一木ごとに、いささかかはれるところ有て | ひだまり 日常生活

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今思うと、私は幼い頃から何をするにも時間がかかった。何をするにも要領を得なかった。特に忘れ物がひどかった。物心がついた時、私は周囲の人より劣ると自覚した。それで、自分なりに自分のやり方を工夫した。しかし、いくら早くするように努めても最大限頑張ってようやく皆に追いつくかどうかであった。

大人になって、仕事によっては上手くこなせかなった事もあった気がする。暗中模索の末にこれだと思える仕事に出会い、どうにか自ら出来る環境となった。

ところが、人生流転し昨年仕事をやめて別の職業に就いた。そこでは仕事を習得する時間もなく次々と仕事を教えられ、私の頭は混乱を極めた。医師から診断書をもらい休職、退職するに至った。苦しい出来事であった。しかし、そこでわかったことは、私には注意欠如多動の特性があるということだった。寝耳に水、その一方でこれで今までの人生に合点がいった。

注意欠如多動の特性をもっている人は天職に出会うとその能力を発揮出来るが、そうでないと仕事や生活に支障をきたすこともあり、生きづらいといわれている。ほとんどの人が天職といわないまでも適職にめぐり会えず辛い思いで過ごしている。そんな中、私は幸いにして、これと思える職業で一定期間を過ごすことが出来たのは今になって思うと幸運であった。

社会は画一的ではなく多様であるべきということもよくわかってきた。人それぞれに持ち合わせている能力が様々な所以であると思う。画一化され合理化され仕事がマニュアル化されたものばかりでは、それに適する人しか出来なくなってしまう。誰でも出来るように作られたはずのマニュアルが実は誰しも出来ないのではないか。各々がそれぞれの能力を発揮出来る社会が望ましいし、それは自ずと多様な社会であると私は思うのだが、それは空言だろうか。

「大かた山ざくらといふ中にも、しなじなの有て、こまかに見れば、一木ごとに、いささかかはれるところ有て、またく同じきはなきやう也」
  花のさだめ 『玉勝間』

人も自然のいきものなのだから皆それぞれにかはれるところがあって然るべきである。今の世の中その大前提に立っているか、果たしてどうだろう。