:今の群馬県)の領土=知行を与えられたのに、当の一益 は茶器の逸品である「珠光小茄子」がもらえなくて相当ガックリきたそうです。


今で言えば、

「一流企業の支社長のポスト(年収ウン千万円、海外ならウン億円)よりもミロの絵が一枚欲しい」

ということでしょう。
織田信長が明智光秀に暗殺された後(本能寺の変)の一益は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)や徳川家康の活躍の陰に隠れてパッとしない晩年を過ごすことになるのですが、わたしは一益の人柄が好きです。
上野国を治めていた大大名だった時代、こんな逸話があるのです。
同じくウィキペディアより。


関東管領となって上野国主になると、一益は山の中に屋敷を造り、暇な時はここで休憩した。ある時、目の前に広がる野に鶴が数多く降りて、餌をついばんでいた。すると鶴は外敵から仲間を守るために必ずあたりを警戒する番鳥がいた。番鳥は周囲に物音がしなくても目をきょろきょろさせていた。一方で山屋敷の植木の枝、軒端のあたりには雀が多く来て人をも怖がらず、餌を探して飛び歩き、仲間と戯れていた。それを見た一益は家臣に「あれを見よ」と言い「鶴の用心するのと、雀が無邪気なのは人間に比較すると大名と家臣の違いである」と語った。そして「鶴に等しい大名は、幸運にもその地位を得て、国郡の多くを知行して、数万人を我が物にしているが、言葉にも注意して、粗末な事は言わない。物を食べる時も、毒見をする膳番目付など役人がいて、みだりに食べる事ができぬ。夜は不寝番がいて、外には夜回り時周りの役人がいる。我ひとりが寝た後まで用心し、家中の大小上下、領内の万民も、我一人が目当なれば、片時も身を楽々と持つ事ができない。大名たる我はあの鶴の身持ちと変わらぬ。我らが昼夜の心遣いを察せよ。汝ら家臣は鶴を羨まず、雀の楽しみを楽しめ」と述べた(『名将言行録』)。つまり一益は「鶴は美しいが敵から狙われやすく、落ち着ける時が無い。だが雀は無邪気でいられる。家臣達は鶴を羨ましがらずに雀である事を楽しめ」と言ったのである。大名になれば片時も安穏としていられない、そんな気苦労を一益は吐露したのであった。