ひだまり 日常生活 -12ページ目

ひだまり 日常生活

日記を書くことで考えを整理したり、気づいたことを記しています

                


葉に宿る 雨のしずくの さやけさを
 天(あめ)に通ずる 鏡とぞみる


今思うと、私は幼い頃から何をするにも時間がかかった。何をするにも要領を得なかった。特に忘れ物がひどかった。物心がついた時、私は周囲の人より劣ると自覚した。それで、自分なりに自分のやり方を工夫した。しかし、いくら早くするように努めても最大限頑張ってようやく皆に追いつくかどうかであった。

大人になって、仕事によっては上手くこなせかなった事もあった気がする。暗中模索の末にこれだと思える仕事に出会い、どうにか自ら出来る環境となった。

ところが、人生流転し昨年仕事をやめて別の職業に就いた。そこでは仕事を習得する時間もなく次々と仕事を教えられ、私の頭は混乱を極めた。医師から診断書をもらい休職、退職するに至った。苦しい出来事であった。しかし、そこでわかったことは、私には注意欠如多動の特性があるということだった。寝耳に水、その一方でこれで今までの人生に合点がいった。

注意欠如多動の特性をもっている人は天職に出会うとその能力を発揮出来るが、そうでないと仕事や生活に支障をきたすこともあり、生きづらいといわれている。ほとんどの人が天職といわないまでも適職にめぐり会えず辛い思いで過ごしている。そんな中、私は幸いにして、これと思える職業で一定期間を過ごすことが出来たのは今になって思うと幸運であった。

社会は画一的ではなく多様であるべきということもよくわかってきた。人それぞれに持ち合わせている能力が様々な所以であると思う。画一化され合理化され仕事がマニュアル化されたものばかりでは、それに適する人しか出来なくなってしまう。誰でも出来るように作られたはずのマニュアルが実は誰しも出来ないのではないか。各々がそれぞれの能力を発揮出来る社会が望ましいし、それは自ずと多様な社会であると私は思うのだが、それは空言だろうか。

「大かた山ざくらといふ中にも、しなじなの有て、こまかに見れば、一木ごとに、いささかかはれるところ有て、またく同じきはなきやう也」
  花のさだめ 『玉勝間』

人も自然のいきものなのだから皆それぞれにかはれるところがあって然るべきである。今の世の中その大前提に立っているか、果たしてどうだろう。


音楽に限らず文学も美術も自己陶酔したものが巷に溢れている。その一方で、聴衆や読者を意識し過ぎているものも目に余る。芸術は鏡の如く世の人々の精神を映し出すとすれば、私たちの精神が頽廃している、私たちの心が凋落しているのかもしれない。

本来は魂の叫びであったものが過剰な自己陶酔にその姿は崩れゆくのだろうか。神事として奉納していたものが観客を意識し過ぎることで姿は変わってしまうのだろうか。近頃、私が古典に何かしら求めているのは、なにものにもとらわれないその本(もと)の姿、その本の心のような気がしてきた。


本日、大神神社(三輪さん)に参拝いたしました。

昨年は私にとって変化の年で様々な事がありました。

今年もたくさんの出来事に遇うと思います。

善き事もそうでない事も、静かに穏やかにうけとめることが出来るようになりたいです。おひさまのような心。(笑)


みなさまの弥栄をお祈りしております。









ながめやる 心もたへぬ 和田の原
八重の塩路の あきの夕ぐれ



聲たかみ はやしにさけぶ 猿よりも
我ぞもの思ふ 秋のゆふべは


『金槐和歌集』




これらの和歌を想うと、「腹立たしさ」「悔しさ」「無念さ」などの嫌な感情が昇華されて消え去って行く気にさえなる。



實朝の心情を察すれば、私の「腹立たしさ」「悔しさ」なんて、あまりにもちっぽけだ。



だから、私にとって歌はたからものです。