親亡き後のことについて⑤ -その後- | ハレノヒ日記 〜発達障害児のモンテッソーリ教育〜

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口唇口蓋裂、高機能自閉症の娘を通じて出会ったモンテッソーリ教育や、日常のつぶやきです。

最近は日常の生活に追われ、こちらの更新も超ゆっくりペースになっています。
長女の進学や次女の事、支援級での日々や口唇口蓋裂関連など、ここ数年で溜まったネタはまだまだたくさんあるので、時系列に抜けているところなども整理しながら追加していきたいと思っています。

 

ということで、前回(なんと1年経っていましたね・・・)続きものとしてアップした、障害のある子を持つ親にとって避けて通れない課題『親亡き後のことについて』。


今年の夏に、この話に出てくる親の立場であった祖母が亡くなりました。

49日も終わりましたので、一つの区切りとしてその後の話をアップしシリーズを完結いたします。

 

 

【前回までの話はこちらから】

 

 

 


 

障害を持つ叔父と祖母の2人だけの生活。
 

それから静かで長い長い月日が流れ、今後のことについてどうするかを親族で話をしようとしていた矢先に、叔父は事故で親より先に亡くなりました。
 

祖母は叔父亡き後もしばらく一人暮らしを続けていたものの、心の何処かでずっと張っていた緊張の糸が切れたのか、一気に持病が悪化したため、その後介護施設に入所しました。施設は常に入所者へのケアが行き届いていることもあり、体調はすっかり良くなり穏やかな日々を過ごしていました。

私たちも帰省のたびに施設を訪問しては元気な祖母と会い、思い出話やたわいもない話をしていました。

 

そこにきてのコロナ禍。

介護施設は面会は禁止となり、リモート面会できる設備もなかったため、直接会えなくなってからは電話越しに会話をしていました。

 

 

数年経ち、コロナと共生する社会様式も整いつつあり、面会ももう少ししたらできるようになるかもしれない。

そんな期待を持って私たちも過ごしていました。

 

そんな今年の夏のことです。
日本はここ数年、豪雨による災害が増え、連日被災地の情報が流れていました。

 

ある日のニュースで流れた映像は、帰省のたびに訪れていた見覚えのある街並の店の看板。

しかし見えるのは建物の一部のみで、そこから下は洪水で濁った水に覆われている光景でした。。。
祖母の住む地域は、今年の豪雨で河川が氾濫し洪水の被害を受けてしまいました。

 

親族に連絡をしたところ、祖母の暮らす施設が災害地域にあり、施設から地元の避難所に入居者は避難したとのこと。

その時は祖母は元気にしていると聞いたので、安全に避難できたことを知りほっとしました。

 

 

安否確認ができてからしばらくして、今度は親族の方から連絡が来ました。

祖母が避難所から施設に戻った後に発熱し、そのまま施設の中で亡くなったと。

 

祖母は一人暮らしの頃は、何度か体調が悪化し入院したことがあるのですが、

病院から「ここ数日が山なので親族を呼ぶように」と連絡が来るものの、

そこから持ち直して毎回元気になって戻ってきました。

 

今回も持ち前の気力で一旦は意識を取り戻したそうなのですが、

再び意識を失ってからは目を覚ますことはありませんでした。

 

 

私たち家族も田舎に行き、祖母に対面し最後の挨拶をすることが出来ました。
コロナ禍からの日常が戻ることを願いながら面会制限を乗り越えようとしていたのに、

数年ぶりに直接会えたのが、結局亡くなった後の葬儀の席だったというとても皮肉な結果となりました。

 

災害での環境変化が、体調変化に繋がったのかは今となってはわかりません。

しかし、祖母は90代を越えていたので、これが天命だったのだなと思います。

 

 

葬儀の準備で用意するものを取りに行くため、数年ぶりに祖母の自宅の中に入りました。

主人のいなくなった家は想像以上に損傷が激しく、もう住むことができない状態になっていましたが、

茶の間や台所、お風呂場、そして祖母の寝室だった部屋は、祖母が住んでいたままの状態で、

壁には孫やひ孫たちの写真が貼られ、ハンガーにかかったままの上着、帰省した際に祖母に頼まれてあつらえた物、誰かが忘れていったおもちゃなどがそのままになっていました。

 

2階には足を踏み入れていませんが、きっと叔父の部屋のものもそのままになっているのだと思います。

 

 

「婆さんのことを、誰が迎えに来てくれたのかな。おじいさんや〇〇(叔父)には会えたのかな」

できたばかりの祖母の遺影を持つ親族と一緒に仏間に入った時、

そこに飾ってある叔父や祖父の写真を見て夫が呟きました。

 

 

東京に戻り、後継ぎのいない祖母の家はもう誰も住むこともなく、一つの家の歴史が終わったのだというのが実感として湧いてきた一方で、「田舎のあの家で祖母と叔父の2人はいつもと同じ静かな日々を過ごしている」そんか奇妙な感じにも包まれています。

 

あの家が実際になくなるまでは、きっとその気持ちは変わらない。そんな感じがするのです。

 

 

 

中学3年になった長女は、いよいよ進学に向けて決断の時期を迎えました。

 

昔であれば、農家など家業がある家は家の仕事を手伝い、そのまま一生を過ごすという選択ができた人も多かったのかと思います。

しかし、現在は支援級にいる子どもたちの大多数は、家庭以外の企業や事業所に就業という将来のゴールに向けた進学先を選ぶ必要があります。

 

 

障害への配慮と就労支援は手厚いが選択肢は多くない支援学校に進むか、

通常と同じ土俵で勝負する必要はあるけれども、選択肢が広がる高校への進学か。

 

誰に相談しても

「娘さんのような状態の子が一番難しい。将来のことをよくよく考えて決めてください」

と言われ、私たちもなかなか答えが出せず、とてもとても悩みました。

 

 

そのような中で長女と一緒に色々な学校を調べて見学していくうち、進学後の色々な現実も知ることができたのですが、

「子どもの人生はまだまだ長い。回り道をしながらでもいいから、まずは本人の希望に近づける可能性のある選択肢に向けてサポートするのが親の役目なのかな」と感じるようになりました。

 

それでうまくいかなくても他の道が見つかれば結果オーライだと思うので、

まずはやりたいことに向けてチャレンジしてほしい。

 

今はそう思っています。