23:00を過ぎた大学。
ほとんど誰もいないパソコン室に一人の人間が入ってきた。
パソコンで大学の履修登録をしにきたようだ。
いきなり電話をかけはじめる。
「ラクに単位取れる授業は無い?」……
「あ、そっか。分かった。ではまた。」
そして、また電話をかけはじめる。
「単位取るのどれがラク?」・・・…
「俺が行く時間に事務が開いてないから、泊ってでも開けろって言ったら、
23:00過ぎてから行っても大丈夫だったぜ(注:事務室は基本的に17:00まで)」……
「よし、さんきゅ。また飲みに行こうぜ。」
5人ほど電話をかけて、楽そうな授業を見つけ出し、
無事履修登録が終わったようだ。

その人の目的(注:効率的な単位の取得)に照らして考えると、
たぶんこれが最も効率的な情報収集方法なのだろう。

知ってそうな人に、すぐ電話する。
それも、何人にも電話して、さっき聞いた情報のウラを取る。

情報収集の基本ではある・・・。

横江公美『第五の権力 アメリカのシンクタンク』 文春新書 2004年


アメリカのシンクタンク事情を紹介する本。

日本人がアメリカに行くと、

「シンクタンクジャンキー」(シンクタンクで働きたくなり、自ら作りたくなる)になってしまうほど、

アメリカにおいてシンクタンクが盛んである。(7頁)

具体的に、6大シンクタンクとして、

ヘリテージ財団・エンタープライズ公共政策研究所(AEI)・ブルッキングス研究所・

ケイトー研究所・外交問題評議会・CSIS

を紹介している。


一方、日本では、①「シンクタンクに資金を提供する大富豪や資産家が存在しない」、

「寄付という行為自体が一般的でない」ため、資金が潤沢ではなく、

②「ポリティカルアポイントメントが定着していない」ため、

人材供給源としての役割を期待されていないこと、

③「情報公開の遅れから、霞ヶ関以外で政策研究ができるような土壌が出来ていない」

という理由のため、シンクタンクの「影響力や認知度は高いとは言えない。」(222,223頁)


****

本書において興味深かったのは、シンクタンクが巨大化した理由として、

シンクタンク型ビジネスモデルの構築に成功したことを挙げている。(137頁)

シンクタンクの浮沈を握るのは「研究」「資金」「広報」「人材」であり、

これらを最大限に生かすような戦略が求められる。

資金集めの基礎となるのは、①「個人、企業からの寄付」②「財団からの研究に対する助成金」

③「委託研究、出版、会場の貸し出しといった商売(141頁)がある。

たとえば、寄付を集めるために、会員を募る。

そして、会員特典として、ニューズレターの受け取り、

レポートの購読、会議(イベント)への参加がある。

特別会員となると、さらに特典が増える。まるでFCビジネスのようだ。

また、助成金を勝ち取るには、今後重要となる政策課題を見極め、

積極的に研究していくことが必要となる。

変わったビジネスとしては、研究員としての受け入れがある。

すなわち、外部の企業・政府の人材を、一定の派遣料をもらい(年間4万ドル:2004年)、

その代わりに、シンクタンクの中に、席を用意するのである。

アメリカの政策の中枢にかかわりを持ちたい企業・外国政府にとっては

大きなメリットとなるそうだ。(155頁)

以上の基礎となるシンクタンク自体の評判を高めるために、

マスメディアに取り上げられる、提言内容が政策に反映されることも重要である。


このようなビジネス化に対して、企業や政権に対する単なる迎合との批判はあるが、

政策形成の上で、一定の理論的な裏づけ等は必要であり、最終的な判断は国会議員、

ひいては選挙を通じて国民がなすことであるので、多少は色がついた政策になってしまうのは

やむをえないのではないだろうか。必要となってくるのは、シンクタンクに対するリテラシーを持つことであり、

既得権を新たに得るため、守るための政策など、バランスの取れていない政策が出てきたときに、

しっかりと、根拠をもって議論できるような土壌が重要なのではないだろうか。

日本においても、「シンクタンク」という、高度に知的で、外部からの客観的な機関が

成長することを期待する。


(実現は難しいだろうが、知識層・財界が積極的にシンクタンクを作ること、個人レベルでも

シンクタンクの重要性を認識し、寄付等が集まりやすい環境を作ることが重要なのではないかと考える。)

駅で電車を待っていた。
おばあさん二人がうろうろしていた。
様子を見ていると、
反対方向のホームに行きたいけども、
どうやっていったらいいのか分からないようだ。
その駅は、やや特殊な構造になっていて、
一回改札を出ないと、反対ホームにいけない。
案内板はあるものの、「反対ホーム→」
という表示で、「→」がどこを指しているのか、
大まかな方向しか分からない。
だから、迷う人もたくさんいる。

おばあさんは相変わらずうろうろしていた。
僕は、どうしたらよいか知っていた。
うろうろして、目の前を通り過ぎていった。
僕はただ見ているだけだった。
おばあさんは特に困っていた様子はなかった。
ただ、うろうろしているだけだった。
あえて声をかける必要はなかった。
でも、もし自分がほんの少し、声をかければ、
すぐにどうすればよいかが分かったはずだ。
声をかけたほうが良かったんじゃないか。
ちょっとそんな罪悪感を感じた。
電車に乗っても、二人はうろうろしていた。

昔、学校の教科書に載っていた詩を思い出した。
電車で、お年寄りの人がいるのに気づいたけども、
席を譲ろうと思ったけども、
どうしても声をかける勇気がなくて、
そのままずっと座っている、気まずいまま
ずっとその場から動けない…
そんな詩を思い出した。

ちょっとしたことなのに、どうして勇気が出ないのだろう?
相手に迷惑に思われるかもしれない、偽善でやっているのかもしれない、
いろんな気持ちが駆け巡る。
そうなると、もう動くことは出来ない。
ただ口から声を出すだけであっても。

いつの日か、勇気を持つことができるのだろうか?
石井光太『物乞う仏陀』 文芸春秋 2005年

友達から紹介された本。
「物乞い」、「障がい者」に焦点を当て、
東南アジア、南アジアでの取材を、
国ごとにまとめた本。

こういう本を読むとき、
著者の考え方に、はまり込み過ぎない
ということを強く心がけている。

多くのことを捨象した上で、
伝えたいメッセージを伝えるため、
ひとつのストーリーを紡ぎあげている。

著者は「多くの人々の生き様をそのまま描写しようと努めた」(262頁)
としているが、”生活のために物乞いをしないといけない、
このような現状には、何らかの事情があり、誰かが悪いわけではない”
というメッセージがこめられていると感じた。

それを踏まえた上で、そのメッセージに誘導されずに、
この本を読んだ上で、どう感じたか、どうしようと思ったかが重要だ。

私はこう感じた。
人は現状を受け入れた上で、生きている。
その現状がどうであれ、外からああしたほうがいい、こうしたほうがいいなんて
思うべきではない。同情なんてすべきではない。
少なくとも、本を読んで理解したつもりになるのではなく、
ちゃんと現地に行って、自分の目で確かめることが大事だ。
その上で、もし何らかの関わりを持とうとするならば、全部の責任を負う覚悟で、
中途半端にすべきではないのではないか。
現地の人たちで生きていくシステムがもう作り上げられているのだから。
そう思う。頭の中ではそう思う。
でも、もし目の前に1ドルを必要としている人がいたら?
その1ドルで病院に行けたり、食事をしたり…。
また、井戸を作ったり、病院を作ることでも多くの人が助かる。
たとえ全部に責任が持てないとしても。

結局は、完全に関わるか、全く関わらないか。
その両極端な考えは、現実には正しくないのだろう。
出来ることを少しずつやるというのが、正解なのかもしれない。
でも、自分のやることがどういう意味を持っているのかは
常に自問自答し続けなければならないだろう。

印象に残った記述:
ネパールにおける呪術師であるザグリが悪魔祓いの後、
「つらかっただろう、もうすぐ痛みは去るからな」と言った。
これに対する著者のコメント。

「こうした言葉は普通に生きていてもでてくるものではない。
いつも他人の不安や恐怖について考え
同情していなければ思い浮かばない言葉だ。」


何気ない記述だが、これは意外と大きい。
呪術師にとっては何気ない一言で、
言葉自体はすぐに思いつく言葉だ。
しかし、これをちゃんと言葉にして言えるということは、
普段からそういう意識をもっていないと言えない。
何気ない言葉に、実はその人の凄さが凝縮されている。
「その人」というのは、結局は普段からの積み重ねだ。
普段考えていないことは言えない。


ちなみに、著者の石井氏のHPはこちら
昨今の厳しい財政状況を踏まえ、支出の厳しい切り詰めが行われている。
本来なら、収入の増加をもくろむべきだが、この時期に予算増のための措置を
行うことは困難だ。中長期的な課題である。

歳出削減の一環として、「お弁当」が提案された。
出来る限り、家にある食材を使うことで、
食費を浮かせる、仮に1日500円として、1ケ月で1万以上の削減になる。
これは見逃す手は無い。

そういうわけで、さっそくお弁当を作ってみた。
ごはんをつめて、残り物を入れるだけ。
わずか5分で完成。
諸般の事情で、晩御飯になってしまったが、
うまい!!
すっかり冷たくなってるけど、手作りは違う。
愛情がいっぱい詰まってます。自分から自分への愛情が(笑)

作ってみて思ったのは、
あんまり量が入らないということ。
これでたくさんのオカズをつめるのは大変だろうな。
でも、これから、家庭をもったときのために、
少しずつ覚えていかなきゃ。
家事は分担していかないといけないし、
お互い気遣えないと良い家庭は持てないだろうから。
将来をもっと設計しなきゃ。

以上、本日の日記でした。