「権力に屈する芸術家」を、それでも支持すべきか? 〜愛知県美術館の「わいせつ写真」騒動について〜 | 西宮・門戸厄神 はりねずみのハリー鍼灸院 本木晋平

西宮・門戸厄神 はりねずみのハリー鍼灸院 本木晋平

鍼灸師、保育士、JAPAN MENSA(メンサ)会員/IQ149(WAIS-Ⅲ)、日本抗加齢医学会指導士、実用イタリア語検定3級。趣味は読書、芸術鑑賞、小説執筆(2019年神戸新聞文芸年間賞受賞)、スイーツめぐり、香水づくり。

今月から催されている、愛知県美術館の「これからの写真」展について。

写真家・鷹野隆大氏が出品している写真(陰部が写ったヌード写真)について、
愛知県警生活安全部保安課が美術館に

「わいせつ物の陳列にあたる」「刑法に抵触するから外してください」

と対処を求めたのだそうです。

美術館と作者の鷹野隆大氏は協議の上、作品を半透明の紙で覆うなどして展示を続けているようです。

【参考URL】「美術館展示写真、愛知県警「わいせつ」 一部覆う」(朝日新聞のサイトより)

===

率直な感想を申し述べると、

鷹野隆大氏に同情するものの、
今回の対応を支持しない。
支持する意向はまったくない

「芸術を、芸術家を何だと思っているのか」という悔しさを
鷹野氏本人にぶつけたい。まったく、情けない。


僕個人は、今回の件を、作品の制作者以上に、美術館の「表現の自由」(あるいは「言論の自由」)が侵されたと考えています。

(略)

「変なもの」の居場所を用意していることが、つまり多様性を保持していることが、社会の安全弁として機能することを知っているからこそ、美術館は存続しているのですから。

(略)

「知」に対する行政府の安易な介入はその暴力をエスカレートさせていく危険を孕んでいると僕は考えます。

そこまで思っているのであれば、
少なくとも、自分は「表現の自由」の最前線に立ち続けているというプライドを持った芸術家であれば、

僕の取りうる選択肢は3つ。ひとつは、展示を引き上げる。ふたつめは、指摘された作品を外して問題のない別の作品に差し替え、何事もなかったように造り変える。みっつめは、指摘を受けたことがわかるようにして展示を続ける。

さて、ひとつめも、ふたつめも、物故作家でも可能な展示です。僕は生きている人間として、今回の介入をどのように受け止めたのかがわかるような形で展示を変更したいと考えました。結果として、来場者にもこの事態について考えてもらうことがきます。

という結論にはならないはずだしなるべきではない

「何ら展示方法を変更せず、そのまま展示し続ける」
「『刑法に抵触している』と介入する警察を、『憲法で保障されている表現の自由の侵害』『警察は憲法に抵触している』とはねつける」

はずです。

芸術への侮辱、表現の自由の侵害に、断固抗議すべきだった。

芸術家は、ただ作品を発表すればいいものではない。
作品のおかれている環境を守り、作品に責任を持つことも大事だと思います。

陰部を撮ったということは、
陰部抜きでは自分が伝えたいメッセージやフィーリングを伝えきれない、
必要不可欠な表現要素と考えていたのでしょう。

警察に脅されたくらいで陰部を隠したーー実質的に取り下げたことと同じですーーということは、
作品の中での陰部が何ら役割を果たしていないこと、(その程度の完成度の作品、写真だったということでしょう)
自分が表現の自由を守る責任を持たない芸術家であること、(それにしても、権力に屈する芸術家を芸術家と呼ぶべきなのか?)
そういったことを、制作者自身が認めたことになります。

芸術作品は、
「警察の介入を制作者がどのように受け止めたのか」
(周囲の評価に対する制作者の反応)
などよりも、
「制作者が作品そのもので表現したかったこと」
を伝えるためにあります。わたしはそう考えます。

これは文学の世界になりますが、

●チャタレー事件(被告:伊藤整、小山久二郎)
●悪徳の栄え事件(被告:澁澤龍雄(筆名・澁澤龍彦)、石井恭二)
●四畳半襖の下張事件(被告:野坂昭如、佐藤嘉尚)

では、作家たちは徹底的に「表現の自由」を法廷で訴えました。
一部表現を変えたり隠したりするような姑息なマネはしませんでした。

鷹野氏の今後の言動で、彼が写真や芸術をどこまで大切に思い、愛しているか、
その矜持と情熱の高低が明らかになるでしょう。