加須へ 種垂城址へ 鴻巣「雲祥寺」へ | はろはろはうすの<何を食べようか>

はろはろはうすの<何を食べようか>

夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

6月5日

大福寺からまたしばらく
クルマで移動。

「種垂城址」へ。


「たなだれじょう」と読む。



室町時代に菖蒲城主であった
佐々木氏が築城。

菖蒲城の支城として
築かれたと考えられている。



やがて城主は忍城主の成田氏から
小田氏へと移り変わる。



そして小田顕家(あきいえ)は
ここから騎西城に移ったのち、
忍城主である成田親泰の子・助三郎を
婿養子に迎えて家督を譲り、
自身は隠居してこの種垂城を隠居城した。

当時の種垂村は屈指の大村であり、

何らかの形で押さえておきたい

要所でもあったといえる。



それにしては今は何もないぞ。

住宅と田んぼの隣接した

ただの公園である。

 

それも放置されて荒れ果てた、

本当に何もないただの公園で

あること自体が悲しい。



ここなどは何となく、
土塁の跡の様に見えるのだが
どうだろう。







城らしいのは

本当にここくらいである。

 

この状態が果たして良いのか悪いのか、

私にはちょっと判断がしかねる。






周囲を歩いてみる。



城は現在の種垂城址公園を中心に、
東西750m・南北400mの
規模だったと考えられている。

 

 

 

 

この辺りには古墳群があり、
古墳時代の住居跡も発見されている。

 

 

また中世の館の一部や、
大きな寺院が存在していたと思われる
建物跡なども発見されている。

 







古代から中世にかけて
ここは長く栄えた都市であり、
また文化の中心地でも
あったことが伺える。



そして鴻巣市の「雲祥寺」へ。



左右2体のお地蔵さまが
迎えてくれる。





参道を進む。


 



この梵鐘には徳川家康から
6代家宣までの戒名が
刻まれているそうなのだが、
どれなのか良く判りませんでした

スミマセン。。







本堂へ。





ここ雲祥寺は鎌倉建長寺の
末寺であったが衰退し、
先程の種垂城の城主であった
小田顕家が再興した寺である。


 



この本堂の裏に、
その小田顕家の墓がある。







右が小田顕家の墓。
左は顕家の息女の墓。




ところで小田顕家の婿養子に入った
成田助三郎は小田朝興と名乗り、
騎西城主となった。





そこに攻めてきたのが
上杉輝虎(謙信)である。

城は落城。

謙信はこの時の様子を手紙に、
城四方が沼に囲まれていて
非常に攻め難かったと書いている。

騎西城と風の音楽
騎西城と風の音楽 | はろはろはうすの<何を食べようか> (ameblo.jp)

小田朝興はその後、
実家で忍城主である成田家の
家督争いに巻き込まれて
追放されてしまう。

そんな混乱の中で種垂城も、
いつとも知れず城としての役割を
終わらせたのだと思われる。