やっぱりお母さん<前編>
以前、テレビで観た人生相談。
相談者は20代の女性。
離婚したお兄さんが、子供二人を連れて実家に戻り、
両親や妹である相談者と一緒に暮らしているという。
別れた奥さんと子供たちは、たまに面会するが、
母親代わりになって子供たちの面倒を見ている相談者は、
それが子供たちのためにならないと話す。
相談者曰く。
子供たちの母親はろくにご飯を作らず、
子供たちにカップラーメンばかり食べさせていた。
さらに曰く。
子供たちの母親は、生活費を稼ぐために
「お持ち帰り」されるのを仕事にしているらしい。
結論。
こういう母親に関わるのは、子供たちの教育上
良くないから会わせたくない。
なるほど。
相談者の言い分はよく分かる。
でも。
相談者が語った、母親と子供たちの面会の様子を聞いて、
私は何ともいたたまれない気持ちになった。
久し振りに子供たちに会える面会の日。
何を買っていこう。
そうだ。子供たちが大喜びしそうなものがいい。
普段は一緒にいられないんだし、その分、インパクトのあるものを買おう。
子供たちが、次の面会を待ち遠しいと思うくらいの。
お土産は、子供たちが欲しがりそうなおもちゃにしよう。
きっと子供たちは、大きな笑顔を見せて喜んでくれる。
普通なら、こんなことを考えないだろうか...?
でも、このお母さんは違ったらしい。
面会の日。
お母さんが持ってくるのは、子供たちの靴や下着なのだという。
確かに。
「靴下、買ってきたよ。」
こう言うと、それが靴下一足だろうが、パンツ一枚だろうが
「自分のために買ってきてくれた」と子供たちは喜んでくれるものだ。
私にも覚えがある。
それでもやっぱり、下着や靴下は生活必需品であって、
小さな子供たちに面会で渡すお土産としては
どうしても華やかさに欠けるし、特別感もないように思う。
でも、子育てとはそういうものだ。
誕生日もクリスマスも年に1回。
子供たちが飛び上がって喜びそうなイベントも、せいぜい年に数回。
大抵の日々は、昨日と同じ今日が淡々と繰り返されて過ぎていく。
毎日が子供受けするお祭りというわけにはいかない。
本来、とても地味なものだ。
私には、そのお母さんの気持ちが、何となくわかるような気がした。
子育てをしていると、子供の成長を目の当たりにする
機会はたくさんあるが、中でも、一番具体的にそのことを
実感するのは、子供が身につけるものを買う時だ。
「生まれた時は80cmの服着てたのに、もう110cmか...」
「13cmの靴がもう小さくなったか... 新しい靴買わないと。」
「お。150cmのジャケット安くなってる。来年用に買っておこう。」
子供たちが段々と大きくなっていく様子が、
文字通り、手に取って分かる。
もしかしたら、そのお母さんには、子供たちが喜ぶような
おもちゃを買うお金がなくて、代わりに下着や靴を買ったのかもしれない。
でも、たとえ小さくても、下着や靴を買うくらいの
金額で買えるおもちゃだってある。
リサイクルショップで安く買うこともできる。
おもちゃを持って行こうと思えば、
持って行けないはずはないと思うのだ。
でも、実際に子供たちの毎日の生活に欠かせないのは、
おもちゃよりも衣服や下着、靴などの身の回りの物の方だ。
裸のまま、おもちゃで遊ばせておくわけにはいかない。
それに、おもちゃだと飽きられて放り出されてしまうかもしれないが、
身につけるものなら、毎日必ず子供たちの生活に関わることができる。
「これは、お母さんが買ってくれた靴だ。」
靴を履く度に、きっと子供たちはお母さんのことを思い出す。
「これは、お母さんが買ってくれたシャツだ。」
シャツを着る度に、きっと子供たちはお母さんのことを思い出す。
だから、おもちゃじゃなくて、靴や下着だったんじゃないだろうか。
これが、そのお母さんの精一杯の子育てだったんじゃないだろうか。
たぶん。
このお母さんは「一般的なお母さん」とは違うのだろう。
子供たちのことを考えたら、このお母さんと子供たちが
一緒に暮らすのは良くないことだったのかもしれない。
お父さんが子供たちを引き取ることになったのにも、
それなりの理由があったのだろう。
それでも、やっぱりお母さんなのだ。
子供たちのご飯がカップラーメンでも。
どんな仕事をしていても。
世の中には、お母さんの数だけ子育ての形があるんだな...
まだ目の開かない赤ちゃんたちを、一生懸命舐めている
チェリーを見ながら、私はこう思った。

チェリーの赤ちゃん。5匹みんなで団子になって寝るの図。
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