Hardnutのブログ -15ページ目

アフリカのマカダミアナッツ産業 Part 2

[ Part 2 ]


5、マカデミア産業のケニア周辺諸国への伝播

  ケニアのマカデミアは、以上のようにかなりユニークな経緯を辿り、品質的に多少難はあるものの、国際市場が好調に推移していることで堅調な需要があり、殻割加工された剥き実はそれなりに販路を確保して輸出されている。別の言い方をすれば、アフリカ人の小規模農家が現金収入の機会を得られる貴重な産業とみなされ、東アフリカのケニアの近隣諸国は、ケニアのマカデミア産業を成功例の見本として自国の産業として育成する機運が生まれている。

6、タンザニアのマカデミア産業

  1968年にケニアでBobs Harris氏がマカデミア苗木を販売した際に、タンザニア北部TangaLushoto地区にあったドイツ系ミッションが200本ほどの苗木を購入して植え付け、1980年代には収穫した殻付きナッツをケニアのKNC社へ売ったことがあったが、それ以上規模が拡大されることはなかった。

  新たな展開として、1986年には日本・ドイツの出資者達がタンザニア南西部Mahenge地区で、タンザニア政府から5万エーカー(2万ヘクタール)の土地の長期リースを受けて大規模なマカデミア農園開発を開始したものの、資金的・技術的な問題の上に政府とのトラブルもあり1995年頃に撤退している。

  その後、北部Ngorongoro外輪山麓でコーヒー農園を展開し、Arushaでコーヒー加工(Milling)のうえ生豆で輸出するインド系のファミリーが、Ngorongoroコーヒー農園で5万本以上のマカデミアを植え付け、現在はArushaで少量を殻割加工をして小売商品として国内市場で販売すると同時に、収穫した殻付きナッツを種豆として苗木用台木を育成して、その後、ケニアの承認品種を接ぎ木して苗木を生産して販売している。

  タンザニアでもマカデミアへの関心が高まりつつある中、苗木需要が急増しているため、苗木ビジネスとして成立している。

7、ウガンダへの伝播

  ウガンダでもマカデミアへの関心は高まっており、2002年にインド系の会社Amafa Farms Ltd.がケニアから接ぎ木されたマカデミア苗木を購入して500エーカーの植え付けを行った。現在、それらの木から収穫が出来る状態に達しているが、農園の保守管理が不十分で、未熟な加工工場も建設されたものの、独立したビジネスとして成り立っているとは言い難い状況のようだ。

  なお、ウガンダ政府として、マカデミア導入を模索したものの資金手当てが出来ず本格導入には至っていない。

8、ルワンダ

  1994年の大虐殺事件後の混乱を経て政権を掌握したカガメ(Kagame)大統領は、国家再興事業の一環としてマカデミア産業の導入を検討し、2000年に世界銀行にローンを申請し、2002年に認可された。

  ルワンダ政府はただちにケニア政府に支援を要請し、2002年にそれまで24年間続いたモイ(Moi)政権を打破して政権の座についたケニアのキバキ(Kibaki)大統領は、個人的に親しかったケニア最大の金融機関・Equity Bank会長にしてFarmnuts ( Equatorial) のオーナーのPeter Munga氏にルワンダでの苗木場の設立とそれに伴う殻付き種豆・接ぎ木用母木(承認済苗木)などの資材供給と、人材育成等を要請した。当時、ケニアのマカデミア産業のリーダー的存在であったKenya Nut Co. Ltd. (KNC)は、外国人(日本人)が関わっていると言うことでケニア政府からKNCへの直接のコンタクトはなく、ケニア純国産マカデミア技術をルワンダ政府に供与したことになるが、同時に、これはケニアの時代遅れの苗木生産技術を輸出し、ルワンダもインテ種とテトラ種が混在する品質問題を抱え込むことになった。

  ルワンダでのマカデミア苗木場建設を請け負ったのは、Farmnuts社の姉妹会社・Freshco Seed Co.Ltd.と云うケニアの会社で、ルワンダ法人・Freshco Seed Rwanda Co.Ltd.を設立し、ルワンダ農業省所有のMuyumbu Nurseryを借り受けて種豆播種、試験圃場の確立等に着手し、2005年には約5万本の苗木が配布できるまでこぎつけた。

  苗木配布にあたっては、ケニアのように不特定多数の小規模農家が苗木を購入した状況とは異なり、カガメ大統領が、1994年以前にウガンダ国内で反政府ゲリラ活動をしていた時代からカガメ将軍を支えてきて、1994年以降に退役した功労者に対して、退役後の生計が立てられるようにと100haから500haの土地を供与しており、この農業経験のない退役軍人に、かなりまとまった数量のマカデミア苗木が優先的に割り当てられた。

  2012年時点で、ルワンダ国内で85,000本から200,000本のマカデミアの木が植えられていると言う大雑把な報告があるものの( http://allafrica.com/stories/201110030239.html Rwanda:Country to embark on Macadamia Production) (http://focus.rw/wp/2011/10/rwanda-has-high-potential-for-macadami-study-shows/ )、実際に苗木生産と配布を担当したFreshco Seeds Rwanda Ltd.によると、配布された苗木は50,000本を上回ることはないとのことであった。

  つまり、優良品種を接ぎ木された約50,000本以外はほぼ全て実生の、それもテトラ種がそのまま苗木として民間(Commercial Nursery)から供給されたものと推測され、ケニアの問題がそのまま改善されることなく継承されたことになる。

現在(2014)、殻割り加工をする会社としてはすでに前述のケニアのFarmnuts/Freshco groupFreshco Macadamia Rwanda Ltd.と言う法人が設立し、ルワンダ政府との間に国内での苗木生産配布と殻割加工生産に関する覚書(Memorandum of Understanding : MOU)を交わしている。また、この会社とは別にいくつかの会社が設立され殻割加工を始めようとしているが、いずれも採算ベースの殻付きナッツ1000トン(In-Put)にははるかに及ばず、さらに、原料殻付ナッツの主生産者である素人退役軍人たちが、インターネットで豪州・南アの農民価格をチェックして、加工会社に対して彼らが生産する低品質の殻付ナッツの価格を、豪州・南ア並の価格での購入を要求するという倒錯した状況が発生している。

導入期に苗木生産を請け負ったFreshcoグループはケニアで承認された品種を接ぎ木して苗木を生産したが、台木(根部)用として持ち込んだテトラ種が不法に外部に流出し、接ぎ木がされないまま小規模農家に販売されたり、また、マカデミアへの関心の高まりとともに苗木需要の高騰するなか、民間の商業Nurseryがテトラ種を実生のまま再生産され苗木として販売しており、将来への課題を抱え込んでいる状況が続いている。

  

9、ブルンジ

  ブルンジについては、ルワンダの延長として、ルワンダのFreshco Rwandaが生産した苗木が北部Kayonza地区に配布されているが、まだ数百本程度で、ブルンジ政府としてもマカデミア産業振興政策を推進したいと思いつつも予算が付けられず手付かずの状態となっている。

10、南アフリカのマカデミアの現状

   南アフリカへのマカデミアの導入は1970年代後半、North-Eastern(Limpopo)の南アフリカ・ドライフルーツ組合(SAD)と英国系紅茶会社South Africa Pekoe Pty.Ltd(Sapekoe)が共同で、英国コモンウェルスの同盟国であるオーストラリア政府園芸局から、種豆とハワイで承認されていた接ぎ木済みの苗木を導入し、当初より選定された限定品種の生産をすすめ、生産された苗木は、North-Eastern州北部Levubu地区の白人農家によって植え付けが開始された。

  1980年代後半には最初の加工工場Zetpro Pty.Ltd.が設立され、その後、白人農園・Green Farms Macadamia Ltd.が独自に第二の加工工場を設立された。

  当時の南アフリカは、まだアパルトヘイト人種差別政策が続いており、白人の会社の多くは、たとえ賃金が低くとも一貫して黒人ワーカーに頼らないようにしており、居住区・工場敷地などの立ち入りも制限していたため、マカデミア加工工場でも、殻を割った後の殻と実の選別を黒人ワーカーを使って手選別をするようなことをせず、殻割後の殻・実が混ぜんとなっているものを水槽に入れて、油分の多い実は浮き、殻は水底に沈むという比重によって選別するという奇策を開発した。食用ナッツというものは通常極端に含水率が低いものなので、一度乾燥して含水率を下げたものを再び水に浸すというのはナッツ類加工では例がなく、ナッツ表面は水洗いされきれいになるとは言うものの、水選別直後に80℃以上の熱風で乾燥してもナッツ内部への水分移行は防ぎきれず品質への影響は明確になっているにも拘わらず、この手法は現在まで続き、南アのマカデミア選別は特異なものとなっている(一部はこの方法を不採用)

  南アフリカのマカデミアは、1900年代に入ると、北部Limpopo州から南のMpumalanga州へと産地を拡張し、南アフリカ全体の生産量としては1995年頃にケニアの生産量を上回るようになり、2005年頃にはハワイの生産量を超え、豪州に続く世界第二の生産国となった。現在は、 2010年以降、さらに南のKwazulu Natar州でも砂糖キビ・プランテーションであったところに大々的にマカデミアが植え付けられ、2012年には生産量でついに豪州を凌駕した。

  1994年のマンデラ政権誕生後、黒人に経済力をつけさせて生活水準向上を図るBlack Empowerment政策の一環として、黒人小規模農家でマカデミアを生産奨励するために共同組合を組織して原料殻付きナッツを生産し、さらに農業協同組合として殻割加工をしようと云う取り組みも試みられているが成功しているとは言えないようで、南アのマカデミア産業は依然として白人農家と加工会社によって支えられている。

  

10、マラウィ・ジンバブエとモザンビークへの伝播

   ジンバブエにマカデミアが導入されたのは南アフリカとほぼ同時期で、小量ではあるが1980年代には殻割加工をしてローストした小売商品として英国へ輸出された実績がある。これは、ジンバブエ南東部に100年以上前に入植していた白人ファミリーが豪州から導入したもので、これ以上の広がりはなく、ジンバブエとしての生産量は増えなかった。

   現在、ジンバブエのこの生産者は、原料として殻付きナッツのまま南アフリカの加工業者へ販売している。

   マラウィは1980年代後半に、英国公共機関Commonwealth Development Corporation (CDC)がマラウィ北部Muzuzu地区に所有していたにコーヒー農園が南アからマカデミア苗木を導入し、また、1990年代初めには南部Blantyre-Mulanje 一帯で多くの紅茶生産の大農園(32 Estates) を展開する英国系企業 (www.easternproduce.com/)も南アから苗木を購入して、紅茶の栽培に利用されていない土地にマカデミアを植え付けていった。

   現在、マラウィ国内には4 社のマカデミア加工会社があり、これらはいずれも自社農園で殻付きナッツを生産し、それを自社工場で加工するというスタイルで、現地アフリカ人の小規模農民が生産に関わるということはない。

   モザンビークは内戦が終了してしばらく年月が経ってからの2008年頃から南アフリカの白人が出資者を募って、モザンビーク北部マラウィ国境に近い標高の高い地区に土地を取得してマカデミア農園の開発を始めたグループがいくつかあり、現在、3-4のマカデミア・プロジェクトが進行中ではあるが、また、殻割加工工場を建設を始める段階には至っていない。

11、まとめ

   アフリカでのマカデミア生産は、ケニアから始まった小規模農家が原料殻付ナッツの生産の主体となった産業形態と、南アフリカを中心として展開された白人大規模農園が生産主体となるなっている形態となっており、これら東アフリカと南部アフリカが生産地となっており、それ以外のアフリカでは生産されていない。

   マカデミアの栽培に適した気候は、基本的にコーヒーと同じ気候条件で、いわゆるコーヒーベルトと言われる北回帰線と南回帰線に挟まれた亜熱帯気候で、赤道直下では標高1500メートル以上の高地で、緯度が上がるに従い標高が下がり北回帰線・南回帰線の緯度では標高の低い海面レベルの海岸地帯が栽培の適地となる。

   

   もともとオーストラリア東海岸の低地亜熱帯雨林地帯原産のマカデミアは、北回帰線の緯度となるハワイで産業と発達しただけに、開発された品種はその気候条件で適合するもので、ケニアのような東アフリカの赤道直下の高地では、ハワイ・豪州の最良品種が必ずしも同じ特質・生産性を発揮するとは限らず、ケニアの場合、ケニアで独自に選定されたインテ種の品種の方が、おおむね良い生産性を示している。

   そのような状況で、ケニアでは導入時に品種選定がされないという不運な状況で生産性・歩留まりが低いというハンディキャップを背負ったものの、品質を保つ努力と確かな販路を確立できれば、アフリカの小規模農家の収入向上に十分寄与できるものである。

  なお、世界各国の生産数量等のデータは、世界的な業界団体であるInternational Nut & Dried Fruit Councilのホームページ www.nutfruit.org/  で見ることが出来る。

アフリカのマカダミアナッツ産業 Part 1

60年前にケニアに導入された数百キロの殻付マカデミアナッツの種豆が、その後の曲折を経て産業として独自の発展を遂げ、アフリカの小規模農民が主な生産者となるという、大規模農園で生産される他の生産国とは明らかに違う形態で発展し、さらにケニア隣国へ波及している実態について述べます。

1、歴史的背景

  人類進化の狩猟採取の過程でほとんどの木の実は食されていましたが、オーストラリア東海岸地方原産で先住民アボリジニの人たちにはすでに食用となっていたマカデミアナッツは、1858年に植物調査をしていた英国王立博物館員らによって初めて欧米人に知られることとなり、当時、英国王立博物館館長のスコットランド人・John McAdam(ジョン・マカダム)氏のちなんで「McAdam Nuts」と命名され、それが「Macadamia Nut」の語源となったと云われている。

  1890年頃には当時すでに東豪州ニューサウスウェルズ州に入植していた白人農民によって試験的な栽培が始まったという記録がり、また、1900年前後には、当時のハワイの主産業であった砂糖産業の、砂糖キビ・プランテーションの防風林用の樹木としてハワイに導入され、それが第二次世界大戦前には食用ナッツとして家内工業的に手作業で堅い殻を割り、ロースト加工され食用ナッツとして産業化されていた。

  第二次世界大戦後、ハワイでは大規模な商業プランテーションとしてマカデミアの植え付けが始まり、同時に産業としての将来性を見込まれ豪州・クィーンズランドのPacific Sugar Refineryという砂糖会社によって豪州にハワイで確立された品種のマカデミアが再輸入され、また、同じころ米国カリフォルニア州の園芸農家でもマカデミアの植え付けが始まった。

  アフリカへのマカデミアの導入は、ケニアの独立前の1954年、ナイロビ郊外のThika市の近くに入植していた白人農園主Bobs Harris氏によって米国・カリフォルニア州からパイナップルの種子と同時にマカデミア殻付きナッツ(種豆)が輸入され、Harris氏の農園で播種された。

  なお、このとき導入されたパイナップルが、その後のデルモンテ(Del Monte)・パイナップルプランテーションと加工工場へと展開して行くことになった。

  1954年に播種されたマカデミアの種は、その後、発芽・成長し、1960年前後から次世代のナッツが収穫され、それらはすべて再生産用に再び種豆として播種され個体数増加が加速されることとなった。

  1963年に独立し、植民地政府を継いだケニア新政府は、それまでのコーヒー・紅茶などの換金作物に代わる新たな換金作物としてマカデミア導入を決定し、Bobs Harris氏はその苗木生産を請け負い、苗木生産を加速させ、19671968年の2年間にわたり825,000本の苗木をMeru,Embu, Kirinyagaのケニア山麓と、Nyeri,Muranga,Kiambuのアバディア山地東麓の小規模農家を対象として販売した。販売にあたっては「この木は成長するとKimboの原料となる油脂が生産できる実がなる」と云う口上で苗木1本あたり当時の価格でUS$3_ で販売された。Bobs Harris氏はこれで250万ドルの売上を達成出来たことになる。

( ; Kimboと云うのは、東アフリカでは植民地時代から普及していた料理用ショートニングの銘柄)

  しかし、これまでの過程で将来のケニアのマカデミア産業・マカデミア製品の決定的なハンディキャップとなる重要な点が見過ごされたまま苗木は販売されたことが20年後に問題となる。

それは、そのとき販売されたマカデミアの苗木は、品種の選定が全くされておらず、果樹では常識的に行われなければならない優良品種の「接ぎ木」などは考慮されない素人よる、単なる、芽が出た種豆をそのまま育種する(実生=みしょう)ということが行われたことである。

  マカデミアの品種は、マカデミア属が「発見」された1800年代後半に、すでに9品種が確認されており、その中から下記の3種が食用に適することが分っていた ;

Macadamia Ternifolia

Macadamia Tetraphylla (:ラグビーボール、表面:粗、糖分:多、油分:低い。= テトラ種)

Macadamia Integrifolia (:球体、表面:スムーズ、糖分:低、油分多。 =   インテ種)

  

  ハワイでは早くからインテ種の収量の多さ、殻と実の比率により歩留まり高いことと球形で加工しやすいことでインテ種が好んで植えられていて、根が丈夫と云われていたテトラ種を台木として、インテ種を穂木として接ぎ木をする方法が採用されるも、その後、台木(テトラ種)と穂木(インテ種)の成長速度の違いなどから根部と上部の不整合性が指摘され、インテ種で台木用()に選別された優良品種に、高収量のインテ種の穂木が接ぎ木される方法が世界的に普及している(ケニアでは現在も、テトラ種の台木使用する古い方法が続いている)

  以上の収量の違いや殻付きナッツの形状の違い以外に、ロースト加工業者などのエンドユーザーにとって決定的な問題は、品種の違いによる糖分・油分の含有量の違いが焼成後の色ムラとなり品質クレームとして顕在化するようになり、特に「見た目」にこだわる日本のユーザーには疎ましい問題となった。

  つまり、ケニアに導入された殻付きの種豆ははじめからテトラ種とインテ種が区別されることなく全て混同され、さらに、品種が選定され接ぎ木などもされることもなく種子が芽を出して生長する実生(みしょう)の状態のものが「苗木」として、1967年と1968年の2年間にわたって825,000本がケニアの小規模農家に配布されたことになる。

2、加工会社・Kenya Nut社の設立と殻割加工の開始

  1970年代に入ると、1967/1968年に配布された苗木から殻付きナッツが収穫できる段階になったものの、苗木を販売したBobs Harris氏には殻付きナッツを購入して殻割加工ができるような準備はなく、多くの農民は殻付きナッツが収穫できるようになってもこれらの売り先がなく、農民が木を伐採して焚き木にしたり、ナッツが実っても収穫されずに畑で放置されるという状態が続いた。

  そのような状況になかで、日本人グループがマカデミアの産業化の検討を開始して、最終的に当時、日本で共産圏相手に貿易をしていて日中友好商社の指定も受けていた産業貿易株式会社(現存せず)が出資してケニア人出資者とともに合弁事業として1974年にKenya Nut Co.Ltd.(KNC)を設立し、明治製菓(現・明治)の技術支援を受けてナイロビの北40キロにある工業都市シカ(Thika)に殻割加工工場を建設し、1975年から殻付きナッツの買い付けを始め殻割加工を開始した。

  1967/1968年にケニア人の小規模農家に苗木が販売されたときには、各地でコーヒー生産・集荷を統括するコーヒー生産者組合(農協)を通して配布しており、マカデミア生産者は基本的には農協組合員であることから、小規模農家が生産した殻付きマカデミアも農協のコーヒー集荷システムを活用して買い付けるシステムが作られた。

  1975年の初年度の殻付きナッツ買い付け数量は約500トンで、殻割加工設備も小規模なもので、殻割後選別した実(Kernel)20kgブリキ缶にビニールの内袋に詰められ、真空包装などの処理はされておらず品質などたいして気にしないのどかなスタートで、異品種の混合によるロースト焼きムラなどと云うことが問題になる以前の商品品質で始まったことになる。

  その後、KNCは買い付け数量を増やすことと同時に、国立園芸試験場(Kenya Agricultural Research Institute=KARI, National Horticulture Research Station )JICA(国際協力機構)が派遣した日本人専門家と協力してインテ種の中から優良品種を特定し、暫定推奨種として接ぎ木をした苗木の生産を増やして行くことになる。

  買付数量と云う点では、1980年に殻付きナッツの買い付け量が1000トンに達し、殻割加工工場の採算最少数量といわれる殻付きナッツ処理量1000トンに達したことになる。同時に、品質の点でも改善が進み80年代中盤になってナッツ加工工場の体裁を整え、ほぼ全量を輸出していた日本での品質の評価も安定するようになった。

1980年代後半になると、コーヒー・紅茶などのケニアの他の代表的な換金作物の国際価格の下落と、国内生産・販売の中核となっていた農協組織の経営能力不足と組織の腐敗で農民の現金収入が激減するに伴い、マカデミアの地位が相対的の向上し農民の生産意欲も高まり苗木需要が高騰することになる。と同時に、1990年前後の世界的な民主化・自由化の流れのなかで、それまでKNCの一社独占の状況を打破すべく新たな殻割加工会社設立を模索する動きが始まり、1992年に新会社Kenya Farmnut社(現・Equatorial Nut Processors Ltd.)が設立され、KNCとの原料と

なる殻付きナッツの買い付け競争が始まることとなった。

  それは、KNCがそれまで各地農協を経由して原料を買い付けて農民への支払は農民個々の銀行口座に代金を直接振り込むDirect Payment System に対し、Farmnuts社は農民から直接現金払いで原料殻付きナッツを買い付けるということを開始したため、KNCを同じ土俵に引っ張り出し全て現金買いへ移行すると云うことになり、これ以降、ケニア国内での原料買いは全て現金買付けとなった。

3、新規加工業者の参入

  1990年代当初はKNCFarmnuts2社による買い付け競争が繰り広げられていたが、国際的にマカデミアナッツの知名度も上がり需要が増えるに従い、90年代後半にはケニア海岸地方でカシューナッツの加工をしていたWondernuts社が第3のマカデミア殻割加工工場を始動させ、その後、2000年を過ぎると他にJunglenuts社、Embu市にMt.Kenya Nut社が設立され続々と新規参入が増えて行き、2014年の時点では、年間2000トン以上の殻付きナッツを加工する会社は6社となっている。なお、ケニア政府は殻割加工のされない殻付きナッツの輸出を禁止しているものの、数千トンが殻付きのまま不法に国外へ輸出されていると推定されている。



4、ケニアのマカデミア産業の問題点

  以上のとおり、原料殻付きナッツの供給を小規模農民に依存しているケニアの状況は特異なもので、ある程度のサイズの圃場で選定された多収量・高歩留が期待される特定の品種を選定して植え、その上で害虫駆除・施肥などの農園での品質管理が徹底されている豪州・南アフリカなどの他の生産国と比べ、ケニアのマカデミアは品質・生産性などの点で大きなハンディキャップを負っていることになる。

  さらに、他の生産国では30年前に停止しているテトラ種を接ぎ木された苗木生産の際に台木(根部)に使うという古い方法が今でも国立園芸試験場(KARI)で続けられており、技術革新が適応されておらず、今日にいたるまでインテ種とテトラ種混合の殻付きナッツが生産され、各加工業者はそれらを原料用殻付きナッツとして購入して加工するという状況が続いている。

  マカデミアの品種、インテ種とテトラ種が混じるとなにが問題なのかと言うと、殻割加工をする業者にとっては、殻付きナッツの形がインテ種は球体なのに対し、テトラ種は表面がごつごつでラクビーボールのような長球体で殻割前のサイズ選別が正確に行われず、殻だけを割って実はまん丸のまま取り出す殻割精度が下がり、また、テトラ種は殻が厚く割りにくく、割ったあとの実と殻の比率では殻の割合が大きくなる(実の歩留まりが低い)

  しかし、本当に深刻な問題は殻割加工をする会社ではなく、これらインテ種とテトラ種が混じった剝き実(Kernel)を購入してロースト加工する消費地の最終ユーザーにとってであり、品種の違いによる糖分のばらつきはロースト後の焼きムラ(色ムラ)となってあらわれ、品質問題として露呈することである。特に、これは品質に厳しい日本のユーザーには深刻な問題となる。

  このように、インテ種とテトラ種が混じったケニアの小規模農家からの原料ナッツを扱わなければならないケニアの加工業者は大変だけれども、殻割前にテトラ種とインテ種の混じった原料を選別することはほぼ不可能であるため、原料の産地別にロット分けをして加工したり、最終ユーザーに対して焼成温度・焼成時間を調整して色ムラを低く抑える焼成ノウハウを指導したりというキメ細かいアフターサービスが必要となるが、それを怠ると2005年にKNC社製品が日本市場から放逐されたケースのようなことも起こり得る( 日本ナッツ協会通関統計www.jan-nut.com/us/yn_toke.html )




.........................................../ to be continued

もう一回