Hardnutのブログ -65ページ目

ナイロビで思うこと ( 続 x 8 )

コロンブスの新大陸発見は、小学校の社会科では「いよぉークニが見える」で1492年と覚え、高校の世界史になると先生が「1492年というのはイベリア半島の『レコンキスタ』というもうひとつの事件と併せて理解するように」などと云われた記憶が残る。

ケニアのインド洋の港街モンバサから北へ120kmほど行ったところにMalindiという小さな港町があり、その港のはずれにバスコ・ダ・ガマの到達を記す白い記念碑が建っている。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見はコロンブスの新大陸発見より先かと思い込んでいたが、バスコ・ダ・ガマの方が後で、正しくは、1498年に東アフリカを経由してインドへ向かったのだ。

その後、ポルトガルがアフリカ・アジアに進出を開始して、モンバサ島にフォート・ジーザス(Fort Jesus)と云う要塞兼商館が約100年後に完成した。現在では博物館になっていて、展示品の目玉は、13世紀ころからアフリカ東海岸へ運ばれて来たおびただしい中国製の陶器で、それらは中国からアラブに持ち込まれたものが、海のアラブ商人達によって更にアフリカ東海岸までもたらされた。

インターネットで「フォー・ジーザス」を検索すると、実に多くの日本人が訪れブログなどに書いているのには驚かされた。そして、あぁーっ、あの海を見に行きたい!と地団駄を踏む。


ポルトガル人が来る何百年ま前からアラブ商人たちはアフリカ東海岸を訪れており、交易の言語としてスワヒリ語が、ザンジバルあたりの土俗語とアラビア語の合成語として発達の過程をたどることになる。つまり、スワヒリ語のもとになった土俗語もアラビア語もたぶん何千・何万年と話されていたのだろうが、スワヒリ語となるとその歴史はせいぜい7-800年ということになるのだろう。


言葉というのは使われている歴史が長ければ長いほど文法が複雑になり単語の数が多くなり、文明の発達とともに進化し、ひとつの単語の意味する事なり概念をより厳格に規定するようになるのだろうということを、ドイツに赴任してドイツ語を習った時に思った。

スワヒリ語でSafariと云う単語は名詞にも動詞にも使われるが、たとえば海外旅行もSafariだし、街へ買い物に行くのもSafariでOKで、「ちょっとションベン!」というのも「Safari kidogo.」で通じる。

スワヒリ語ばかりではなく、バンツー語は長く文明との接触なかったし、少ない単語でもなんとか間に合っていたことが、よく云えば鷹揚、悪くいえばテキトーでユルイ言語の所以という気がする。この緩さ適当さは魅力でもあるけれど、たとえば、最新医学のことや、HIV/エイズなどは説明しようがないし、キクユ語でのインターネットは不可能だ。

だから、自分の部族語とスワヒリ語しか理解できない人に、彼らにとっての未知との遭遇をさせるには進化した言語を習得して貰うしかない。タンザニアの初代大統領が何十年も前にスワヒリ語ですべてを賄える様にしようとという試みをやって失敗しているが、仏語や中国語ではなく、もはや世界語の地位が確立している英語をしっかりと習得してもらうのが一番だと思う。


ナイロビで思うこと ( 続 x 7 )

「Two for you, two for me」と云うとなんとなくアメリカンポップスの曲名みたいに聞こえるけれど、これはアフリカの道路の話。

一般的なアスファルト道路のアスファルトの版厚というのは15センチでこれは世界標準。高速道路なると25センチから30センチというのもあり、さらにその版下の下部構造もしっかりしているからちょっとやそっとでヒビがはいるようなことはない。

東名高速道路が開通したころ、日本で共産主義革命を起こるかも知れないと本気で考えていた人たちがいて、もし東京で武装蜂起が起きたら、御殿場の陸上自衛隊基地から戦車を連ねて東名-246を経て数時間で永田町・霞が関へ展開することを考えてそんなに頑丈な道路を建設したのではないかという憶測もあったらしいが、ドイツのアウトバーンや米国のハイウェイも高速道路はそう云う規格になっている。

ケニアあたりでは雨期になると道路は穴ボコ(Pot-Holes)だらけになってしまい、アスファルトの薄さに驚かされるが、どうしてあう云うことになるかと云うと、要するにアスファルトを15センチ(6インチ)敷き詰めるべきものがどこ変え消えたからということ。

仮に、ナイロビ-モンバサ間の道路を全面改修することになったとすると、政府はこれなりのコンサルティング会社を指名して国際入札を仕切り、同時に世銀などと資金の算段をする。そして入札、業者指名と云う手続きになって工事が始まるが、その過程で、政治家・政府高官とコンサルタント・施工業者などがいろいろと抜いて行って、「はい、あなたに2インチ分。でわたしにも2インチ分」となると結局完成した道路には2インチ(5センチ)の厚みアスファルトしか残らず、いちどの雨期で穴ボコだらけになってしまう。「Tow(2インチ分) for you, two(2インチ分) for me」とはそう云う意味。


続きがある。道路が穴ボコだらけになった原因は、大型車両と積荷の積載オーバーだから各所に車両計量所を建設し、積載量超過を取り締まり、また、ウガンダ・ルワンダなど内陸の道路利用国にも道路保全の費用を請求することにもなる。本末転倒というのはこう云うことを云うのだろう。


そこで中国の怒涛のアフリカ進出の話になる。日本を含む先進国は企業のコンプライアンスというのがあってODA事業を受注するのに賄賂などは払えないが、中国はそれをやっている。だからインフラ事業は中国企業が受注しているということを指摘する人がいるが、必ずしもそうではないようだ。技術者ばかりではなく一般の作業員まで中国から連れて来て全部自前で安価に事業を進め、そしてきちんと15センチのアスファルト版厚の道路が作られていく。

アフリカ人たちはそれをしっかりと見ていて中国のことを評価している。

ナイロビで思うこと ( 続 x 6 )

言語学者にして文化人類学者の西江雅之氏が、1972年頃にナイロビでキクユ語の調査をしているときに書いた随筆に「花のある遠景-東アフリカの裏町から」というのがあり、当時ナイロビ大学の近くにあった「香港」という中華料理店のことを書いている。そこの中国人オーナーは何代目も前に中国を離れた一家のようで、中国語が書けなく西江さんが中国語でメニューを書いてやったという記述だったと記憶している。


1980年ころまでは、ナイロビの中華料理店は「香港」の他には「パゴダ」というのと「ドラゴン・パール」という3店だけだった。

昨日夕刻、Hurlingham Shopping Centreの駐車場でグルリとひと回り見渡しただけでも3店の中華料理店が目についた。

聞くところによると、現在、ケニア在住の中国人は合計4万人以上で、中華料理店は60店舗を超えるということだったが、確かにどこでも圧倒的な存在感を見せつけている。


ナイロビから北へ向かうThika Roadの拡幅改良工事など、中国企業がいろいろなところでインフラ整備事業を請け負っており、ただただ驚かされる。一昨日聞いた最新の情報でも、Thika Road 沿いにある国立総合運動施設(Kasarani National Sport Complex)の大改良工事の入札があって、これも中国企業が落札したということだった。


街の商店などを見れば中国からの安価な日用雑貨・生活用品・衣類・プラスチック製品などなど中国製品で溢れかえっており、これではこの国の小規模で数も少ない製造業は立ち行かなくなり、製造業などという業種にも入らない伝統的なJua Kali(英語で言うところのInformal Sector)なども駆逐されているのではないだろうか。


当地に長期滞在しようと思えば滞在ビザが必要となるのは当然だが、いろいろなカテゴリーがあり、たとえば、ここで商行為をするにはクラスA、海外企業の駐在員はクラスD?、海外からの送金で老後をすごそうとすればクラスHと云うような分類になっている。いま、クラスAは仮に取得できたとしても2年間で250,000シリングかかるそうだが、中国人用には全く別の規定があり、2000シルとか3000シルで就労ビザが取得できる特別待遇ということらしい。