アフリカのマカダミアナッツ産業 Part 1
60年前にケニアに導入された数百キロの殻付マカデミアナッツの種豆が、その後の曲折を経て産業として独自の発展を遂げ、アフリカの小規模農民が主な生産者となるという、大規模農園で生産される他の生産国とは明らかに違う形態で発展し、さらにケニア隣国へ波及している実態について述べます。
1、歴史的背景
人類進化の狩猟採取の過程でほとんどの木の実は食されていましたが、オーストラリア東海岸地方原産で先住民アボリジニの人たちにはすでに食用となっていたマカデミアナッツは、1858年に植物調査をしていた英国王立博物館員らによって初めて欧米人に知られることとなり、当時、英国王立博物館館長のスコットランド人・John McAdam(ジョン・マカダム)氏のちなんで「McAdam Nuts」と命名され、それが「Macadamia Nut」の語源となったと云われている。
1890年頃には当時すでに東豪州ニューサウスウェルズ州に入植していた白人農民によって試験的な栽培が始まったという記録がり、また、1900年前後には、当時のハワイの主産業であった砂糖産業の、砂糖キビ・プランテーションの防風林用の樹木としてハワイに導入され、それが第二次世界大戦前には食用ナッツとして家内工業的に手作業で堅い殻を割り、ロースト加工され食用ナッツとして産業化されていた。
第二次世界大戦後、ハワイでは大規模な商業プランテーションとしてマカデミアの植え付けが始まり、同時に産業としての将来性を見込まれ豪州・クィーンズランドのPacific Sugar Refineryという砂糖会社によって豪州にハワイで確立された品種のマカデミアが再輸入され、また、同じころ米国カリフォルニア州の園芸農家でもマカデミアの植え付けが始まった。
アフリカへのマカデミアの導入は、ケニアの独立前の1954年、ナイロビ郊外のThika市の近くに入植していた白人農園主Bobs Harris氏によって米国・カリフォルニア州からパイナップルの種子と同時にマカデミア殻付きナッツ(種豆)が輸入され、Harris氏の農園で播種された。
なお、このとき導入されたパイナップルが、その後のデルモンテ(Del Monte)・パイナップルプランテーションと加工工場へと展開して行くことになった。
1954年に播種されたマカデミアの種は、その後、発芽・成長し、1960年前後から次世代のナッツが収穫され、それらはすべて再生産用に再び種豆として播種され個体数増加が加速されることとなった。
1963年に独立し、植民地政府を継いだケニア新政府は、それまでのコーヒー・紅茶などの換金作物に代わる新たな換金作物としてマカデミア導入を決定し、Bobs Harris氏はその苗木生産を請け負い、苗木生産を加速させ、1967年1968年の2年間にわたり825,000本の苗木をMeru,Embu, Kirinyagaのケニア山麓と、Nyeri,Muranga,Kiambuのアバディア山地東麓の小規模農家を対象として販売した。販売にあたっては「この木は成長するとKimboの原料となる油脂が生産できる実がなる」と云う口上で苗木1本あたり当時の価格でUS$3_ で販売された。Bobs Harris氏はこれで250万ドルの売上を達成出来たことになる。
( 注; Kimboと云うのは、東アフリカでは植民地時代から普及していた料理用ショートニングの銘柄)
しかし、これまでの過程で将来のケニアのマカデミア産業・マカデミア製品の決定的なハンディキャップとなる重要な点が見過ごされたまま苗木は販売されたことが20年後に問題となる。
それは、そのとき販売されたマカデミアの苗木は、品種の選定が全くされておらず、果樹では常識的に行われなければならない優良品種の「接ぎ木」などは考慮されない素人よる、単なる、芽が出た種豆をそのまま育種する(実生=みしょう)ということが行われたことである。
マカデミアの品種は、マカデミア属が「発見」された1800年代後半に、すでに9品種が確認されており、その中から下記の3種が食用に適することが分っていた ;
Macadamia Ternifolia
Macadamia Tetraphylla (形:ラグビーボール、表面:粗、糖分:多、油分:低い。= テトラ種)
Macadamia Integrifolia (形:球体、表面:スムーズ、糖分:低、油分多。 = インテ種)
ハワイでは早くからインテ種の収量の多さ、殻と実の比率により歩留まり高いことと球形で加工しやすいことでインテ種が好んで植えられていて、根が丈夫と云われていたテトラ種を台木として、インテ種を穂木として接ぎ木をする方法が採用されるも、その後、台木(テトラ種)と穂木(インテ種)の成長速度の違いなどから根部と上部の不整合性が指摘され、インテ種で台木用(根)に選別された優良品種に、高収量のインテ種の穂木が接ぎ木される方法が世界的に普及している(ケニアでは現在も、テトラ種の台木使用する古い方法が続いている)。
以上の収量の違いや殻付きナッツの形状の違い以外に、ロースト加工業者などのエンドユーザーにとって決定的な問題は、品種の違いによる糖分・油分の含有量の違いが焼成後の色ムラとなり品質クレームとして顕在化するようになり、特に「見た目」にこだわる日本のユーザーには疎ましい問題となった。
つまり、ケニアに導入された殻付きの種豆ははじめからテトラ種とインテ種が区別されることなく全て混同され、さらに、品種が選定され接ぎ木などもされることもなく種子が芽を出して生長する実生(みしょう)の状態のものが「苗木」として、1967年と1968年の2年間にわたって825,000本がケニアの小規模農家に配布されたことになる。
2、加工会社・Kenya Nut社の設立と殻割加工の開始
1970年代に入ると、1967/1968年に配布された苗木から殻付きナッツが収穫できる段階になったものの、苗木を販売したBobs Harris氏には殻付きナッツを購入して殻割加工ができるような準備はなく、多くの農民は殻付きナッツが収穫できるようになってもこれらの売り先がなく、農民が木を伐採して焚き木にしたり、ナッツが実っても収穫されずに畑で放置されるという状態が続いた。
そのような状況になかで、日本人グループがマカデミアの産業化の検討を開始して、最終的に当時、日本で共産圏相手に貿易をしていて日中友好商社の指定も受けていた産業貿易株式会社(現存せず)が出資してケニア人出資者とともに合弁事業として1974年にKenya Nut Co.Ltd.(KNC社)を設立し、明治製菓(現・明治)の技術支援を受けてナイロビの北40キロにある工業都市シカ(Thika)に殻割加工工場を建設し、1975年から殻付きナッツの買い付けを始め殻割加工を開始した。
1967/1968年にケニア人の小規模農家に苗木が販売されたときには、各地でコーヒー生産・集荷を統括するコーヒー生産者組合(農協)を通して配布しており、マカデミア生産者は基本的には農協組合員であることから、小規模農家が生産した殻付きマカデミアも農協のコーヒー集荷システムを活用して買い付けるシステムが作られた。
1975年の初年度の殻付きナッツ買い付け数量は約500トンで、殻割加工設備も小規模なもので、殻割後選別した実(Kernel)は20kgブリキ缶にビニールの内袋に詰められ、真空包装などの処理はされておらず品質などたいして気にしないのどかなスタートで、異品種の混合によるロースト焼きムラなどと云うことが問題になる以前の商品品質で始まったことになる。
その後、KNCは買い付け数量を増やすことと同時に、国立園芸試験場(Kenya Agricultural Research Institute=KARI, National Horticulture Research Station )とJICA(国際協力機構)が派遣した日本人専門家と協力してインテ種の中から優良品種を特定し、暫定推奨種として接ぎ木をした苗木の生産を増やして行くことになる。
買付数量と云う点では、1980年に殻付きナッツの買い付け量が1000トンに達し、殻割加工工場の採算最少数量といわれる殻付きナッツ処理量1000トンに達したことになる。同時に、品質の点でも改善が進み80年代中盤になってナッツ加工工場の体裁を整え、ほぼ全量を輸出していた日本での品質の評価も安定するようになった。
1980年代後半になると、コーヒー・紅茶などのケニアの他の代表的な換金作物の国際価格の下落と、国内生産・販売の中核となっていた農協組織の経営能力不足と組織の腐敗で農民の現金収入が激減するに伴い、マカデミアの地位が相対的の向上し農民の生産意欲も高まり苗木需要が高騰することになる。と同時に、1990年前後の世界的な民主化・自由化の流れのなかで、それまでKNCの一社独占の状況を打破すべく新たな殻割加工会社設立を模索する動きが始まり、1992年に新会社Kenya Farmnut社(現・Equatorial Nut Processors Ltd.)が設立され、KNCとの原料と
なる殻付きナッツの買い付け競争が始まることとなった。
それは、KNCがそれまで各地農協を経由して原料を買い付けて農民への支払は農民個々の銀行口座に代金を直接振り込むDirect Payment System に対し、Farmnuts社は農民から直接現金払いで原料殻付きナッツを買い付けるということを開始したため、KNCを同じ土俵に引っ張り出し全て現金買いへ移行すると云うことになり、これ以降、ケニア国内での原料買いは全て現金買付けとなった。
3、新規加工業者の参入
1990年代当初はKNCとFarmnuts社2社による買い付け競争が繰り広げられていたが、国際的にマカデミアナッツの知名度も上がり需要が増えるに従い、90年代後半にはケニア海岸地方でカシューナッツの加工をしていたWondernuts社が第3のマカデミア殻割加工工場を始動させ、その後、2000年を過ぎると他にJunglenuts社、Embu市にMt.Kenya Nut社が設立され続々と新規参入が増えて行き、2014年の時点では、年間2000トン以上の殻付きナッツを加工する会社は6社となっている。なお、ケニア政府は殻割加工のされない殻付きナッツの輸出を禁止しているものの、数千トンが殻付きのまま不法に国外へ輸出されていると推定されている。
4、ケニアのマカデミア産業の問題点
以上のとおり、原料殻付きナッツの供給を小規模農民に依存しているケニアの状況は特異なもので、ある程度のサイズの圃場で選定された多収量・高歩留が期待される特定の品種を選定して植え、その上で害虫駆除・施肥などの農園での品質管理が徹底されている豪州・南アフリカなどの他の生産国と比べ、ケニアのマカデミアは品質・生産性などの点で大きなハンディキャップを負っていることになる。
さらに、他の生産国では30年前に停止しているテトラ種を接ぎ木された苗木生産の際に台木(根部)に使うという古い方法が今でも国立園芸試験場(KARI)で続けられており、技術革新が適応されておらず、今日にいたるまでインテ種とテトラ種混合の殻付きナッツが生産され、各加工業者はそれらを原料用殻付きナッツとして購入して加工するという状況が続いている。
マカデミアの品種、インテ種とテトラ種が混じるとなにが問題なのかと言うと、殻割加工をする業者にとっては、殻付きナッツの形がインテ種は球体なのに対し、テトラ種は表面がごつごつでラクビーボールのような長球体で殻割前のサイズ選別が正確に行われず、殻だけを割って実はまん丸のまま取り出す殻割精度が下がり、また、テトラ種は殻が厚く割りにくく、割ったあとの実と殻の比率では殻の割合が大きくなる(実の歩留まりが低い)。
しかし、本当に深刻な問題は殻割加工をする会社ではなく、これらインテ種とテトラ種が混じった剝き実(Kernel)を購入してロースト加工する消費地の最終ユーザーにとってであり、品種の違いによる糖分のばらつきはロースト後の焼きムラ(色ムラ)となってあらわれ、品質問題として露呈することである。特に、これは品質に厳しい日本のユーザーには深刻な問題となる。
このように、インテ種とテトラ種が混じったケニアの小規模農家からの原料ナッツを扱わなければならないケニアの加工業者は大変だけれども、殻割前にテトラ種とインテ種の混じった原料を選別することはほぼ不可能であるため、原料の産地別にロット分けをして加工したり、最終ユーザーに対して焼成温度・焼成時間を調整して色ムラを低く抑える焼成ノウハウを指導したりというキメ細かいアフターサービスが必要となるが、それを怠ると2005年にKNC社製品が日本市場から放逐されたケースのようなことも起こり得る( 日本ナッツ協会通関統計www.jan-nut.com/us/yn_toke.html
)。
.........................................../ to be continued