騎西城と風の音楽 | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

4月2日

埼玉県加須市

「騎西城」

きさいじょうと読む。

古くは「私市(きさい)城」と
書かれていた。



築城時期は不明だが、
戦国時代から徳川時代の初めまで
存在していた城である。



城は周囲を沼や深田で囲まれた
要害であったと伝わる。



ただしこのコンクリートの
天守閣の様な建物は、
市の「郷土史料展示室」で
実際の城とは何の関係もない。



私は加須市民ではないが、
こういう「みっともない」ものを
市民の税金で建ててはいけない
良い見本である。






現在も城跡を語っているのは
この「天神曲輪跡」



道路に分断されているが、
土塁が少しばかり残っている。



享徳の乱の勃発により
古河公方・足利成氏は
1455年に深谷上杉氏の
城であった騎西城を攻略。

これが記録に残る
騎西城の初出である。



やがて忍城主・成田親泰の次男
助三郎が養子に迎えられて
騎西城主となったが、
その兄の長泰が上杉謙信に従うと
騎西城も上杉の傘下となった。



しかし永禄6年(1563年)
鎌倉の鶴岡八幡宮での
謙信の関東管領拝賀式の折、
長泰と助三郎は馬上姿で参列し
それを謙信にとがめられたのを契機に
上杉から離れて北条側へついてしまう。



そのため謙信の攻撃の的となり、
騎西城は落城。



1574年には謙信により
城下を焼き討ちにされている。



やがて徳川の時代になると
松平康重や大久保忠常らが
城主となるが、
1632年に城主の大久保忠職が
美濃へ移封し騎西城は廃城となった。

以上、お勉強はおしまい。



騎西城は石垣などはなく、
堀と土塁で築かれた平城である。



もちろん天守閣などもなかった。

 

むしろ関東の城では、

石垣も天守閣もないのが

ごく当たり前であった。


 

こちらの通りには
戦国時代の「障子掘」が
巡らされていた。




 



通りの角を曲がると
「御蔵屋敷跡」




 

そして偽天守閣へと戻る。

 

 

図書館の裏が「二の丸跡」




周囲を巡る。



本丸跡はどのあたりだろうか。





この堀(池?)もそれなりに
城跡の雰囲気を感じさせてはいる。



それともこれは錯覚で、

夕方の魔法のせいかもしれぬ。



 

いずれにせよ城跡は、
田んぼと住宅街に
飲み込まれているのだ。



ひと回りしてまた

天神曲輪跡の土塁まで

戻ってきた。



なんでもない街の通りに、

夕方の魔法がかけられていく。




旗を掲揚する公園のポールが、
風に揺れて微かに
カンカンと音を立てている。

その音があまりにも
良い音なので、
しばらく立ち止まって
耳を澄ませてみる。

風の音楽である。