心にはおのずと何かしら言葉が浮かぶのかもしれません。
悲しい時には慰めや励まし、驕り高ぶっている時は戒めの言葉だったりするのでしょう。
今回、私は劣等感のひとつになっている言葉と向き合って、自分の考えを整理してみました。
『お前は、能力がない』
ある時、私はこう叱責されました。
周りの人たちは気にすることないと慰めてくれましたが、とてもショックでした。
思い返せば、その頃の私は上司を信頼して、仕事に真剣に取り組み始めた最中でした。
だからこそ、なおさらその言葉を真(ま)に受けてしまったのかなと思います。
はなからその上司を信用せずに仕事もいい加減なら、こんなにもショックは大きくなかったでしょう。
ダメージの大きさというものは、取り組んでいることへの真剣さ、発言した人との信頼関係など、状況や立場が大きく関係しているのではないかと思います。
ですから、もし傷ついた人がいれば、心が繊細だと安易に考えないで、状況を察してあげることが出来ればいいなと思うのです。
この出来事から10数年という時を経ているにもかかわらず、私はいまだに『お前は、能力がない』という言葉が心にくすぶっているので、その場面をイメージしてみました。
すると、何かに挑戦するものの、うまくいかない時に浮かぶことが分りました。
いつしかそれは、「能力がないからこれ以上出来ない」という言い訳になっていたのです。
これからは、簡単にあきらめず少し先へ進めそうです。
解ってみると、これまでどうして気づかなかったのだろうと不思議でなりません。
原因は自分を省みることを怠ったからに他ならないのですが。
★2017年5月22日追記
上のようなネガティヴな言葉だけでなく、私たちは日々さまざまな観念を知らず知らずに取り込んでしまっています。例えば、「諦めなければ夢は叶う」「自己責任」など一見何でもないような言葉も裏を返すと、「諦めるから夢は叶わない、思い通りにいかない」「社会の責任はない」など、これらの逆説は短絡的で極論ですが、このような観念までも取り込んでしまっている可能性があります。
では、このようなくすぶっている観念や言葉をどのように取り除けばよいのでしょうか。
それは、恐らく先入観を棄ててありのまま物を見ることでしょう。しかし、これほど難しいことはありません。その、ありのまま見ることに関して、参考になるHPとブログを記しておきたいと思います。
【本居宣長研究ノート「大和心とは」】
とりわけ、こちらの第六回と第九回に私にとってポイントとなったことが記されておりました。勝手ながら抜粋させていただきます。
・・この「情」によってこそ、「理の世界」に先立つ「事の世界」、すなわち人間のさかしらによって作られた理念や観念による虚構世界から、「物」「事」が「物」「事」として独自に在るという奇異(くすしあやし)き存在の世界、すなわち真実の世界に、初めて足を踏み入れることができる・・
本居宣長研究ノート「大和心とは」本論 : 第六回「奇異(くすしあやし)さ」の巻
・・・「もののあはれ」は、私たちが想像するような、人間の感情の一種ではなく、「物」が「物」、「事」が「事」としてあることの裡に相即して、この世のありとあらゆる物や事に、その固有な存在様式として、あらかじめ遍在しているものなのです。つまり、「もののあはれ」は、人間の情感に先行して存在している・・・
本居宣長研究ノート「大和心とは」本論 : 第九回「もののあはれ」の巻
心よりも先行して「物」や「事」が在る・動く、その「物」「事」に触れて心が動くのだということをしっかりと認識したいと思います。私たちは、「物」や「事」を予め自分の持っている概念や観念の枠にあてはめて見る癖がついてしまっている、それがいかに多いかを自覚し、これからは「物」や「事」をそのまま受容する時間を出来るだけ意識して持ちたいです。詳しい説明や具体的に観念や概念を取り払う方法が、これらのブログに記されています。これから少しずつ実践していきたいです。
「もののあはれ」を知るには?(その二)
自民党憲法改正草案を少し読みました。
現行憲法と改正草案のどちらの方が時代が古いか見間違えるような違和感を感じる箇所が数多くありました。
その中で気になったもののひとつ第十九条を挙げてみたいと思います。
現行憲法
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
改正草案
「思想及び良心の自由は、保障する」
「侵してはならない」と「保障する」
この違いはどこにあるか考えてみました。
「これを侵してはならない」
「保障する」よりも強い表現で、これに隠れている言葉はなんぴと(何人)もということだと思います。
政府であっても侵してはならないし、国民お互いがお互いをも少したりとも侵してはならないということだと思います。
一方、「保障する」
これの主体もしくは主語は政府(国家)なのかなと考えます。
イメージとしてこれを握っているのは政府(国家)であって、保障してあげましょうみたいな感じを受けるのは私だけでしょうか。
現行憲法のままではどのような不都合があって変えようとするのか、その意図を推量することで改正(改悪)しようとする人たちの考えが見えてくるのだと思います。
良心とは自己のおこないに対して善悪正邪の判断を下し悪をおさえる心のはたらきを意味するのだそうです。
思想と共に個々の心に内在するもので、そもそも「保障する」は日本語としてもおかしいのではないかと思います。
無知で見識のない私がこの問題について述べるのは僭越という気持ちがよぎりましたが、このような私だからこそ考えたり意見することが大切なのかなと思っています。
そういう意味でも、私は、第十九条は「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」でなければならないと思いますし、今回改めて現行憲法の大切な部分を確認した気がしました。
現行憲法と改正草案のどちらの方が時代が古いか見間違えるような違和感を感じる箇所が数多くありました。
その中で気になったもののひとつ第十九条を挙げてみたいと思います。
現行憲法
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」
改正草案
「思想及び良心の自由は、保障する」
「侵してはならない」と「保障する」
この違いはどこにあるか考えてみました。
「これを侵してはならない」
「保障する」よりも強い表現で、これに隠れている言葉はなんぴと(何人)もということだと思います。
政府であっても侵してはならないし、国民お互いがお互いをも少したりとも侵してはならないということだと思います。
一方、「保障する」
これの主体もしくは主語は政府(国家)なのかなと考えます。
イメージとしてこれを握っているのは政府(国家)であって、保障してあげましょうみたいな感じを受けるのは私だけでしょうか。
現行憲法のままではどのような不都合があって変えようとするのか、その意図を推量することで改正(改悪)しようとする人たちの考えが見えてくるのだと思います。
良心とは自己のおこないに対して善悪正邪の判断を下し悪をおさえる心のはたらきを意味するのだそうです。
思想と共に個々の心に内在するもので、そもそも「保障する」は日本語としてもおかしいのではないかと思います。
無知で見識のない私がこの問題について述べるのは僭越という気持ちがよぎりましたが、このような私だからこそ考えたり意見することが大切なのかなと思っています。
そういう意味でも、私は、第十九条は「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」でなければならないと思いますし、今回改めて現行憲法の大切な部分を確認した気がしました。
『・・・つまり、怠惰であるために二倍もの、
虚栄心を持つために三倍もの、
愚かであるために四倍もの税金を背負っておるのです。・・』
※引用=フランクリン自伝(富に至る道 p.273)
ここでの税金とは私たちが知らず知らずに支払う金銭や労力のことだと思われます。
愚かさゆえの余分な支払いで思い当たるのは、何か体に良い食品があると聞けば、すぐに飛びついて長続きせず、結局浪費に終わるのが顕著な例でしょう。
でも、なぜ愚かなことが怠惰よりも虚栄心よりも多額のお金を支払わなければならないか疑問でした。
そこで、『愚か』ということばの意味を考えてみました。
愚かとは、単に知識や理解力の欠如ではなく、
知ろうとしないこと、知ろうとしない姿勢であり
一面だけを見て、現実をありのまま認識せず
風説や権威ある人の言葉を鵜呑みにしてしまう
さらに、内容に誤りがないか整合性を確かめず
忠告に耳を傾けず、自己を省みず失敗を繰り返す
このようなことだろうと思います。
フランクリンが意図して『愚か』を四倍にしたかどうかは不明ですが、改めて考えてみると人の行動においてかなり広範囲に及ぶものです。
恥ずかしながら私は全てに思い当たる節があります。
これらによって生じた多くの誤解や邪推、猜疑心や歪んだ敵愾心により、愚かにも感情的になって人を攻撃(口撃)したこともありましたし、これからもありうるかもしれません。
*
話は飛躍しますが、人々が真実を知ろうとせず過去を省みない愚かさによって、国の先行きに誤りがあれば、どれほどの代償を払うのだろう、支払いは金銭にとどまらないのではないかと恐ろしくなるのであります。
しかし、法律が出来てしまったからといって諦めないで、私達一人一人が真実を知ろうとする姿勢を持ち続ければ必ず道は開ける、私はそう信じたいのです。
虚栄心を持つために三倍もの、
愚かであるために四倍もの税金を背負っておるのです。・・』
※引用=フランクリン自伝(富に至る道 p.273)
ここでの税金とは私たちが知らず知らずに支払う金銭や労力のことだと思われます。
愚かさゆえの余分な支払いで思い当たるのは、何か体に良い食品があると聞けば、すぐに飛びついて長続きせず、結局浪費に終わるのが顕著な例でしょう。
でも、なぜ愚かなことが怠惰よりも虚栄心よりも多額のお金を支払わなければならないか疑問でした。
そこで、『愚か』ということばの意味を考えてみました。
愚かとは、単に知識や理解力の欠如ではなく、
知ろうとしないこと、知ろうとしない姿勢であり
一面だけを見て、現実をありのまま認識せず
風説や権威ある人の言葉を鵜呑みにしてしまう
さらに、内容に誤りがないか整合性を確かめず
忠告に耳を傾けず、自己を省みず失敗を繰り返す
このようなことだろうと思います。
フランクリンが意図して『愚か』を四倍にしたかどうかは不明ですが、改めて考えてみると人の行動においてかなり広範囲に及ぶものです。
恥ずかしながら私は全てに思い当たる節があります。
これらによって生じた多くの誤解や邪推、猜疑心や歪んだ敵愾心により、愚かにも感情的になって人を攻撃(口撃)したこともありましたし、これからもありうるかもしれません。
*
話は飛躍しますが、人々が真実を知ろうとせず過去を省みない愚かさによって、国の先行きに誤りがあれば、どれほどの代償を払うのだろう、支払いは金銭にとどまらないのではないかと恐ろしくなるのであります。
しかし、法律が出来てしまったからといって諦めないで、私達一人一人が真実を知ろうとする姿勢を持ち続ければ必ず道は開ける、私はそう信じたいのです。
紛争や災害に遭われた人々を思うと理想を語ることに気が引けるのですが、理想というものは執着してしまうとかえって遠ざかるような気がします。
私が過去に描いた理想は、ひとつは眼に見えるもので、もうひとつは見えないものでした。
それが、このところ両方を実現するのが困難になってきました。
というのも、これらは10年前の状況を前提としたもので、今日に至るまでに環境が変化して実現が難しくなったからです。
そしていよいよ厳しくなり、見える方を妥協して、見えない方を優先することにしました。
その結果、妥協した部分は人から見てあからさまに分かるものですから、私は聞かれもしないのに言い訳がましくなったり弁解をするようになりました。
*
理想というと聞こえがよいですが、現実離れしていれば単なる願望や欲求、妄想にすぎません。
私の性格的な未練がましさもあるせいか、せめて世間がもう少しの余裕ある状況ならと思ってしまいます。
しかし、外的な環境を自分の力で変えることは出来ません。
私は心のどこかで、自分の力ではどうすることも出来ない外の環境を変えようと葛藤していた、今もまだ葛藤しているのだと思います。
さらに、理想に執着するあまり、自力で達成出来ることと、前提があってこそ達成出来ることを明確に分けて考えることが出来ていないのだと思います。
たとえ社会に不公正や理不尽がまかり通っているとしても、私は現実を受け入れる度量が必要なのかもしれません。
そうでないと一歩も踏み出せず、いつまでも独りよがりな理想への執着や心の空回りは続くような気がします。
※再生時の音量にご注意ください
~辻井伸行さんのことば~
「今日は初めてやったけど
上手く気持ちよく弾けたと思うし・・・
・・・とにかく皆さんに感動して頂けて
僕も もう大満足です
とっても上手く弾けて嬉しいです」
* * *
旋律の美しさ、表現の豊かさはもちろん
素直に喜びを表わし
上手く弾けたと率直に言えることは
素敵だなと思いました。
☆平成29年6月6日追記
辻井さんの、この心こそ「真心」であると思います。「真(ま)」とは、空の青さを表現するときにいう真青(まつさを)の「真」、本居宣長のいう「真心」とは、現在使っている意味の「真心」(心のこもったという意味)とは異なり、そのままの心を意味します。
本居宣長研究ノート「大和心とは」第七回「「真心(まごころ)」とは」の巻 改定稿
こちらから引用させていただきます。括弧内全て引用。
「・・真心(まごころ)とは、「事に触れて動く心」と定義されているのです。」
「・・事に触れてありのままに動く心を、「真心(まごころ)」というのです。」
「・・心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態を、「実(まこと)」と言うといいましたが、真心(まごころ)も、心と言葉と行為が相かなう(一致する)状態に外なりませんから、「真心(まごころ)とは実(まこと)にあることである」ともいえるでしょう。」
辻井さんの心と言葉と演奏という行為が一致している、この状態こそが真心(まごころ)であり実(まこと)であると思います。
「私たちがこの世において、漢意(からごころ)を取り去って生きるということは、刻々と出現する「事」に対して、常に「真心(まごころ)」を発し続け、「実(まこと)」の位(くらい)において存在していくこと」
真心(まごころ)を発し続けて生きることこそが、漢意(からごころ)を取り去って生きること。こうしたからああなる、これをしたから報われる、見返りがある、こうすべきだ、今までとらわれていた意識が何とそのままの心からかけ離れたものであったのでしょう。改めて辻井さんの演奏と彼の言葉を聴くと心が洗われました。