前回、私は便利さが利己主義を助長していると述べました。それは無意識という領域で日々恐ろしく膨らんでいるように思います。暗黙のうちに了解を求めたり、または期待したり。無言の圧力で自分勝手なことを相手に押しつけたり。正直なところ、私はこれらの態度や行動を自覚することがあります。けれども、自覚すらしていないことの方が多いかもしれません。
「近代人が、近代人であるためにはどうしても仕方のない荷物として背負っていかなければならないエゴというものが、人間をかくも不幸にしてしまうということが印象に刻みつけられます。しかしそれが近代というものであって、われわれはそういう近代の中で生きていかなければならないのだということを、漱石はこれらの小説で暗示しているかのように見えます。」
『夏目漱石』江藤淳 p.327
「近代人であるためにどうしても仕方のない荷物として背負っていかなければならない」もの。
「人間をかくも不幸にしてしまう」もの。
私は今までエゴというものを甘く見ていたのだと思いました。
続く
今回は利己主義についてこの頃考えていることを纏めてみたいと思います。
この利己主義という言葉を広い意味に捉えれば、人は生きようとする本能があるので、安全に生きていけるように、また何かしら自分の利益になるように動くのが当然ということになります。しかし、それをさらに助長するかのようなもの、長年社会生活を生きているうちに培われてしまった無意識の利己主義というのもあると思います。そしてその人個人に寄るもの、私は利己主義をこの三つに分けて考えてみました。
こうして、私自身が利己主義について考えるのは、他でもなく私自身の苦しみの原因や今ある問題を探っていくと、そのほとんどがこの利己主義に行き着くからです。
人というものは所詮自分勝手だと結論づけて生きていける人もおられましょう。ですが、私はそうは思えないのです。
「世の中には呼吸するように生活する人間がいる。しかし自らの生存の重みに耐えかねる余り、かえって旺盛に生きねばならぬ人間もいるわけで、漱石の如きは明らかにこの後者に属する。このような人間にとっては、自分が存在することがすでに宿命的な不快感をもって意識されなければならぬ。」
『夏目漱石』江藤淳著 P.103
最近読み始めた『夏目漱石』から気になるところを引用してみました。
この本を読むようになったきっかけは、「則天去私」という言葉は漱石がその境地に到達して発したものではないと知ったことからです。
「漱石が我執に倦んで、小我を去ることを知った、などという一方的な解釈には身もふたもありはしない。」
『夏目漱石』P.76
当初はそれを知りたくて読んでいたのですが、読んでいるうちに漱石の対峙した「我執」や「近代化」の問題に立ち向かっていた態度に深く感銘をおぼえるようになっていきました。
ところで、最近は便利な、あまりにも便利すぎる社会になり、その便利さと引き換えに私たちはたくさんの大切なもの、とりわけ自ら考える能力を失いつつあるのではないでしょうか。そして、欲求がさらなる欲求を生み、苦しまなくてもよいことに苦しんでしまう窮屈な心理状態であるような気がします。
「とにかく、発狂、ないしは自殺という究極の解決にうったえないかぎり、人間はつねに明晰な意識を自分の醜悪な存在の上に保ちつつ、死の瞬間まで孤独と醜さに耐えねばならない。かくのごときものが漱石の人間観であり、彼の人生態度であった。控え目にいっても、これは陰惨な人生図絵である。それは、いわば、日本の「近代化」の影の部分を象徴する絵である。」
『夏目漱石』p.225
この「醜さ」は言うまでもなく心の醜さであります。
さきほど私は利己主義を三つにわけて考えました。本能的なもの、社会生活で奇しくも培われてしまったもの、個人に起因するものと。問題はどこに原因があるのか、すべてが絡み合っているのかなどと分析してみたところで、それは意味のないことかもしれません。ただ、そのことを鑑みたうえで、では、どういう人生態度であれば、少しはこの醜い心と付き合って人生を過ごすことができるのかを、これから少し考えてみたいと思います。
続く。
この利己主義という言葉を広い意味に捉えれば、人は生きようとする本能があるので、安全に生きていけるように、また何かしら自分の利益になるように動くのが当然ということになります。しかし、それをさらに助長するかのようなもの、長年社会生活を生きているうちに培われてしまった無意識の利己主義というのもあると思います。そしてその人個人に寄るもの、私は利己主義をこの三つに分けて考えてみました。
こうして、私自身が利己主義について考えるのは、他でもなく私自身の苦しみの原因や今ある問題を探っていくと、そのほとんどがこの利己主義に行き着くからです。
人というものは所詮自分勝手だと結論づけて生きていける人もおられましょう。ですが、私はそうは思えないのです。
「世の中には呼吸するように生活する人間がいる。しかし自らの生存の重みに耐えかねる余り、かえって旺盛に生きねばならぬ人間もいるわけで、漱石の如きは明らかにこの後者に属する。このような人間にとっては、自分が存在することがすでに宿命的な不快感をもって意識されなければならぬ。」
『夏目漱石』江藤淳著 P.103
最近読み始めた『夏目漱石』から気になるところを引用してみました。
この本を読むようになったきっかけは、「則天去私」という言葉は漱石がその境地に到達して発したものではないと知ったことからです。
「漱石が我執に倦んで、小我を去ることを知った、などという一方的な解釈には身もふたもありはしない。」
『夏目漱石』P.76
当初はそれを知りたくて読んでいたのですが、読んでいるうちに漱石の対峙した「我執」や「近代化」の問題に立ち向かっていた態度に深く感銘をおぼえるようになっていきました。
ところで、最近は便利な、あまりにも便利すぎる社会になり、その便利さと引き換えに私たちはたくさんの大切なもの、とりわけ自ら考える能力を失いつつあるのではないでしょうか。そして、欲求がさらなる欲求を生み、苦しまなくてもよいことに苦しんでしまう窮屈な心理状態であるような気がします。
「とにかく、発狂、ないしは自殺という究極の解決にうったえないかぎり、人間はつねに明晰な意識を自分の醜悪な存在の上に保ちつつ、死の瞬間まで孤独と醜さに耐えねばならない。かくのごときものが漱石の人間観であり、彼の人生態度であった。控え目にいっても、これは陰惨な人生図絵である。それは、いわば、日本の「近代化」の影の部分を象徴する絵である。」
『夏目漱石』p.225
この「醜さ」は言うまでもなく心の醜さであります。
さきほど私は利己主義を三つにわけて考えました。本能的なもの、社会生活で奇しくも培われてしまったもの、個人に起因するものと。問題はどこに原因があるのか、すべてが絡み合っているのかなどと分析してみたところで、それは意味のないことかもしれません。ただ、そのことを鑑みたうえで、では、どういう人生態度であれば、少しはこの醜い心と付き合って人生を過ごすことができるのかを、これから少し考えてみたいと思います。
続く。
まるで虫が触角をなくしたかのような「頭の悪い日」。
ある日から、この日が多くなりました。
どうにもしようのない日と諦めていましたが、このような日だから思えることがある、感じることがあるのかもしれませんね。
ある日から、この日が多くなりました。
どうにもしようのない日と諦めていましたが、このような日だから思えることがある、感じることがあるのかもしれませんね。
ボドレエルの詩「人と海」は、人の素性のかなり深いところまで迫っているように思います。
- げにも非命と殺戮と、なじかは、さまで好もしき -
人は、この素性を自らどうにか出来ようものなら、世の中から戦というものはなくなっているのかもしれません。
上田敏の訳文はその内容の苛辣さとはほど遠く、美しい。
- 人よ、爾(いまし)が心中(しんちゆう)の深淵探りしものやある -
- 寄せてはかへす波の音の、物狂ほしき歎息(なげかひ)に -
- 人と海 - シャルル・ボドレエル 上田敏訳
こゝろ自由(まま)なる人間は、とはに賞(め)づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。灘(なだ)の大波(おほなみ)はてしなく、
水や天(そら)なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海(ふかうみ)の潮の苦味(にがみ)も世といづれ。
さればぞ人は身を映(うつ)す鏡の胸に飛び入(い)りて、
眼(まなこ)に抱き腕にいだき、またある時は村肝(むらぎも)の
心もともに、はためきて、潮騒(しほざゐ)高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音(おと)の、物狂ほしき歎息(なげかひ)に。
海も爾(いまし)もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
人よ、爾(いまし)が心中(しんちゆう)の深淵探(さぐ)りしものやある。
海よ、爾(いまし)が水底(みなぞこ)の富を数へしものやある。
かくも妬(ねた)げに秘事(ひめごと)のさはにもあるか、海と人。
かくて劫初(ごうしよ)の昔より、かくて無数の歳月を、
慈悲悔恨の弛(ゆる)み無く、修羅(しゆら)の戦(たたかひ)酣(たけなは)に、
げにも非命と殺戮(さつりく)と、なじかは、さまで好(この)もしき、
噫(ああ)、永遠のすまうどよ、噫、怨念(おんねん)のはらからよ。
- げにも非命と殺戮と、なじかは、さまで好もしき -
人は、この素性を自らどうにか出来ようものなら、世の中から戦というものはなくなっているのかもしれません。
上田敏の訳文はその内容の苛辣さとはほど遠く、美しい。
- 人よ、爾(いまし)が心中(しんちゆう)の深淵探りしものやある -
- 寄せてはかへす波の音の、物狂ほしき歎息(なげかひ)に -
- 人と海 - シャルル・ボドレエル 上田敏訳
こゝろ自由(まま)なる人間は、とはに賞(め)づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。灘(なだ)の大波(おほなみ)はてしなく、
水や天(そら)なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海(ふかうみ)の潮の苦味(にがみ)も世といづれ。
さればぞ人は身を映(うつ)す鏡の胸に飛び入(い)りて、
眼(まなこ)に抱き腕にいだき、またある時は村肝(むらぎも)の
心もともに、はためきて、潮騒(しほざゐ)高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音(おと)の、物狂ほしき歎息(なげかひ)に。
海も爾(いまし)もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
人よ、爾(いまし)が心中(しんちゆう)の深淵探(さぐ)りしものやある。
海よ、爾(いまし)が水底(みなぞこ)の富を数へしものやある。
かくも妬(ねた)げに秘事(ひめごと)のさはにもあるか、海と人。
かくて劫初(ごうしよ)の昔より、かくて無数の歳月を、
慈悲悔恨の弛(ゆる)み無く、修羅(しゆら)の戦(たたかひ)酣(たけなは)に、
げにも非命と殺戮(さつりく)と、なじかは、さまで好(この)もしき、
噫(ああ)、永遠のすまうどよ、噫、怨念(おんねん)のはらからよ。
