3月17日の出来事
朝6時45分に格好いいおじさまと可愛いおばさまに迎え入れてもらった西東京市保谷町の居候先を出発し徒歩で40分以上かけて南大泉町の横田設備工業の事務所まで行き、そこから毎日違う現場へ向かう。遠い所で車で2時間の現場もある。会社の従業員さんたちはみんな親切に細かい技術まで見せてくれたので何でも見て学んだ。ある大手チェーンホテルではいわきってだけで宿泊を断ってる状況なのに温かく迎えいれてくれた横田設備の社長はじめ従業員の皆さまにはとても感謝している。17日夜いわきプリンスの社長から電話があった。ホテルのお客様が全員チェックアウトしたので原発も悪化してるから一度閉めて社長の弟さんのとこ、つまり僕らがお世話になってる所に18日の夜に来る、と。ちょうどこの連絡をいただいた時は水道配管業の現場を終えフロント伊東と共に徒歩40分の帰り道を歩いていた。
東京の方でも大震災の影響は出ていた。計画停電や節電で夜の東京もたくさんのコンビニやお店は自主的に灯りを消しながら営業していた。
放射能の影響で若者たちはほとんどいわきには残っていない。残っているのはガソリンがなく逃げたくても逃げれない人たちと最後までいわきに残ると覚悟を決めている人たちだけ。いわきに戻れる日が来るのか…。常にそればかりだった。
大震災の翌日の早朝に来てくれた佐藤さんのことも心配になった。彼は4月中旬からいわきプリンスホテルで働く予定だが、僕にできることは何かないですかとたくさんの乾パンをどこからか調達してきてくれた。更に朝までフロントでパニックになっていた外国人のお客様たちに流暢な英語で話をしてくれていた。
彼は今頃まだいわきにいるのだろうか。無事だろうか。。。東京にいる間はたくさんの人たちの安否…そればかり考えていた。 (つづく)
東京の方でも大震災の影響は出ていた。計画停電や節電で夜の東京もたくさんのコンビニやお店は自主的に灯りを消しながら営業していた。
放射能の影響で若者たちはほとんどいわきには残っていない。残っているのはガソリンがなく逃げたくても逃げれない人たちと最後までいわきに残ると覚悟を決めている人たちだけ。いわきに戻れる日が来るのか…。常にそればかりだった。
大震災の翌日の早朝に来てくれた佐藤さんのことも心配になった。彼は4月中旬からいわきプリンスホテルで働く予定だが、僕にできることは何かないですかとたくさんの乾パンをどこからか調達してきてくれた。更に朝までフロントでパニックになっていた外国人のお客様たちに流暢な英語で話をしてくれていた。
彼は今頃まだいわきにいるのだろうか。無事だろうか。。。東京にいる間はたくさんの人たちの安否…そればかり考えていた。 (つづく)
13時間かけて東京へ着いた16日朝からのできごと。
17日より水道配管工事の仕事が始まることになり用意と津波で被害も受けてしまったにも関わらず13日のナイト勤務に来てくれた女性フロントがこの日出勤日なので来ないで避難してくれと昼間メールを入れた。13日に彼女はガソリンがあと帰る分くらいしか無いのに来てくれた。お礼に無料送迎車のベンツからハイオクを抜き取り満タンにしてあげた。
16日の夕方いわきプリンスホテルに電話を入れた。なっなんと電話に出たのはその一番大変な思いをしても来てくれた元プロボディボーダーでもある彼女だった。責任感の強い彼女は僕のメールを気にともせず出勤していたのだ。
伊東や教習生の他に勇敢な従業員がここにもいた。
帰りたくても帰れない状況、もしかしたら社長たちを失うかもしれない状況。。。非常な状況の中
原発が落ち着くまで水道配管工事の現場をたくさん経験して、プリンスホテルを絶対復興すると近い いつまで続くかわからない東京の仕事についた。会社名は横田設備工業、東京都の指定水道配管業者である。
外向が多かったが、パイプの種類、エルボー、チーズなど、またハツリや勾配などたくさん学ぶことができた。
7日間でいわきに戻ることになることは まだこの時点では知る由もなかった。(つづく)
16日の夕方いわきプリンスホテルに電話を入れた。なっなんと電話に出たのはその一番大変な思いをしても来てくれた元プロボディボーダーでもある彼女だった。責任感の強い彼女は僕のメールを気にともせず出勤していたのだ。
伊東や教習生の他に勇敢な従業員がここにもいた。
帰りたくても帰れない状況、もしかしたら社長たちを失うかもしれない状況。。。非常な状況の中
原発が落ち着くまで水道配管工事の現場をたくさん経験して、プリンスホテルを絶対復興すると近い いつまで続くかわからない東京の仕事についた。会社名は横田設備工業、東京都の指定水道配管業者である。
外向が多かったが、パイプの種類、エルボー、チーズなど、またハツリや勾配などたくさん学ぶことができた。
7日間でいわきに戻ることになることは まだこの時点では知る由もなかった。(つづく)
14日以降と社長命令
14日は妊婦で体調もあまりよろしくないがフロント松本がホテルに出勤してくれた。おかげさまで社長、部長、伊東と僕の4人でまた水くみに行くことができた。
この日のナイトも、もちろん伊東と僕だ。この日は8階までお客様が入った。
外国のお客様については全員チェックアウトした。何故かと言えば地震の影響で起きた原発事故をものすごく恐れていたからだった。
仕事そっちのけで交通機関が停止してる中にも関わらず全員帰った。
15日朝、応援部隊と双葉から避難して泊まっていたおばあちゃんだけになった。
朝になり部長も社長も出勤した所で一階レストラン奥で仮眠に入った。 だが いわき市に屋内退避勧告出されたよ と言う言葉で二時間もしないうちに起こされた。
そしてついに社長命令が下った。
内容は 若者は東京に一先ず避難しろ、もし社長たちに何かあったら、その時は僕ら若者で立て直せ。と言う戦争時のような命令だった。
何があっても僕には3代目として立て直す使命がある。辛く苦しい別れになったが東京に避難することになった。
無料送迎車で何も持たずに夕方出発。4号線を下り栃木県を抜け埼玉経由の東京へ着いたのは翌朝の7時だった。
着いたその日に居候先の主より ただうちにこもっててもしゃあないだろ と水道の配管工事の仕事を明日から働けるよう手配してくれた。
いわきで水で散々苦しい思いをして 東京ではその配管工事の仕事。不思議な縁である。
伊東も僕も現場作業は初めてでは無いため即戦力にもなれた。
いわきプリンスホテルの周りの地盤が結構沈んだので いわきへ帰ったら水道の配管工事を自分たちでできるよう1日1日が日々勉強だ。
いわきのことを考えるとジッとただ避難してるなんてできるはずなかったし、配管工事の技術も学べるなんて僕らは非常に恵まれていると感謝している。
(つづく)
この日のナイトも、もちろん伊東と僕だ。この日は8階までお客様が入った。
外国のお客様については全員チェックアウトした。何故かと言えば地震の影響で起きた原発事故をものすごく恐れていたからだった。
仕事そっちのけで交通機関が停止してる中にも関わらず全員帰った。
15日朝、応援部隊と双葉から避難して泊まっていたおばあちゃんだけになった。
朝になり部長も社長も出勤した所で一階レストラン奥で仮眠に入った。 だが いわき市に屋内退避勧告出されたよ と言う言葉で二時間もしないうちに起こされた。
そしてついに社長命令が下った。
内容は 若者は東京に一先ず避難しろ、もし社長たちに何かあったら、その時は僕ら若者で立て直せ。と言う戦争時のような命令だった。
何があっても僕には3代目として立て直す使命がある。辛く苦しい別れになったが東京に避難することになった。
無料送迎車で何も持たずに夕方出発。4号線を下り栃木県を抜け埼玉経由の東京へ着いたのは翌朝の7時だった。
着いたその日に居候先の主より ただうちにこもっててもしゃあないだろ と水道の配管工事の仕事を明日から働けるよう手配してくれた。
いわきで水で散々苦しい思いをして 東京ではその配管工事の仕事。不思議な縁である。
伊東も僕も現場作業は初めてでは無いため即戦力にもなれた。
いわきプリンスホテルの周りの地盤が結構沈んだので いわきへ帰ったら水道の配管工事を自分たちでできるよう1日1日が日々勉強だ。
いわきのことを考えるとジッとただ避難してるなんてできるはずなかったし、配管工事の技術も学べるなんて僕らは非常に恵まれていると感謝している。
(つづく)