去年の秋頃からだっただろうか。
うちの周りに、トラジマの猫が居つくようになった。
その年の元旦まで、うちには他の猫が居ついていたが、
お正月の二日目から、ぱったりと姿を見せなくなってしまった。
“ぽちこう”と呼んでいたそのオス猫がいた時分は、
うちの周りで他の猫をまったく見かけなかった。
もちろん、ぽちこうが自分の縄張りを守っていたからだ。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
ボイスチェンジャーを通したような、甲高い機械みたいな声。
まるで刑事ドラマの誘拐犯みたいだと思うが、決して笑ってはいけない。
ぽちこうさんは、自分の生活とテリトリーを守ろうと必死なのですから。
その誘拐犯ボイスを駆使しつつ、同時に低くも唸る。
そうやって他の猫を威嚇して近寄せなかったのだが、
ぽちこうの姿がぱったりと見えなくなってからしばらくすると、
他の猫がうちの周りにやって来るようになった。
チェリーは、その中の一匹だった。
他の猫は、うちの周りをうろついていても、私の姿を見ると逃げて行ったが、
今ではチェリーと呼んでいるその猫は、逃げるどころか
玄関横の植木の辺りから顔を出して、親しげに挨拶をする。
「ちょっと... かわいいじゃないの?」
始めの頃は、他の猫がうちの周りにいるのを見ると、
「やっぱり、ぽちさんはいなくなったんだな...」
しみじみこう実感して寂しかったが、
ニューカマーは、こちらのそんな気持ちを知るはずもない。
若さにまかせて、ブイブイいわせてくる。
毎日何度もご機嫌にご挨拶。ここにいますよアピール。
まるで選挙のようだった。
そのうち、台所の勝手口から侵入。
ぽちさんのためにと買ってあったご飯を一度あげたら、あとはもうなし崩し。
一度関係を持ってしまうと、その既成事実から逃れることはできなかった。
ぽちさんのご飯が切れても、チェリーさんには無関係。
責任を取れと、毎日何度も勝手口に押しかけてくる。
「あれはなんだったのよ? 夢見させるだけ見させて、ひどいじゃない!
手を出したのはあんたでしょ!? 一体どうしてくれるのよ!?」
こう迫ってくる。
チェリーさんのその情熱。気迫。
全身から発する、あたしの人生(いや猫生か?)がかかってるのよオーラ。
私には、抗うことなど到底無理だった。
こうしてチェリーは我が家に出入りするようになったのだが、
そのチェリーが、昨日の朝うちで出産した。
お腹が大きかったから、そろそろ産まれてくるだろうとは思っていたが、
まさかうちの中で産むとは...!
新学期が始まった小学生の次男と長女を送り出したのが7時頃。
7時前、小学生組がご飯を食べている時は、いつもと変わりない様子だった。
よくそうするように、ご飯を食べている次男の膝の上に座って大人しくしていた。
その後、まだ春休みだけど部活がある高校生の長男が起き出して来て、
朝ごはんを食べ終わったのが7時半頃。
その前後のことだった。
何やらチェリーの様子がおかしい。挙動不審だ。
台所と居間をウロウロしながら、たまに低く唸る。
同じ哺乳類で経産婦の私は、
「こりゃ、もしや...?」
こう思ってチェリーを観察してみると、お尻の辺りから出血している。
いわゆる、“おしるし” だろう。
「ああ。こりゃ間違いないわ。チェリーちゃん出産やわ。」
長男にこう話していると、
「断末魔断末魔断末魔断末魔断末魔断末魔断末魔ー!!!」
ひと叫びではあったが、チェリーが聞くに堪えない叫び声を上げた。
そんな痛々しい声を聞くと、どういうわけだか
私は自分がチェリーを苛めているような気持ちになって、
「チェリーちゃん、ごめんなさい!」
思わず、こう叫びそうになる。
私は恐怖を感じた。
ああ思い出す。あの時々を。
私も経験者だ。
そして、恐怖はすぐに共感に変わった。
同じ戦場で戦う同志に芽生える連帯感のようなものが、
沸々と湧き上がってくる。
「チェリーちゃん、分かるわ! ひとりじゃないよ! 頑張れー!!」
私はもう涙が出そうだった。
台所で、自分の尻尾を追いかけるようにクルクル回りながら、
チェリーは出産という大修羅場を、精一杯の力でくぐり抜けようとしていた。
猫はこうやって出産の痛みに耐えるんだろうか...?
猫にとっては、これが陣痛でのたうち回るってことなんだろうか...?
猫の出産に立ち会うのが初めてだった私は、とても感心した。
のたうち回るにしても、なんと機敏な。さすがは猫だ。
しばらくクルクル回った後、チェリーは無事に出産したようだった。
傍らで見ている分には、安産だったように見えた。
チェリーはすぐさま赤ちゃんを連れて、台所の隅にある
棚と壁の隙間に、隠れるように籠り始めた。
ミャーミャーと泣く赤ちゃんの声が聞こえてくる。
驚かさないようにそっと覗いてみると、ママと同じトラジマの
小さな赤ちゃんが、ちょこちょこと動いているのが見えた。
お。一匹だ。あれ。猫って多産じゃなかったっけ...?
「偉いねえ。チェリーちゃん。よく頑張ったね。」
赤ちゃんの数のことはともかく、心からそう思った。
だって、猫には妊婦検診も超音波検査もなければ、猫に直接訊ねる術はないが、
きっと、先輩ママに教わるプレママ講座なんてものもないんじゃないだろうか。
いざ出産となっても、助産師さんの付き添いもなければ、
子供たちの父親の立ち会いもない。
それでも、ちゃんと産むのだ。
全部ひとりで引き受けるのだ。
もし現代の人間が同じ状況に置かれたとしたら、
一体どれだけの人が耐えられるだろう。
チェリーさん。かわいいだけじゃないのね。
何と腹と肝っ玉のすわった、すごい女なんだろう。
同じ女として、私はチェリーを尊敬せずにはいられなかった。
台所でお籠りするチェリー親子の様子を時折伺いながら
私がこたつに座ってこの記事を書いている真っ最中のこと。
チェリーが赤ちゃんを口に咥えて、こっち目がけて突進してくる...!
ものすごい勢いで。ただならぬ気迫で。
一体どうしたんだ。
不動明王にでも憑りつかれたのか...?
喰われる...!
一瞬、私は本気でこう思った。
そのくらい、あの時のチェリーには鬼気迫るものがあった。
ところが。
恐怖でフリーズしている私を尻目に、赤ちゃんを咥えたチェリーは
私など完全にスルーして、スタスタとこたつの中へ潜っていった。
これには驚いた。
チェリーは今まで、真冬でも、こたつに入ったことは
一度もなかったからだ。
暖かいのは分かっていても、暗くて狭い場所は
閉じ込められるようで怖かったんじゃないだろうか。
でも、赤ちゃんが生まれた以上、もう怖がっている
場合じゃないと思ったのだろう。
きっと覚悟を決めたのだ。
どんなに怖くても、もうこうなった以上、
大丈夫だと信じるしかない。
こたつのことも。このうちの人たちのことも。
赤ちゃんを暖めなければいけない。
私が守っていかなければならない。
その覚悟の表れが、あの鬼気迫る
こたつへのマーチだったんじゃないだろうか。
「はあ。チェリーちゃん。偉いねえ。」
咥えていた赤ちゃんをこたつの真ん中で
寝かせると、チェリーもそばで眠り始めた。
母は強し。やっぱりお母さんね。
こう思った瞬間、私はふとあることを思い出した。

チェリーちゃん。ジュニアの皆さん。お疲れ様!
応援してくださってるあなた!





