加須へ 多賀谷神社、大福寺へ | はろはろはうすの<何を食べようか>

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夕べ何を食べたかも忘れてしまうオッサンの、気が向いたらの日記です。

6月5日

戸崎城址からしばらく
クルマで移動。

「多賀谷神社」

 



 

多賀谷氏は「吾妻鑑」にも
名が見られる鎌倉幕府の御家人である。




建久元年(1190年)11月7日
源頼朝が大軍を引き連れて上洛した折、
行列先陣の随兵の中に
多加谷小三郎の名がある。

また鎌倉4代将軍・藤原頼経の
上洛の際の随兵の中にも
多加谷の名が見える。




さらには正月行事の「御弓始め」で
「御的射手」を7回務めるなど、
弓の名手としても知られた
一族だったらしい。



足利尊氏の時代になると
結城氏の家来となり常陸国結城へ移る。


 

やがて鎌倉公方・足利成氏と対立する
関東管領の上杉憲忠を多賀谷高経らが襲撃し、
高経が憲忠の首級を挙げたことで

「享徳の大乱」が勃発する。

この功績により多賀谷氏は
足利成氏より下妻荘を安堵され、
下妻城を居城とした。

その多賀谷氏発祥の地が
ここである。

「大福寺」





ここが多賀谷氏の城館と
伝わるところである。





 


築かれた年代は明らかではないが
平安時代末期とみられている。



堀や土塁などは発掘されておらず、
現在も館の縄張りは不明である。



城の遺構は全く残っていないものの、
畑からひと段盛り上がった方形の境内は
当時の城館の雰囲気を今に伝えている。



 

 




境内には立派な板碑が
並んでいる。





 

こちらは鎌倉時代前期のもので

高さ191cm 。

 





これは武士の名前が刻まれた

交名(きょうみょう)板碑。

 

小長谷守立、西口源三郎などの

文字が読み取れる。




これらの板碑を見に来るだけでも、
ここを訪れる価値がある。







周囲を巡ってみた。





やがて下妻城主となった多賀谷氏は、
怒涛の如く領地を拡大していく。





小田原北条氏が関東に侵攻すると
多賀谷氏は最後まで抵抗した。





豊臣秀吉の小田原侵攻で
多賀谷重経は豊臣方に参陣。





重経は下妻六万石を安堵されるも
「文禄の役」には参陣せず、
秀吉の不興を買って
下妻城を没収されてしまう。



さらに関ヶ原の戦いでは
上杉景勝に通じたため、
重経は下妻を追放。

 

密かに下妻へ戻るも再び追われ、
浪人となって各地を放浪したのちに
近江彦根で病死。



そんなの波乱のドラマは、
全てここから始まっていったのである。