転院先の病院に着くと、義姉とタクシーを降りて、
1階にある緊急外来へ向かった。
ここで師匠の名前を告げ、どこにいるのかを
教えてもらうらしいのだが、どうやら、
すぐにというわけにはいかないようだ。
受付のすぐ前のソファで
待つことにした。
辺りを見渡してみると、
たくさんの人がいることに気づく。
病院というところには、
いつも驚くほどたくさんの人がいる。
日本も台湾も、それは同じだ。
この人たちは、どこか悪いんだろうか。
それとも、私のように
患者の家族なんだろうか...
こんなことを考えていると、
若い男の人が入ってきた。
でも、受付に行くわけでも、
ソファに座るわけでもなく、
ただ、その場にうずくまったまま、
下を向いている。
患者の家族というわけでもなさそうだ。
しばらくすると、その男の人の周りいた人たちが、
それとなくその場から離れて行く。
理由は、私にもすぐに分かった。
そのお兄さんの体が、
悪臭を放っていたせいだ。
その臭いはきっと、具合の悪さからくるものではなく、
ずっと入浴していないせいだと思った。
こんな若いお兄さんが、一体どうして
お風呂に入らないような生活をしてるんだろう...
どこか具合が悪くて、
ここに来たんじゃないんだろうか。
だとしたら、どうして
受付に行かないんだろう。
もしかしたら、支払いのことが
心配で受付に行けないんだろうか。
この人にも家族がいるだろうに。
それとも、頼れる家族が誰もいなくて、
あるいは家族の誰にも言えなくて、
ここに一人でうずくまっているんだろうか...?
見たところ、せいぜい20代前半くらいだ。
そのお兄さんに何があったのかは分からないし、
大きなお世話なのかもしれないが、
お気の毒に思った。
そして、気の毒な状況なのは
私の師匠も同じだ。
滅入っているわけにはいかない。
私は、ここでもう一度、
気持ちを引き締め直した。
受付の方をじっと見ながら、
呼ばれるのを待つ。
待っている間に、
義妹のバオメイも来てくれた。
どのくらい時間が経っただろうか。
とうとう受付に呼ばれ、
師匠のいる場所が分かった。
エレベーターに乗って向かった先は、
ここでもICUだ。
インターフォン越しに、中にいる
患者の家族であることを告げる。
ドアを入ってまっすぐ行った突き当りに、
師匠は横たわっていた。
ベッドの番号は15。
とても縁起のいい数字だ。
これは幸先のいい証拠に違いない。
先生はきっと良くなる。
すぐに担当医がやってきた。
とても若いドクターだ。
30歳に届くかどうか
くらいじゃないだろうか。
私たちは、ICU内に置かれた
テーブル席に腰かけて話をした。
転院前の病院に比べて、この病院のICUは
倍くらいの広さはあるように思った。
「義妹の話では、変わった様子が何もないと
いうことだったのに、夫は敗血症に罹ってるじゃないですか。
これは一体どういうことなんですか!?」
「ドクター。これがもし自分の父親だったら、どう思います?
腹が立ちませんか!?」
怒りに任せ、私はまくし立てた。
今から思えば、このドクターには
申し訳ないことをしたと思う。
この人は、担当医になったばかりなのだ。
「どうします.....? ご主人を日本まで転送しますか?」
ドクターは視線を落とし、
半ば俯きながら、こう言った。
何だと...? この野郎!
「あんなに弱った体で、飛行機に乗せられるわけないでしょ!?」
しまいにぶちのめすぞ。
このこわっぱが!
あの時は、とにかく腹が立っていた。
ドクターと名前のつく人に、
怒りをぶちまけなければ気が済まなかった。
今なら分かる。
あの時、ドクターがああ言ったのも
無理はなかった。
着任早々、患者の家族に
あれだけわめき散らされたんじゃ、
厄介払いしたくなるのも当然だろう。
話し合いの末。
とにかく今は、体中に細菌が蔓延して
パンパンに膨れ上がってしまった
師匠の体を何とかするのが
先決だという結論に至った。
健康な時なら、それが特殊なものでもない限り、
体内に細菌が入ってきても、
体の中の細胞がやっつけてくれる。
本来、人間には、自分の体にとって
害になる存在と闘う抵抗力と、
病気に対する自然治癒力が備わっている。
だからこそ、通常、人間は風邪を
引いたくらいで死んだりはしない。
大騒ぎする必要もない。
よく寝てちゃんと食べれば、
自然に治る。
でも、今の先生はそれができない。
その当たり前のことができないのだ。
入院してから1ヶ月。
先生が摂っているのは、口から体内へと
通されたチューブから流れる栄養剤だけだ。
とても食事とは言えない。
抵抗力などつくはずもない。
ああ。せめて。
先生に意識があって、自分の口でちゃんと
ご飯を食べられたら、敗血症にならずに
済んだんじゃないだろうか...
先生。お願いです。
お願いだから、目を開けてください。
この時ほど、こう願ったことはない。
これほど悔しいと思ったこともない。
師匠の体に、抗生物質の投与が始まった。

