「神より始まる」ヘブル12:14-24 | ロックな税理士 原 眞人の「プロ社長を目指せ!」 伊豆夢(イズム)の日記

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ロックな税理士、原 眞人(ハラマサト)です。

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川奈聖書教会・火曜礼拝における

山口光仕牧師の説教をもとに編集したものであり

オリジナルの説教とは多少、

異なることをご理解下さい。

■「神より始まる」ヘブル12:14-24


1.「平和を追い求めよ」

出口の見えない迫害の中にある初代教会に向けられた励ましの言葉。

真っすぐ立っていることができなくなってしまったキリスト者たちに、

よろめく膝を真っすぐにせよとの教えを前回学びました。

続きます14節ですが

「すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。

聖さがなければ、だれも主を見ることができません。」


ここで若干唐突にも感じられるのですが

「平和を追い求めよ」と平和論が語られる。

もちろんキリスト者が平和を追い求めるべきであるのは当然です。

もしここで初代教会の人々が例えば自分たちの信仰ゆえに

武器を取ってローマ帝国に戦いを挑み、血を流してでも

教会の自由を確保しようと、そういうことをしていたのなら

この勧めは分かる訳ですけれども、この時代の教会に

そんな力はありません。

彼らは一方的にローマ帝国から苦しめられるのみ。

傷つけられるのみ。ひたすら耐え忍んでいたのです。

そういうキリスト者たちに「平和を追い求めよ」と教える。

平和を願い祈るというのならある程度意味は分かります。

けれども、この所においては明らかに彼らに平和を追求する、

平和の人になることが教えられている。

一方的にやられている方が、どうやって平和を追い求めたら良いのか?

この手紙を読んだキリスト者たちは大いに戸惑ってあろうと思います。

この御言葉の意味は、平和と並列に「聖められること」、

聖さを求めよと教えられている所に大きなヒントがあります。

平和を追い求めよ、即ち聖さを追い求めよ、

こう言い換えても良いかもしれません。 

つまり、迫害を受ける一方の初代教会の人々が

平和を積極的に生み出していく道がある。

それは神の聖さを求めること。言い換えるならば、

あなた方の内には神の聖さが無い。

だから平和が無いのだ、そういうことでもあります。

2.無制限の医療化

平和というプラカードを掲げ、戦争に反対し、

平和運動を展開したらそれが平和を追求することになるのか?

と言えばそうではありません。平和を求めるという人たちの内に

平和を壊してしまう心が、戦争に反対するという主張の中に

戦争を生み出す要因になる心が潜んでいることは

幾らでもあるのではないでしょうか。 

近年、医療化ということがしばしば話題になります。

医療化というのは、これまで医療的問題ではなかった事柄が、

医療の問題として取り扱われ、治療の対象となっていく

ことを指す言葉です。

様々な問題が医療的な事柄として取り上げられるようになる。

例えば、昔であれば「あの子は落ち着きが無いね」と言われていた子が、

今は「あの子はADHDだね」と医療の問題として整理される。

肥満はメタボリックシンドロームという医療の問題になる。

直ぐに病名がつき、治療法が提示される。 

医療化が一概に悪い訳ではありません。

例えば自分のお子さんがどうして学校で上手くいかないのか、

学習障害という一つのくくりの中でお子さんを見た時に

良く理解できるようになる。そういうプラスの面はある訳ですが、

一方で20世紀の半ばに活躍したフランスの哲学者

ミシェル・フーコーは「無制限の医療化」という警笛を

鳴らしたことで知られます。

あらゆるものが医療化されることによって、

医療によって人間の健全性が測られるようになるだろう。

やがて人間は、医療を測りとした

健康・健全の奴隷になっていくというフーコーの危惧は

半世紀以上が経って正にその通りの状況にあると言えるでしょう。 

医療というのは健康を生み出すためのものであるようでいて、

しかし皮肉なことに医療が病気を作っていく、

そういう側面があるわけです。

様々な病気を生み出すことが、医療の価値を高めていくという皮肉。 

平和も同じようなものになりかねない。

平和を叫ぶことに自らの価値を見出すのであれば、

平和を叫ぶためには争いが必要、戦争が必要である

という矛盾が起きてしまいます。

皮肉なことに、争いを生み出してしまう平和運動、戦争を

生み出してしまう反戦運動というのが幾らでもあると思うのです。

聖書が平和を求めよ、聖さを求めよと言った時に、

そのような争いを必要とする平和ではない。

誠に平和を求めるとはいかなることか、

そのことを私たちに教えているのです。

3.聖さ

平和を求めるとは、神様の聖さを追求するところにある。

神の聖さがこそが平和を生み出す唯一の道であるというのです。

そうすると、今度は私たちが聖さを求めるとは

いかなることかを学ばなければいけない。

旧約聖書が書かれたヘブル語において「聖さ」「聖」

という言葉は、元々「区別する」「分離する」

というような意味があります。

この世の汚れから区別されている、分離されている。

神様というのは真っ白なお方。一点の汚れも曇りも無い。

その神の聖さは、私たちの生きるこの世とは区別されたものです。

例えば絵具のことを考えて、濁った色に

白い絵の具をたくさん入れることで

白に近づいていくことは出来るでしょう。

けれども決して白くはならない。

そういう意味での聖さを追い求めるとしたら、

結局それは自分よりも白いか、自分よりも

白くないかという人との比較に陥らざるを得ない。

それは、聖書が教える聖さとは違います。

聖書が教える聖さとは、先程申し上げたように区別されている。 

どちらが白に近いかと比べ合う偽物の聖さから区別され、

汚れを知らない真の聖である神様に属する者とされる。

自分自身が白いか黒いか、どのくらい白に近づいたかではなくて、

私たちが神様の聖さに属するものとされる。

そのことを求めていくのが本当に聖さを求める歩みです。 

真の聖さは私たちの内側から決して生まれない。

すでに垂らしてしまった黒い絵の具を

無かったことにはできないのです。

そのことが分からなくなった時に、私たちの聖さを求める思いは

逆に平和を壊すものになる。愛とは逆の方向に進んでいくのです。

4.「聖証者」と「棄教者」

キリスト教会の歴史の初期、3世紀半ばに起こったデキウスの迫害。

ローマ帝国が衰退していく時代の中で、皇帝デキウスは

ローマの衰退の原因は古代ローマの神々への信仰を

捨ててしまったことによると考えるのです。

古代ローマの神々を礼拝しないことは反逆罪として

厳しく取り締まります。

そこで迫害の中心に居たのは異教の神々を礼拝することを

拒むキリスト者でありました。

しかし、そうやってキリスト者を迫害する中で

皇帝デキウスは一つのことに気がつくのです。

クリスチャンというのは殉教者が出るごとにむしろ力を増していく。

殉教したキリスト教徒の姿に感銘を受けて、

かえってキリスト教徒が増えてしまったからです。

そこで彼は教会を迫害しながらキリスト者を殺さず、

激しい拷問を加えて行く。殺すことではなく、拷問を通して

信仰を捨てさせることに重きを置くのです。

実際、そのようなデキウスの迫害の中で、

相当数のクリスチャンが拷問に耐えかねて信仰を離れました。 

そういう中で一つの問題が教会の中に起こる。

拷問によって苦しめられ、ついに信仰を捨ててしまった棄教者が、

自分の過ちを悔い改めもう一度教会に戻りたい、

信仰を回復したいと願う。そういう棄教者の扱いをめぐって

教会の中に激しい議論が起こるのです。

結局、棄教者の取り扱いはキリスト教会が分裂しかねない

大問題にまで発展してしまいます。 

ここで問題になったのは一度信仰を捨てながら

もう一度教会に戻りたいと願った棄教者の存在ではなかったのです。

問題の本質は、拷問に耐え抜き信仰を守り通した人の存在でありました。

これまでも教会は度重なる迫害を経験しておりました。

そこで数え切れない人々が殉教の死を遂げていた。

そしてしばしば殉教者たちは聖人として祭り上げられていた。

それでも、殉教者というのはもう死んでいる。

そこにはいないから良いのです。 

デキウスの迫害は基本的に殺すことをしない迫害。

ですから拷問に耐え抜いて教会に戻ってくるキリスト者たちが居たのです。

彼らは「聖証者」と呼ばれて崇められました。

彼らが殉教者と違ったのは、今なお生きているということです。

生きながら聖人のように、拷問に耐え抜いた信仰を褒め称えられ。

そうした時に、迫害に耐え抜いた聖証者たちは

自分たちの聖さ、強さにおいて、棄教者たちを

許すことが出来なかったのです。

自分たちの正しさに最大限の評価を持たせるために、

やすやすと棄教者を受け入れる訳にはいかなかった。 

結局激しい議論の後に、ローマ司教カリストゥスの

「許されない罪は無い」という言葉が賛同を得て、

棄教者たちの教会への回復の道が定められます。

しかしそのことをどうしても受け入れられなかった人々は、

教会を去り独自の道を歩む。 聖さを履き違えた

者たちの頑なさがもたらした悲劇でありました。 

そうやって自分の聖さを誇るのではない。

むしろ私たちはどうしても聖い者になれない、

汚れをぬぐうことができない者であることを認めながら、

そういう私たちのために死んでくださった

キリストの十字架を受け入れること。

そうやって、父なる神様の下に帰ることが

私たちに許された唯一の聖さである。 

自分の聖さを主張する中には平和は訪れない。

ローマからの迫害に苦しむ教会が、

しかしそこで自分たちの正しさと敵対者の不義を主張するのではなくて、

そこでこそ自分たちが罪びとであることを認めよ。

罪許された罪人であることを告白せよとヘブル書は教えたのです。

悔い改め無くして平和はこない、と。

5.神より始まる

その一つの例として16節でエサウとヤコブの双子の兄弟、

エサウの物語を引用するのです。

16節
「また、だれも、一杯の食物と引き替えに

自分の長子の権利を売ったエサウのように、

淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。」


父イサクに愛されたエサウと、母リベカに愛されたヤコブ、

親の偏愛を背負って育ったエサウとヤコブの間には、

当然のように対立関係が生れます。

そのことが決定的になった一つの事件が創世記に記されています。 

弟ヤコブが料理をしていた。そこに獲物を追いかけ、

空腹で倒れそうになった兄エサウが帰ってくるのです。 

エサウは弟が作っているレンズ豆の煮物を見て

「その赤いのを、赤いのを食べさせてくれ」と頼みます。

その料理が何であるか、彼は関心を持ちません。

狩りに夢中、大きな獲物を仕留めたい。

他のことはどうでも良いのです。

そのエサウの心にヤコブは付け入ります。 

空腹になればとにかく美味しい料理をお腹一杯食べることしか考えない

エサウの性格を良く知って、したたかにヤコブは

長子の権利を料理との引き換えに求めます。

するとエサウは、

「見てくれ。死にそうなのだ。長子の権利など、今の私に何になろう。」

こうしてエサウは狩りに夢中になることで

神様から頂いた大切な長子の権利を弟ヤコブに譲ってしまうのです。 

何か大きな、自分を満たしてくれる一つのものだけを

夢中に追いかける生き方というのは、このような危険性をいつも伴います。 

人間にはこういう性質があります。

獲物を追いかけている時は、大きな獲物しか目に入らなくなる。

腹が減れば、腹を満たすことしか考えられなくなる。

お酒に目が眩むと、一杯のお酒を飲む為には

家族が壊れても構わないという価値観に陥ってしまう。 

エサウの姿が正にそれです。

一回の食事が長子の権利よりも大切に思えてしまう。

17節
「あなたがたが知っているとおり、彼は後になって

祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。

涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。」


ここでヘブル書が様々な言葉で私たちに教えていることは、

自分で追い求めることの決定的な過ちです。



18節以降で語られているのはモーセが十戒を

神様から頂いた時の恐れです。

21節
「また、その光景があまりに恐ろしかったので、

モーセは「私は怖くて震える」と言いました。」


あの大指導者モーセにして神が十戒を下された時に恐れ震えた。

私たち人間が作り出すものと、神がご一方的にくだされるものの

異質性が強調されているのです。

私たちが、自分で頑張って、自分の知恵や力で

何がしかを手にできると思った時に、そこにある

魅力・望み・喜びは抑えがたく大きい。

エサウが長子の権利をも放り出す程に狩りに夢中になり、

大きな獲物をしとめることの喜びに心を奪われてしまったように、

頑張ったらこの先に素晴らしい物を得られると思い込んだ生き方は、

どこかでコントロールが効かなくなってしまいます。

家族も、健康も、財産も、過去も、未来も、どうでも良い。

罪というのは、アダムとエバが神様との親しい関係性よりも

木の実一つに魅力を覚えたあの時から変わらず、

無価値なものに飛びついてしまう人間の愚かさであり、

その愚かさを手玉に取るサタンの働きです。

自分の内側から何か良い物が出てくると思ったら、

私たちの人生はそこでもう崩れていってしまう。

のんびり礼拝など捧げておられない。

もしこの時間をあのことに使えたら、

祈っているくらいならあれこれ努力した方が。

信仰に価値を見出せなくなるでしょう。でもそうではない。 

私たちは神様からまず頂かなければいけない。

私たちの外側から、私たちとは異質なところから

私たちの方に来てくださる神様を受け入れていくこと。

生きることではなく、生かされること。

手に入れるよりも、与えられること。

聖さを示すことではなく、聖められること。 

いつもまず私たちは神様に頂くところから始めなければいけない。

そうやって頂いたものの恵み、価値を噛み締めた時に

そこで私たちにどのような生き方が生まれるのか。

神様からご一方的にいただく恵みの豊かさを知るならば、

怠惰な人生に留まることなど考えられない。

やはりそこで、頂いている恵みに感謝しながら、

平和を求め、愛を求め、後に続く人々を思い、

被造物の管理者として一生懸命生きるでしょう。

精一杯努力するでしょう。 

24節にはっきり記されています。

「さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、

アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」

あなたがたを聖めるキリストの十字架の血潮があるではないか。

その恵みの完成がドンドン近づいているではないか。


2000年前に起こったローマ帝国からの迫害。

その厳しさは真に現実的であり、今日の命の問題、

明日の家族の問題であった。

そこでしかし、あなた方の内側から生まれる

何がしかに頼るのではなく、神様が与えてくださる聖さを追い求めよ。

それが平和に繋がると聖書は教えたのです。

観念的な信仰ではありません。

誠に私たちの生活の只中に根差した現実の信仰です。 

皆さんが様々な課題を抱えて生きておられる。

問題に直面し、居ても立っても居られない状況の中で、

何に期待するのか。

まずはじめに自分が何かを生み出すことか、

それともまず神様が与えてくださるものに期待をするのか。

どちらに始まる望みが皆さんの人生を支配するのか、この順番は決定的です。 

聖書の始まりに何と書いてあるでしょうか。

「はじめに神が」、始まりである神様に信頼することが、

この世界の秩序であり、その中に生まれてきた人間の祝福です。


大事なことは、いつもロックと聖書が教えてくれた。

 Peace, Love and Understanding

 今、ここにある幸いに感謝しよう。