寒くなってきて、コールドシャワーや外を半袖で動き回ることなどの刺激の負荷が大きくなってきてますね。

冷たさ・寒さは気合いで乗り越えられないので、自身の心身のモニタリングと気功の実践において、とても良い教師になってくれています。

 

 

 

さて、

サイコパス度を上げることについて、

自分の中で水が入れ替わっていった結果分水嶺を越えた(無意識が勝手に実施するループに入った)感触を得まして、今のうちに書き残そうと思います。

 

 

元々、「サイコパスであってはいけない」という古い価値観と古い情動記憶(わらわらと出てきました)が邪魔をして、

「ゴールのためにサイコパス度を高めていく」という新しいアイディアを前向きに受け入れることができていませんでした。

 

「プサイ(サイコパス度を高める気功技術)、ダイジ」と言葉だけが空中で回っていて、

『サイコパスでないために人から好かれる世界』(フォーカスも論理も歪んでますね😅脱洗脳必須でした)に後ろ足が残っていました。

 

しかし、

  • 何度も何度も「サイコパスになりましょう」と言ってもらったこと
  • 解毒の過程でΨ(プサイ)のワークをし続けたこと
  • サイコパスの視点を得るために参考書籍や映画を観たこと
  • 周囲の目を気にすることが減り、ゴール(既存の周囲の目からしたら奇異でしかない)への本気度の向上
  • 抽象度を上げないとまずい状況に自分と知人がなり、かつプサイによって乗り越え、癒せたこと
  • ここ数ヶ月、判断の材料として情動ではなくサイコパス性が働いた結果として奇妙に見える選択肢を掴んで世界線の移動ができていたことに気付いたこと

 

といった複数の要因が絡み合ってからか内部が変わりました。

未来からサイコパス性が求められ、実際に今サイコパス性による果実を得て、過去でもできていたことに気付き、

未来・現在・過去が書き換えられました。

 

「前向きにサイコパス度を高め続ける世界線」への閾値を越えた感触があります。

無意識がサイコパス度を上げることは良いことだと確信し、勝手に気功技術を召喚し、果実を収穫するループに入り始めました。

 

滑走路でぐるぐると走っていたところから、ふわっと離陸したのを感じます。

離陸したことを忘れて墜落しないように、アウトプットします。

 

 

 

サイコパス性とはなんなのか。

なぜヒーラーやリーダー、良き人間、ゴールに生きる人間に必要なのか。

 

まといのばを中心に幾つか引用します。

 

まず、サイコパスの特徴について、wikipedia(まといのばで引用されているケヴィン・ダットンの著作がソース)より、

 

    

極端な冷酷さ・無慈悲
エゴイズム
感情の欠如
結果至上主義

があり、他者の痛みへの共感がないとされます。

 

 

TriPM(Triarchic Psychopathy Model)というモデル(Patrick, 2010)では、以下の三因子構造でサイコパシーを捉えています。組み合わさって特徴が現れてきます。

  • 冷淡性(Meanness)
    • 情動的共感の弱さ、他者への無関心、対人的な距離の取り方を含む領域
  • 大胆性(Boldness)
    • 恐怖や不安の低さ、社交的な自信、危険に対する落ち着きなどを示す領域
  • 脱抑制(Disinhibition)
    • 衝動性、自己制御の弱さ、計画性の欠如などを含む領域

 

 

脳科学者の中野信子さんによる具体的な特徴を幾つか引用します。(中野信子『サイコパス』より)

※三因子が組み合わさって特徴が現れますが、私の方で強めに出ている因子ごとに分類してます。

  • 冷淡性
    • 多くの人が倫理的な理由でためらってやらないことを平然と行う。挑戦的で勇気があるようみえる。一例として、トロント大学でも紹介された「妹を殺し、母親の葬式に出会った男と再会する」という流れを自然に思いつくことができる。
    • 介護や福祉、カウンセリングなど人を助ける職業についた愛情の細やかな人の良心をくすぐり、餌食にしていく。自己犠牲を美徳としている人ほどサイコパスに目をつけられやすい。
    • 残虐な殺人や悪辣な詐欺事件をおかしたにもかかわらず、まったく反省の色を見せない。そればかりか、自己の正当性を主張する手記などを世間に公表する。
    • サークルクラッシャー、財産目当てで富裕層の老人に取り入るいわゆる後妻業とよばれる人々。
    • つきあう人間がしばしば変わり、つきあいがなくなった相手を悪くいう。
  • 大胆性
    • 外見や語りが過剰に魅力的で、ナルシスティック。
    • 恐怖、不安を感じにくく、大舞台でも堂々としている。
    • お世辞がうまく、有力者を味方につけたり、崇拝者のような取り巻きがいる。
    • 外見は魅力的で社交的。トークやプレゼンテーションも立て板に水で、抜群に面白い。だが、関わった人はみな騙され、不幸のどん底に突き落とされる。性的に奔放であるため、色恋沙汰のトラブルも絶えない。
  • 脱抑制
    • ありえないようなウソをつき、常人には考えられない不正を働いても、平然としている。ウソが完全に暴かれ、衆目に晒されても、全く恥じるそぶりさえ見せず、堂々としている。それどころか、「自分は不当に非難されている被害者」「悲劇の渦中にあるヒロイン」であるかのように振る舞いさえする。主張をころころ変える。
    • 飽きっぽく、物事を継続したり、最後までやり遂げることは苦手。
    • 長期的なビジョンを持つことが困難なので、発言に責任を取ることができない。
    • 過去に語った内容とまるで違うことを平気で主張する。矛盾を指摘されても「断じてそんなことは言っていません」と、涼しい顔で言い張る。経歴を詐称する。
    • 都会を好む、都会と相性がいい。

 

 

 

 

上記だけ見ていると、サイコパスは反社会的なイメージになってしまいますが、

実際には反社会性が低く、成功したサイコパスが多いことも知られています。

 

 

以下はまといのばから引用します。

サイコパスは、現代社会において進化心理学的に適者であるということです。(適者生存)

恐怖を感じにくいために、常に冷静でいられます。IQが高い状態を維持できます。

 

そして、サイコパスの性質を上手に使うならば、良いヒーラー、良いリーダー、社会に役割を果たす良き人間になれるのではないかと思います。

ちなみに「サイコパス」の著者ケビン・ダットンのお父様は「現代の生活には理想的な人格の持ち主」だったそうです。「父がパニックになるのを見たことがなかった。冷静さを失うのを見たこともなかった。何かでカッとなるのを見たことがなかった。正直、そうなってもおかしくない場面が何度もあったのに」と言います。

そのお父さんはサイコパスだったそうです。

ケビン・ダットンはこう言います。

サイコパシーは太陽の光のようなもの。浴びすぎればおぞましい発癌物質のように死を早めるおそれがあるが、適度に浴びれば健康にも生活の質にも大いにプラスになる。」(同p.19)

そしてサイコパスは進化心理学的にも現代そして次の世代ににおける適者の可能性があります。
それをざっくりと説明してくれるのが、ケビン・ダットンのお父様です。

(引用開始)「人間が進化の過程で恐怖を発達させたのは、捕食者から身を守るためなんだとさ」と父が私に言ったことがある。「でも、原始時代じゃあるまいし、今どき、治安の悪いエレファント・アンド・キャッスルの界隈だって、サーベルタイガー(剣歯虎)はそんなにうろついてやしないよな」(引用終了)(同p.18)

 

 

(まといのばブログより)

 

 

恐怖は過去には生存のために必要であったが、現代には必要ない」とドクター苫米地も著作で述べています。

 

みなさんは、どんなときに恐怖を感じるでしょうか。実は恐怖には「いわれのある恐怖」と「いわれのない恐怖」の二種類があります。


「いわれのある恐怖」なら、その恐怖の理由を取り除く努力をすればいいでしょう。「いわれのない恐怖」なら、そもそも恐怖すること自体が無駄だということになります。

恐怖には、遺伝子に組み込まれているとしか考えられない、生物固有の恐怖というものもあります。 例えば、どんなに脅かしてもまったく動じなかったサルの目の前に、くねくねした細長い紐を投げたところ、「ギャー」と叫んで一目散に逃げ出したという実験結果があります。

人類の歴史において、恐怖という感情が必要だった時代が確かにありました。ヘビを恐れることでヘビから身を守ってきたサルたちのように、人類の存続、種の保存を脅かすような存在を恐れることで、事前に危険を察知し、回避して、生き延びてきたのです。 暗い場所が怖いという感情は、暗いところには人類にとって有害な生物がいる可能性があるから起こるのです。

ですが、二一世紀となった現在、人類はその危険をさまざまな形で回避できるようになりました。つまり、恐怖する必要がなくなったのです。先ほど述べたように、いわれのある恐怖はそのいわれを取り除く行動を取ればいいのですから、恐れる必要はありません。いわれのない恐怖は、いわれがないのですから、恐れる必要はありません。いずれにしても、恐怖は必要ないのです。

 

苫米地英人著 『「生」と「死」の取り扱い説明書』より

 

 

また、

サイコパスは他者への共感性が低いということですが、逆に共感は社会にとって害をもたらす

こともわかっています。

 

まといのばでは、

ポール・ブルームの『反共感論―社会はいかに判断を誤るか』やnetflixの例を使いながら、

社会通念的には『善』と思われがちな共感は実際には

  • バイアスによる不公平(統計よりも目の前の一人を優先)、
  • 燃え尽き(バーンアウト)、ヒーラーにとっては気枯れ・被り、
  • 雑な仕事

につながるとされています。

 

sympathyやempathyが害になる場合があり、Compassionが望ましいという二項対立についてです。

 

(略)

 

共感・・・島皮質や前帯状皮質

思いやり・・・内側眼窩前頭皮質や腹側線条体

 

(略)

 

僕らは、

 

共感 v.s. 思いやり

 

共感 v.s. 共苦(Compassion)

 

と仮に定義し、前者が島皮質や前帯状皮質、後者が内側眼窩前頭皮質や腹側線条体の発火を促すと考えます。

 

(略)

(共感すると)

昨日の文脈で言えば、気が枯れるのです。

もしくはバーンアウトするのです。

文字通り、燃え尽きるのです。

 

「共感による共有は、私にはただちに耐え難いものになりました。燃え尽きたかのごとく、情動的に消耗したように感じられたのです。」

共感の度合いが小さいほうが、より親切になるということだ。(以上、「反共感論」より)

 

この現象を我々は「被り(かぶり)」と呼んだりします。

 

(略)

 

海に対する圧倒的な憧れを持ち、そして一方で海を畏怖していれば、適当な仕事をしている船大工をしばいたり、クビにしたりすることは可能です。

 

そこで共感的な優しさを発揮するリーダーは雑な仕事で船を沈没させる結果となるのです

 

(まといのばブログより)

共感 v.s. 思いやり
共感 v.s. 共苦(Compassion)

の軸で、「情動的共感」と「(理性的な)認知的共感」という分類もわかりやすく思いました。

 

 

ヒーラーとしてジレンマ・パラドックス(共感と共苦をスペクトルとして捉える)

 

復習するならば、共感とは文字通り感情の共有を伴う情動であり、共苦は状況の理解のことです。

そして面白いことに、この使い分けができる人による実験によると、働いている脳の部位もまた違います。そして、前者は人間として良さそうに見えるのですが、しばしば燃え尽きてしまう。

 

 

ここは非常に面白いパラドックスがあります。

 

介護や福祉や他人と介入的に接する精神科医やカウンセラー(そして理学療法士、作業療法士も同様ですが)に多いのですが、他者に対して共感を持って接しなければいけないけど、そうすると自分の心と身体が壊れてしまうというジレンマに陥ります。

困っている人、助けを求めている人に手を差し伸べたいと思って(共感して)、仕事を始めたのに、その初心が自分を攻撃するというパラドックスに気づくのです。

 

(略)

 

このジレンマとパラドックスはヒーラーも同じです。

人を助けたいという思いを裏切ってしか、仕事ができないというパラドックスは深刻です。

 

今回のシークレットスクールのテーマもここにあります。

 

ポイントは二択ということです。

 

反共感とは、共感は無意味だから無くせという議論であったでしょうか、その期待は著書を最後まで読むと見事に裏切られます。

 

ここでの我々の問題点は、実は最初の問題設定だということです。

 

二択にした時点で間違いなのです。

 

 

そもそも我々は心優しい共感のような情動を、アプリオリに良いものとみなしがちです。

それに対して、アンチを突きつけるのが反共感であったり、サイコパスの肯定的な取り上げ方です。

サイコパス研究者のケビンダットンはサイコパシーを日焼けのようなものと言います。

日焼けしすぎると火傷になるし、皮膚がんのリスクも上がる。しかし適切な日焼けは健康に良いし、生活の質も上がる、と(ビタミンDのためにも良いですしw)。

 

ブラック・スワンのタレブが「成功」について卒業式で語ったってよ(^o^) 2016-07-03

 

 

同様に我々も共感と共苦というのは、一種のスペクトルのように感じるべきです。

もしくは2つの技術の濃度を変えるように、すべきです。

 

(まといのばブログより)

 

 

 

感情に支配され、抽象度が下がり、明晰な思考ができなくなることについては、

ニーチェのため息を付くような語り草が刺さります。

 

共感については、ニーチェ様がこんな風に言っています。

 

 おのれの感情をよく抑えておかなくてはならない。感情に流されるなら、すぐに頭脳も流れ去ってしまう。

 ああ、同情する者たちがしたよりも大きな愚行が、この世にあるだろうか。同情する者たちがした愚行よりも苦しみを与えたものが、この世にあるだろうか。

 

 

この瞬間だけは、あのニーチェがアランと重なって見えるのが不思議。

 

感情をよく抑えるというのは、アパティアであり、ストア派に通じます。

感情を滅するわけではありません(そこが仏教と違うところ)、最大限に理解して、抑えるのが重要です。

 

(まといのばブログより)

ここでも出てくるアパテイア

共同体から切り離された都市では「人でなし」がスタート地点?2025-10-31

 

 

 

クライアントからサイコパスを取り除くこと、自分のサイコパス度を上げて脳力を上げること

 

ちなみに、なぜ我々がサイコパス研究をする必要があるかと言えば、その理由はシンプルです。

 

第一にクライアントの中から丁寧にサイコパスを取り除く必要があること、もう一つは我々自身が、少しでもサイコパスににじり寄ることで、脳力をアップさせたいからです。これについては何度も書いてきていますので、詳述はしません。

「そいつはまちがいなくサイコパスだ。サイコパスを助けることはできない」 2012-12-12 23:10:08

 

【明日開催!!】まといのば講座「サイコパスのすゝめ」!!サイコパス性はヒーラーに不可欠!! 2016-05-11 13:54:30

 

(略)

 

自分のWant toやGoalが分かるためには、この言葉をつぶやきましょう。

 

神々が人間くさかったころ人間はもっと神々しかった

 

と。

 

もっと下世話なもの、もっとくだらないもの、もっと軽薄なもの、もっと大したことないもの、もっと悪いもの、もっとしてはいけないもので良いのです(倫理観と常識を抜くと、スピードが早くなります。それがサイコパスの強みです。我々も少しは見習いましょう。日常生活では必要ですが、ゴール設定では邪魔にしかなりません。行動に移さない限りは「人を殺したい」と思っても良いのです。)。

倫理観と常識を抜くと、スピードが早くなります。それがサイコパスの強みです。

 

暗い醜い欲望を出すことの重要性は体感していますので、もっと出していきたいところです。

今も「こんな品の悪い煩悩があったんだ」と抑圧が外れて抑圧に気付く時があります。

(以下は暗い欲望によってブートされた時の記事です。)

 

 

 

現状の外への移動のチャンスがやってきた時、

サイコパスであれば、情動やそれまでの考え方に揺らがず、選択肢を潰さずに計算し、移動のチケットを掴むことができる。

 

 

すなわち形式化すると(というほど大げさではないですが)、

 

願い ⇒ 知識 ⇒ 叶う

 

となります。

 

多くの場合、強く願えば叶うと考えがちですし、それはそう教わっているからですが、実際のカラクリは、知識による次元の移動です。知識がなければ可能世界は移動できません。

 

その知識というのは切符やチケットのようなもので、そのとき限りしか使えません(乗り遅れたら終わり)。

 

知識が知識として認識されることは多くなく、しばしばCrazyに感じます。

「いや、それはありえないでしょ」ということだったり、「それは絶対に嫌」ということだったりします。

そのときに自身がサイコパスであればあるほど、「もしかしたら…」と計算(思考)を始め、少しでも可能性があれば、泥水をすすってでも前進しようと考えられるものです。

 

お陰様戦略という着ぐるみの中身は純粋なサイコパスであることが求められます。

自分がどう思われても良いので(「いいひと」と思われるかも気にせず)、血も涙もない機械のようなサイコパスが良いです。そのサイコパスはゴールだけを見つめて、ゴールのためであれば、犠牲を厭わないのです。というか視野に入らないのです。

 

(略)

 

我々はそこまでしてまでゴールを達成したくないと人間的にも思うかもしれません。

それはそれでそれが我々のゴールです。

アインシュタインから冷ややかに、あなたが成功しなかったのは、あなたが良い人だったからですよ、と死の間際に言われるだけです。

c.f.「夫はどうして成功しなかったのでしょうか?」「彼は良い人だからですよ」とアインシュタインは答えた 2018年02月09日

 

しかし、そのとき我々が犠牲にし、失うのは、人間性であり、大事な人の生涯なのでしょうか?

彼らもそれを望んだのではないでしょうか?

 

我々は我々のゴールだけを見れば良く、そしてサイコパス濃度をとことん上げれば良いのではないでしょうか?

 

神々に対する「いい人」(by Dr.T)と人々(∈自分)に対する「いいひと」戦略の両輪で行きたいのです。

それを「お陰様」戦略と仮に名付けています。

お陰様戦略とは平たく言えば、何事につけ「おかげさまで」とマントラすることです(実践はシンプルに)。全てはお陰様のおかげさまなので、必然であり、最善なのです。

 

そのときにお陰様を着る我々の中身は純度の高いサイコパスなのです。

 

(まといのばブログより)

知識が知識として認識されることは多くなく、しばしばCrazyに感じます。
「いや、それはありえないでしょ」ということだったり、「それは絶対に嫌」ということだったりします。
そのときに自身がサイコパスであればあるほど、「もしかしたら…」と計算(思考)を始め、少しでも可能性があれば、泥水をすすってでも前進しようと考えられるものです。

 

アインシュタインから冷ややかに、あなたが成功しなかったのは、あなたが良い人だったからですよ、と死の間際に言われるだけです。

我々は我々のゴールだけを見れば良く、そしてサイコパス濃度をとことん上げれば良いのではないでしょうか?

 

現状の外への切符を掴むには、サイコパス度が高くあるべきであり、

そもそも私達は何のために、誰のために生きているのか。

もちろん、他人のための人生ではなく、ゴールのためです。

 

 

 

 

文字数制限となったので続きます!

 

理論、

実践、

そしてサイコパスという言葉にまとわりついていた情動記憶から解放されたことについて。

 

 

 

【参考書籍】