冒険の定義
『いまの日本の若者たちのなかに"外国で自分の可能性を試してみたい"という言い方があることは私も承知していたが、考えてみれば、それぞれの国々の平凡な生活を送るために苦闘している人のなかに、"自分の可能性"なるものを試したりするために押し込んでくる根性のなかに何かしら礼節を欠いたものを私などは感じることがある。』
これは、堀田善衛著、岩波新書「スペイン断章」(初版1979年2月)の72頁、「アンダルシア地方にて」にある記述である。ちょうど30年前、ケニアへ出発する前に読んだので諭される思いをした。
2006年のドイツW杯の日本の最終戦のあとピッチに寝転んでいたあんちゃんは、その後引退して「自分探しの旅」とかにテレビ・カメラを従えて世界各地に出没していたようだが、いったい探すほどの「自分」とやらはあったのだろか。
数日前の新聞記事に、10年以上かけて世界130ヶ国、15万キロを自転車で走破したとかいう39歳の人に「植村直己冒険賞」というのが贈られたというのがあった。この賞は、故植村直己の出身地・兵庫県豊岡市というところが制定しているらしいのだけれど、それを冒険と云うのだろうかと何となく首をかしげる。
リヤカーでアフリカ横断に挑むとか、バイクでアフリカ縦断などいうことをやっている人たちを見ると、どうなんでしょうと思ってしまう。
アラスカ・マッキンレー山で遭難した植村直己さんは本当の冒険家だったと思う。
かつて東西冷戦時代の欧州便はアンカレッジを経由していて、航路はマッキンレー上空を通過していた。80年代後半にあそこを通過する度に「あの雪山のどこかに植村さんが眠っているのだろうか」と思いつつ窓の外をみていて、「冒険」の定義のようなものがあるのかないのか思ったことがあった。
Back to Africa
世界各地で仕事をし、生活をしている邦人は、その地その地で日本人会を組織しているが、在留邦人が「x万人」と云う単位でいるニューヨークやロンドンのような大都会は「日本人会」というくくりでの組織は成り立たず、「日本人会」があるにはあるらしいが、それはもうほんの一部の人たちの集まりにすぎない。
世界のいろいろに都市に駐在した経験のあるある商社マンが云っていたけれど、日本人会として一番まとまりやすい邦人社会のサイズは500人から1000人までで、これを超すとひとつにまとまるのが難しくなり、かと云って200人以下だと日本人社会が小さ過ぎて息苦しいと言っていた。何となく理解できる。
10年ほど前、ナイロビに住んでいたときにケニアの日本人会の役員を仰せつかったことがある。
当時ナイロビとその周辺に住んでいた日本人の数は700人程度だったと記憶しているが、いろいろな年間行事なども結構まとまってやっていた。
その時いっしょに日本人会の役員をやっていた商社Sの知人はその後日本に帰国していたが、年明けに辞令が出て今月末には南アフリカ駐在員として赴任して行くことになった。二度目のアフリカ駐在という訳だ。
彼を含め、10年前のその当時付き合いのあった人たちが何人か集まって、今晩、彼の歓送会をやることになっている。
マイルス・ディビスを聴きながら
この前、イスタンブールからのトルコ航空便で日本に戻る機内で、べつに観たい映画などもなかったので何か音楽でもと思いマイルス・ディビスの「Kind of Blue」選んでスイッチを入れた。目の前画面に現れた、かつてのPLのジャケットにあるマイルスの写真のネクタイを見て「ん!」と思った。
いままでそんなことは全く思いもしなかったけれど、マイルスだけではなく、あの頃の黒人のジャズメンはスーツにネクタイ姿で演奏していた。あの頃というのは50年代60年代のことで、コルトレーンもアート・ブレーキーもみんなネクタイを締めていた。
つまり、その頃というのは米国の公民権法はまだ成立しておらず、米国には制度としての人種差別が確たる事実として存在していたのだ。
スーツを着てネクタイ姿で演奏していたのは、差別されていた側の彼らが聴衆の前に出る為に、お行儀の良さを姿かたちで示さなければならなかったからだったのだろうかなどと思ったのだけれど、どうなのだろう。
そんなことを思ったら、マイルスのミュートで抑えた静かなトランペットの音は、かえって内なる情念を抑えているようなに聞こえてきた。
南アフリカのアパルトヘイトが廃止されて20年になるけれど、それまで米国を含む先進国は南アを非難し経済制裁をしていた。そのアメリカにもその26年前の1964年に公民権法が成立して人種差別が制度上は廃止されるまで、人種差別があった。
オーディオ・コンポの調子が悪くて修理に出していたものが一ヶ月ぶりに戻って来たので、これでまたまともに音が聴けるようになった。 最初に聴いたのは「Round about Midnight」。